綿野舞watanobuの記2021    watanobu634@gmail.com
筆・渡辺伸栄watanobu(新潟県関川村在住)  
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12月29日(水) 誰が為に祈る哉 折の大明神
俄かの降雪も今はどうにか落ち着いた。一昨日は凍てつくドームで独り10k走。手袋を二重にしても痛く、吹き出た汗がいっきょ冷却。昨日は、ジムのコラッシェでマシン8k走。うって変わって暖かく賑やかで、Tamuちゃんも来て、Youmyさんもいて、Miyazimaさんもデビューして、みんな揃ってトレ納め。息子からのお歳暮は、生鰤一本。解体に大童。娘からのは、朴の葉に包まれた謎の飯。解明は正月。Okkaaも自分も様々あったが、終わってみればいい一年。村の広報紙1月号が届いた。古文書紹介を連載させてもらえたのも僥倖。挿絵に使った大里峠、別名は折峠とも。峠歩きを担当させてもらえたのも僥倖。そこで撮った写真を挿絵に使えるのも僥倖。全てが僥倖。神の意のままに Let It Be.僥倖のめぐり逢いに感謝して一年が終わる。今年もご愛読いただき、ありがとうございました。皆様、良い年をお迎えください。
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 12月26日(日) 越後のオノコたるもの塩引くらいは
越後では塩引きつくりは男の仕事、と思ったら大違い。私に塩引きづくりを伝授して下さったのは、Y先輩の奥様で、一日何十本も釣り上げてくる鮭を彼女は片っ端から処理していた。それで、私にもらってもらうとありがたいのだなどど言われて、喜んでせっせといただきに通った。そのY先輩も他界して早三年半、私の塩引きは正統Y家流の分派。思えば、我家も専ら母が塩引きつくりだったようだ。私の小さい頃のことだそうで、物心ついてから、我家では塩引きつくりはしていない。多分、祖父が荒川の鮭漁から手を引いて、鮭が手に入らなくなったからではないかと思っている。当時、塩引を作る人たちは、遠く庄内辺りの川へ鮭を買いに行っていたから、荒川も三面川も今のようには、鮭は採れなかったのかもしれない。今日、1週間前に寒風に晒した2本を箱に詰めて送るつもりだった。それで、2階の軒下から取り込んだら、昨夜来の吹雪にあって雪まみれ、せっかく乾燥した肌がしっとりと濡れてしまって、もう一日室内で干すことにした。残りの5本は一昼夜の塩出し後、水から上げて、今度は、雪を被らないよう竹デッキの屋根の下に吊るした。乾くまで1週間、これらを送る頃には正月になっているかもしれない。ま、塩引は御歳暮と、決まっているわけでもあるまいし。昨日はクリスマスのケーキも一応食べて、今年もあと6日。だからと言って、特に何があるわけでもない毎年の年の暮。
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12月19日(日) 来た来た きっぱり冬が来た
降ったね、これ以上いらないね、降らないと仕事がなくて困るしね、朝風呂の会話は毎年の繰り返し。冬支度は何もしていない。スノーダンプは一年中裏口に立てかけたまま。今年は冬囲いしないねと、隣のWさん。折れたければ折れてもいいよと言ってあるのでと、私。畑も、山林の手入れも、冬囲いも、腰に負担のかかる作業はすべてやめた。唯一の冬支度は、鮭の塩引き。5本一気に処理した日はさすが腰に堪えた。今日、2本を水から上げて寒風に晒した。残り5本はまだ塩漬け中。今年は不漁だそうで、Kさんのお陰で何とか例年通りにお歳暮ができそうだ。そうそう、そういえば、冬支度がもう一つあった。畑を止めたので今年は冬野菜をいつも来る八百屋さんから大量?に仕入れた。八百屋さんが次に来るのは5月だというし、後期高齢者2人、車庫に並べ置いた野菜で春まで食いつなごうか。
