綿野舞(watanobu)山歩紀行2017
 
 3月26日 今日もまた 道なき山の 雪を行く
光兎山966.5m 無名峰670m 新潟県関川村  地理院地図は→こちら
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頭巾山1017.4mは新潟百山の一つですが、登山道なく行くに難しい山です。以前からの念願叶えようと勇躍出かけたものの、藤沢川の渡渉に失敗し早々に撤退。代わって、これまた登山道のない冬限定ルートで光兎山を目指すことに。急登の連続で670mのピークに達したものの、その先に痩せ尾根雪庇のナイフリッジあり。稜線の雪は緩み始めていて危険と、ここで本日2度目の撤退。
安全第一、それに、頂きに立つだけが登山ではないのです。お陰でずっと以前から訪れたいと思っていた歴史遺産を見ることができ、その上に絶景あり、愉快な仲間あり、それはそれは素晴らしい山行となったのでありました。
今日(3月27日)、各地で山岳遭難が報道されています。無念の極み、哀悼の意を捧げます。
渡辺伸栄watanobu 
この日の絶景は、670mのピークから見上げた光兎山の山頂。ここから高度差300mだからあと1時間がんばれば登頂なのだが、100m上がった辺りに険しいナイフリッジの雪庇が見える。
そこまで登って雪庇の様子を見ようと先に進んだが、途中の尾根の雪が緩んでいてクレバスが出来始め、そこに昨日の新雪が被さっている。片足を踏み抜いたら、下は空洞になりかかっていた。これはアブナイ。山は常にネガティブに思考すべしと、そこでピークへ引き返した。
670mの白いピーク上に陣取って、雪のテーブルを作り、暫しの饗宴。絶景独占。バックは、鷲ヶ巣山。目を転じれば、雷峰から光兎山につながる夏道の稜線があって、見慣れた山容とは異なった角度からの光兎山。そして、ぐるりと360度の眺望、遠くは朝日連峰の白嶺、新保岳の山塊、村上のお城山と日本海。
今日行くはずだった頭巾山は山の陰で見えないが、そこへ続く稜線が途中のコマタ峰までは見えていた。山は逃げない、また行くチャンスがあるだろうと、地図に描いたルートを眼前に辿る。
勧められるままに二口三口と飲んだ甘~いリキュール酒、久しぶりのアルコールですっかりいい気分。寝てもいいよ、なんて労わられて・・・。
冬道は時間短縮コースだから、それだけにキツイ急登の道。()う這うの(てい)で670mのピークに登り上がったら、目の前に、いつも見ている姿とはまったく異なった光兎山の山頂があって、なにか不思議な気がした。山はいつも登るたびに新鮮な感動を与えてくれる。ここまで登らなければ、この景色は見られない。ここまで登った者だけが貰えるご褒美か。
<コースとタイム>青線=予定 赤色=実際
田麦発5:30-6:30渡渉点(停滞・史跡「堀切」探訪)7:40-光兎山冬道口発8:20-10:35標高670m地点12:40-14:33冬道口-15:15田麦着
頭巾ルートの最初の関門、藤沢川渡渉点。ここで服と靴を濡らし、着替えや暖とりなどで停滞。頭巾山までは登りに6時間往復10時間超の予定。今日は無理と、ここで撤退することにした。とは言え、ただでは帰らないのが我ら。靴や衣類の不足分はそれぞれの予備の物品から貸し借りして間に合わせ、次の山を目指すことにした。山で渡渉の失敗は、まま起こりうること。めげずに、どのような事態が起ころうとも柔軟にかつ適切に対応できる、これぞ山岳会を名乗る所以というもの。かく言う小生も、渡渉が終わるまでと履いてきた長靴が劣化して穴が開いていたのを、川水で靴下が濡れるまで気づかなかった。入念に準備したつもりでも見落としはあるものだと、改めて戒めた。
渡渉点でぜひ見ておきたかったのが、歴史遺産の「堀切」。正面の尾根がU字型に切れ落ちている箇所がそれ。「田麦の掘割」とも言う。寛永年間(1624~)に村上藩が、藤沢川(荒川水域)の水を門前川(三面川水域)に落とすため掘り割った個所。文化四年(1807)、水を取られた形の女川下流域の幕領農民が訴えを起こし、結局は堰堤を造って埋め戻されたらしい。
「田麦の掘割」のことは、「せきかわ歴史散歩」(高橋重右エ門著)に詳しい。今回、改めて読み直してみて、ここの分水が200年近く使われた後に訴えたのは藤沢川流域民ではなく、女川最下流域の領民だったことが興味深かった。
現地に立つと、用水を求めた当時の人々のあがきにも似た切実感が伝わってくる。著名人の歴史を辿るのも悪くはないが、私には、このような名もない人々にとっての歴史的出来事の方に興味がある。
堀切を閉め切った堰堤上から門前川に流れる沢を見た。
現地に立てば、想像以上のものだった。尾根が最も低く、両川筋が最も接近した箇所に目を付けたことは分かるが、それでも尾根を断ち切り、流路を変え、沢を広げ水を落とすことは、相当の大工事だったに違いない。
藩主は堀丹後守、村上藩版図最大の時代。関川村ほぼ全域が藩領だったから文句の言いようもなかったのだろう。が、その後180年ほど経って、荒川流域が幕府領になっていたこともあり、新田開発の必要から訴訟となったものだろう。
それにしても、200年近い既得権に挑んだのはなぜか。門前川下流域の新田開発のため、分水が当初よりも大幅に拡張されたのが原因のようだ。だからだろう、幕府の裁定は、分水の当初目的である村上城の溜池用としてだけ許可するというものだったという。
とすれば、その後も分水は小規模に可能だったわけで、現在のような完全な締切堰堤を造ったのは、もっと後の時代なのかもしれない。残念なことに堰堤は雪で覆われていて、工事跡などは見られなかった。
いつかまた、頭巾山に挑戦する折りにでも、雪のない堰堤を見てみたいものだ。
方針を転換して光兎山冬道の急斜面を直登し、ようやく尾根に出たら、温かい春の陽射しが降り注いでいた。この日この後気温はどんどん上がった。少々濡れた靴下でも問題なかったのはそのお陰だ。氷点下10度以下の悪天候だったら、濡れた衣類の山行などもってのほかというものだ。
ところで、陽射しがまぶしいことを子どもの頃は「かがっぽい」とか「かがっぺ」とか言った。これは方言だとばかり思っていたら、だいぶ以前のことになるが、何かの本を読んでいてれっきとした古語だと分かった。
同じように、川や池にはまって服や靴を濡らすことを「かっぱい」とか「かっぺい」とか言っていた。Unqさんたちは「かっぱぐ」と言うのだそうだ。森敦の作品には庄内弁で似た言い方が載っていた。今回気になって調べてみたら、東北地方では「きゃっぱり」とか「かっぱり」とかというらしい。「かぶたれる」という言い方もあった。「かっぱぐ」もあったが、これは、引き剥がすの意味らしい。
これらも、単なる方言というより、日本の古語を引きずっている言葉なのではないだろうか。だから、「かがっぽい」も「かっぱい」も簡単に消えさせたくはない。
そういう意味でも、今回の「かっぱい事件」、阿賀北山岳会に長く語り継がれるべき由緒ある出来事となったのである。

YouTube「積雪期だけの冬道ルートで光兎山へ」は→こちら
 
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