綿野舞 watanobu 山歩紀行 2010.5.12 名倉古道
 標高300m付近  新潟県関川村    
 
関川歴史館主催「古道を歩く会」

今回は、関川村の安角(あずみ)集落から沼集落につながる山道・名倉古道を歩く。

米沢13峠の街道は、大石川の合流点下川口集落から、荒川の本流に沿って鷹ノ巣峠、榎峠と越えて沼集落につながっている。
これがいわば表街道だとすると、大石川を少し遡った安角集落から標高300m程の低山を越えて沼集落につながるこの名倉道は、いわば裏街道か間道に当ろうか。今は、ほとんどが林道になっていた。


雨の降る午後、安角集落から林道を辿った。
標高300m程の峠に至る少し前、杉の木立の合間から山が覗けて、あれが立烏帽子だと教えてもらった。
立烏帽子のある葡萄鼻山と丸山のちょうど中間辺りの低山帯を越えているのだった。

峠を越えると、沼集落へ流れる小綱木川の上流の枝沢に出た。大石川流域から沼川流域に出たことになる。

峠を越えて下った辺りにちょっとした平地があり山田になっていた。ここが名倉という地名で、かつては人家もあったという。

そこの山中に、流紋岩の巨岩があり、岩窟の中に祠があった。今は山の神が祀られているが、かつては馬頭観音が祀られていて、名倉観音と呼ばれていたという。

南北朝の時代、後醍醐天皇の腹心藤原藤房が諸国行脚の途中、旅人の安全を祈願してここに祀ったものと。
江戸時代になって、その名倉観音が、ある人の夢枕に立ち、そのお告げに従い下流の関郷の中心部に移したとか。
現在も辰田新集落に鎮座しているとのこと。
以上は、当日の講師で今は亡きY大先達の現地講話から。独特の口調が懐かしく思い出される。


名倉古道、今は面影を探すのも難しいが、往時は旅人の行き交う街道だったことを物語る伝承が、この日また一つ語り継がれた。


さて、名倉を後にして道を下ると、山が小綱木川の両側に迫り、小規模ながら渓谷になっているところがあって、清流が迸り滝の音が轟いて、思いも寄らぬ渓流美を呈していた。
そして、その渓谷が開く谷口に出ると、今度はまた思いも寄らないような棚田が開けていた。
田毎の月でも見られるような長閑な田圃の傍らを激流から急変した穏やかな小川がさらさらと流れていて、その小川にかかる丸木の一本橋がなんとも風情があった。

往時の旅人も、こんなふうに変化に富んだ風景を楽しみながら先を急いだのだろうか。名倉古道、幽玄の道ではあった。
 
 
 
 
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