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12月5日(日) 遅ればせ GoProデビュー 能化山 ⇒「山の記」へ
村上市間島にある能化山(のっけさん)。380mの里山ハイキングで、2021年の我らが阿賀北山岳会、山納めです。日本海の海鳴りを聞きながら、ガサゴソと落ち葉を踏み歩くのも気持ちのいいものです。今朝の雨はここでは雪だったらしく、山頂に淡雪。冷気と共に初冬の山の雰囲気を漂わせています。能化は「のうげ」とも読んで、仏教用語のようです。登山口に寺院があるので、その関係の山名でしょうか。山の尊さは高さにあらず、仏に謂れありとすれば、この山もまた尊し。
さて、これまで長く愛用してきた一眼レフともついに決別。今日からは超軽量カメラのGoproデビューです。動画なので音声を拾います。よって今日から以後、山行中は高尚な会話に徹することにしました。例えば、人生いたるところ青山あり、山中いたるところトイレありとか。午後早々に帰宅したので、早速動画を編集してYouTubeにUPしました。「山の記」からどうぞ。
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11月29日(月) 小春日に 怪我の功名 土手走り 
ヘルペスには酷い目に遭わされた。それでも、怪我の功名と言うべきか、体重が3キロも減った。水の入った500mℓのペットボトル6本分。夏山は大体4本担いで登るが、ずっしりと重い。それが6本分削がれたのだから、それはもう、身体の軽いこと。いつもの5キロ折り返し土手ラン10㎞コース。平均キロ7分ペースのゆっくりラン。気持ちよくノンストップで折返して、全く負担を感じなくなった。7分10キロがこんなに楽になったのはいつ以来だろう。一周160mのドームを2周しただけで息が上がっていたどん底状態から、ようやくここまで回復した。来春のマラソン大会シーズンまで、キロ6分ペース復活が目標。2019年春のハーフの記録2時間6分。あれから3年、コロナ禍で大会のなかったせいもあるが、足底筋膜炎に脊柱管狭窄にヘルペスにと、次々と故障に見舞われた。すっかり走力が落ちて、今、ようやくどん底から這い上がって少し光が見えてきたところ。さて、どこまで元に戻せるか。11月終わりの小春日和。 
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11月6日(土) 宇津峠 三潴の殿も道普請 ⇒「山の記」へ 
前月23日に予定していた宇津峠歩きは雨で取り止め、この日に延期となった。「待てば海路の日和あり」まさに言葉通りの日になった。前半は、明治から昭和にかけて使われた車道の廃道を歩き、峠に到着。後半は、江戸時代の古道とつづらの廃車道を交差しながら下山。峠には、弘化2年の道普請供養塔。昔見たときよりも黒苔に覆われて文字が判読しにくくなっているが、三潴兵内の文字はまだ読み取れる。この人、我らが上関城主・三潴氏の子孫。米沢藩士となって、十三峠改修の奉行を務めた。三潴氏は上関城で米沢口を守り、景勝移封に従って小国へ移り、そこで越後口を守り、その末裔もこうやって十三峠道を守る。何百年も十三峠米沢街道の守りについてきた三潴氏を思うのは、私だけ。いやいや、Tamuちゃんも米沢博物館の学芸員氏に向かって「我らが三潴氏が国宝屏風に関わっているのです」などと言ってくれた。さて、それはそれとして、この日の参加者は総勢35名。村内はもちろん、新潟、胎内、村上、鶴岡からも。先達(辞書には雇われの案内人とある)を務める身としては、何とも嬉しい限り。主催のTamuちゃんとしても余程嬉しかったらしい。皆勤参加者へ記念品を配るなど甲斐甲斐しい。1回雨で流れたせいで、今年度の峠歩きはこれで終了。予定の最終峠・諏訪峠歩きは来年に持ち越しとなった。さて、それもそれとして、この日の山の紅葉はまた格別で、それらの詳細は「山の記」で。
YouTubeは⇒こちら
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10月30日(土) 高坪の巨木の下に勢揃い ⇒「山の記」へ
公民館登山の今日が本番日。絶好の晴天に恵まれた。下見から1週間、山の紅葉はグンと進んでいて、オミゴト状態。下見の山頂で震えながら昼食を摂ったのがウソのような温さで、木々の色を愛でながら秋の山中を歩く。高坪山縦走の見所は何と言ってもブナの巨木たち。巨木ゾーンの入口に、さながら守衛の門のような二本の巨樹。まずは、その下で全員集合、記念撮影。まさに老若男女に善男善女。二枚目の画像は、そこから山頂を越えて3,4㎞進んだ先に、最近発見されたという巨木。見たところ、この巨木が一番の巨大さではないかと、衆議一決。それにしても、胎内川から荒川を繋ぐ山上の架け橋・高坪山完全縦走、行程10㎞、累積高度差900m。山頂の標高570mに似合わない長行程をものともせずに歩き通したこの一行の健脚ぶり。さしもの巨樹たちも脱帽状態でした。途中の巨樹の下で和やかなグループ写真も撮れているのですが、紅葉の写真も含 めて、それらは「山の記」で。因みにこの日は吾輩の誕生日、いよいよ後期高齢者。とはいえ、同行の大六氏は88才。その健脚ぶりを見れば、なんのまだまだ。ヘルペスなんぞはどこ吹く風というものだ。YouTubeは⇒こちら
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10月24日(日) 高坪のブナの巨木の下見行 ⇒「山の記」へ
1週間後の公民館登山は高坪山塊を縦走する。今日はその下見。山頂標高は570mの低山ながら、縦走となれば歩行距離は10㎞、アップダウンの累積標高は900mもある。病み上がりの身には少々応えた。ヘルペスめのお陰でだいぶ体力を落としてしまった。ナニ、どん底に落ちればあとは這い上がるだけサ。それにしても、脚力を落として改めて、高坪山の魅力を再認識させられた。低山ハイキングの山、ちょっと足慣らしの山、などと思われがちだが、どうしてどうして、こうやって縦走してみれば、なかなか奥の深い山。南端と北端は中世戦乱の時代を偲ぶ山城ゾーン。尾根を断ち切った堀切や山を平らに均した郭(くるわ)の跡がくっきり。山頂中心部は、スラリと伸びた若ブナの美林帯。幹や枝を微妙にくねらせながら一斉に空を目指す若い姿態は何とも好ましい。それに白黒マダラの幹の色、これほど人に好まれる木があるだろうか。そして、中央の美林帯と南北端の山城ゾーンに挟まれたゾーンが、南と北のブナの巨木ゾーン。巨木1位2位3位を争うかと見える木々は、ただただ、すごいの一言。南のゾーンの巨木はかなり古く、以前から知る人ぞ知るの木々。今回、北のゾーンで新たな巨木が発見されたという。勝手に名付けて新巨木。早速見に行った。南のゾーンの古巨木と違って、まだまだ天に向かって伸びようとしている盛りの木。この後、どれほどの巨木になるか。とまれ、チーム中ノ岳の二人と久しぶりの三人行。衰えた脚へのいい活入れとなった。本番日の晴天を祈る。
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ヘルペスウイルスにやられて、1ヶ月「綿野舞の記」の更新をサボりました。ようやく回復しだしたので、9/25の記事から遡って更新してあります。ヘルペス罹患の経緯も含めて ⇒こちら からどうぞ。
10月18日(月) 良寛の足跡探す宇津峠  ⇒「山の記」へ
耳鼻科の先生の話では、顔面頭部右半分のピリピリ痛と右喉のマヒは、ヘルペスウイルスに侵された感覚神経の後遺症らしい。運動神経の方だったら顔面マヒもあり得たというから、恐ろしい。1ヶ月分の薬を新たに処方。元々診療所で処方してもらっている薬に加え、これで3度3度の食後に6,7種の服薬。腎臓が悲鳴を上げているのが分かる。それでも、薬のお陰で日に日に薄皮を剥ぐように回復しているのが分かるのだから、治りたい一心でせっせと薬を飲む。昨日予定の公民館登山は雨で中止。それで、ドームへ行ってRun再開。実に20日ぶり。2㎞ほどウォーク、それから恐る恐る走ってみた。頭に痛みは響かない。それでも息が上がって2周がやっと、1周歩いて、また2周走る。どうにか2㎞。さてその翌日の今日は、宇津峠歩きの下見。本番は23日。この峠、荒川水系と最上川水系の分水嶺になっていて、その尾根筋は、朝日連峰と飯豊連峰を繋いでいる。この尾根筋をずっと辿ると西の果ては鼠ヶ関で日本海へ出る。東はと言うと、飯豊連峰から吾妻連峰・蔵王連峰へ繋がる。ずっと以前、暇なときに、そこから川を一本も渡らずに太平洋に出るルートを地図上で探したことがある。確か、仙台の北、塩釜や松島の辺りで海に出た様に覚えている。陽だまりで昼食を食べながら同行のTamuちゃんにそんな話をした。地図は最も苦手だという彼女、さて、どこまで理解したものか定かではない。今も、峠の馬頭観音碑の横の案内板を見ながら、ワタシ、いまどこにいて、どこへいこうとしてるのでしょ?などとおっしゃる。才媛にも弱点がある、そこがまたなんともいい。
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10月10日(日) 病癒え徳網山へ足慣らし ⇒「山の記」へ
頭は相変わらず痛い。が、奥から突き上げてくる痛みは弱くなり、表面のピリピリ痛だけになったから、じっとしているよりは動いている方が痛みを紛らせる。昨日、米沢を歩いてそれが分かったから、今日は徳網山の下見に参加した。1週間後の公民館登山の下見。ほぼ10日間、寝たり起きたりの生活だったから鍛えた四肢の筋肉はがた減り、その上食欲全くなしで、体重がた減り。喉の右半分はまだマヒしたままで、咀嚼した後の食物は水で喉の奥に流し込む状態。困るのは時々誤飲が起きて、咳き込むこと。それでも、低山のゆっくり登り、なんとかついて登ることができた。10月3日4日に予定していた中ノ岳山行はとても参加できる状態になく、無念のパス。決行したUnqさんとYoumyさんによると、相当ハードな登頂コースだったとのこと。今はどん底の体調、ここからどこまで這い上がることができるやら。 徳網山の山頂は、眼前に朝日連峰。祝瓶から大朝日、以東、懐かしい山々。あの峰を再び歩く日がやって来るかどうか、ましてや、中ノ岳など、もはや夢のまた夢かもしれない。それでもこうやって、低山ハイキング登山ができるだけでも有難いと思うべき。山頂から、朝日連峰、吾妻連峰、飯豊連峰と懐かしい山々を見渡せただけで、何やら元気が湧いてきましたぞ。詳しくは「山の記」で。
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10月9日(土) 国宝の第4扇にかぶりつく 
発疹は口の下に3粒ほど出ただけで、それも消えたから、人様にうつすこともないだろうと、歴史館の上杉美術博物館参観行事に予定通り参加した。今回は何しろ、国宝洛中洛外図の本物を参観できるチャンス。これは外せない。左隻第四扇の下部に公方邸が描いてある。しゃがみこんでそこをジイっと眺めた。Unqさんからストリップのかぶりつき客だと笑われたが、これには深いわけがある。公方は将軍義輝、その屋敷の外に描かれているのは、緋毛氈の鞍を置いた馬、白傘袋、そして塗輿の行列、これらは関東管領上杉謙信の象徴。ここに将軍義輝の、謙信への厚くて熱い想いが描きこまれている。本物の図屏風でその場面を確かめたかった。それで、しゃがみこんでガラスに額をくっつけて、見入っていたのだ。ここの場面のことを「上関城四百年物語」に書いたのは、もう何年前のことだろう。リタイアして時間に余裕ができて好きな歴史調査に入ってからだから十数年前。図版やレプリカでこの場面を何度も見たが、ようやく本物で確かめることができた。<上関城四百年物語のこの場面については、⇒こちら> 謙信の上洛を待ち焦がれた義輝。関東平定にかかりっきりで上洛できない謙信。その事情説明に京へ派遣されたのが、我らが上関城主・三潴出羽守。結局、謙信の上洛が叶わないまま暗殺されてしまった義輝。「ほら、この絵のように早くボクの近くに来てボクを守って」と、永徳に描かせた義輝の切なる想いが伝わってくるではありませんか。
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9月26日(日) カニ喰ってヘルペス菌に侵されて
ノボラーズ企画で尾神岳へ。ナビのままに進んだルートは、県道13号線。後で分かったが、この道、山岳狭隘路でなかなかのスリラー道路。Unqさんの名車のお陰で何とか尾神岳パラグライダーのテイクオフ場までたどりついたものの、せめて展望台まで登ろうかと仕度をしたら雨。寒くてこりゃダメだということで、早々に撤退。迷わずまっすぐ寺泊カニの宿へ。今回は喰い放題は止めにして、カニ御膳でゆっくりとカニを味わうことになった。
さてその二日後の夜こと。右の後ろ頭が痛い。頭から喉の奥まで頭部顔面右半分がやたら痛い。髪の毛に触っても表面ピリピリ。表面どころか耳のずっと奥の方からズッキーンズッキーンと痛みが差し込んでくる。とても寝られない。その上、手足も顔も痒い。こりゃ変だと、翌朝早々、診療所の名医に見てもらったら、ヘルペスかとの見立て。まずは脳も心配だからと紹介状をいただいて、即、村病脳外科へ。CT撮ったら異常なし。なら耳鼻科だと翌日出直し。耳鼻科の先生の見立てもヘルペス。早速処方の薬を飲み始めたら、夜にジンマシンがびっしり。怖くなって服薬を中止したものの、翌日は土曜日。月曜まで待って、耳鼻科へ。そこから皮膚科。皮膚科のベテラン医師が調べて言うには、もともとジンマシン体質で薬のせいではないと。それで、ジンマシンの薬も追加して、服薬再開。土日は市販の塗り薬で凌いだと言ったら、あんまり変な薬は塗らん方がいいとピシャリ。この先生、横柄な割に親切で、ヘルペスは1週間薬を飲んでウイルスを抑え込み、あと1週間、自力回復を助ける薬でほとんど納まるのだと、丁寧な説明。またジンマシンが出たら皮膚科へ来るようにと。それからせっせと三度三度に服薬。薄皮を剥ぐような進度だが、強烈だった頭痛が日に日に弱まっていくのが自分でも分かる。皮膚科の先生の言う通り、1週間で痛みが半減した。とは言っても、その半減の痛みがまだまだ手強い。つづきは10/9の記へ。
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9月25日(土) 峠越え7キロ歩きこの笑顔 ⇒「山の記」へ
歴史館の十三峠歩き、今年度第3弾。市野々宿から桜峠を越えて、ここ、白子沢宿の白子神社に到着した一行。歩行距離7㎞、高低差180m、車道舗装の峠道を完歩して、疲れも見せずにこの笑顔。この後、バスに乗車して若干の移動の後、数百メートルの才ノ神峠を歩いて、本日の行動終了。昨年から始まった十三峠歩き。これでちょうど10峠完遂。残す3峠中、大久保峠は通行不可のため、宇津峠と諏訪峠の2峠を10月と11月に越える予定。果たして、今日のような天候に迎えられるかどうか、全ては神様の気分次第。詳細は「山の記」へ。YouTubeは⇒こちらから 
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9月20日(月) 見下ろせば盆地の底に実りの田 ⇒「山の記」へ
稲刈りが始まればこの光景は一変する。絶好天のこの日がラストチャンスと、朴坂山へ駆け上がった。眼下にUnqさんの家。今日は休みらしいから、この写真を送ってやれば驚いて飛び起きて、2階の窓を開けてこっちを見るだろう。 そうしたら、ズームで盗撮だ。などと悪戯心を起こしてラインで送ったら、豈図らんや、八海山にいると返信が来た。山岳会の山行に備えて、岩の八峰を乗り越えて下見中だったとのこと。いやはや、なんとも。400mの山の上にいるのがどうにも小粒に思えて身を縮めましたね。それにしても絶好天。山頂からドローンを限度いっぱい50m上げると、視界遮る木立の上、360度の大展望。盆地を取巻く山々、盆地の底からは見えない遠くの山々まですべて見える。杁の小屋は勿論、大朝日の小屋、鷲ヶ巣の2峰の間から以東岳が覗き、小屋まで見えた。若ぶな山の後方に横たわるのは吾妻連峰のようだ。日本海の海岸線の向こうには、粟島に佐渡。改めて女川の河岸段丘を見れば、くっきり5段。見事な土地利用、用水の威力。それは荒川両岸も同じ。この地に踏みとどまり、根を下ろし、生き続けた人々を思う。詳しくは「山の記」で。
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9月14日(火) 風はしり芒ゆらいで塞ノ神 ⇒「山の記」へ
白子沢宿と沼沢宿の境の地に立つ塞(さえ)ノ神。春にここに来たときは深い草薮を漕ぎ分けて入った。私たちのために刈ってくれたんですかねーなんて、同行のTamuちゃんは言う。私たちというのは、今度歴史館の峠歩きでここへ来る予定の一行のこと。白子沢宿であったお母さんも、沼沢宿であったお母さんも、市野々から歩いてきたと言うと、別に驚いたふうでもなく、ああ、峠を越えてかと、極平然とした反応。ということは、我らのように峠歩きを楽しむ人が結構いるということ。草薮を刈ったのは、そういう人たちのためかもしれない。私たちもその部類に入る。ということであれば、Tamuちゃんの一言もあながち自己中とも言えまい。学識のTamuちゃん曰く、塞ノ神信仰はいつしか地蔵信仰と結びつき混合しごっちゃになったのだと。♬村のはずれの お地蔵さんは いつも にこにこ 見てござる♬ 童謡「見てござる」の一節。どうりで、地蔵はいつも村のはずれにおわします。
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9月12日(日) 巻機の大分水嶺 駆けてみる ⇒「山の記」へ
右端の巻機山山頂1967mから牛ヶ岳1961mに繋がる稜線、起伏のないなだらかな天上の道。背の荷は山頂の向こうの御機屋1933mに置いてきたから身は軽い。靴も今流行りの軽靴。トレイルランを気取って駆けてみた。2000mの天空ジョギング。なんともはや、気持ちの良いこと。それにここは、大分水嶺。右に降った雨は魚野川に流れ信濃川となって日本海へ。左に降った雨は真下の奥利根湖に貯まり、やがて太平洋へ。日本の脊梁を走っている、なんとも雄大な気分。正面奥の山並みは、谷川連峰。向かって左から谷川岳、一ノ倉岳、茂倉岳の三ピークが並び、万太郎山、仙ノ倉山の頂が見える。今、牛ヶ岳に駆けあがってくるUnqさんの背後の稜線は、巻機から朝日岳へ繋がり、そこから右へ下れば謙信越山の道・清水峠に出、さらにぐるっと回って茂倉岳から谷川岳に繋がる。朝日岳から左へ進めば、笠ヶ岳、白毛門。馬蹄形縦走と言われるその道は、望みながらまだ果たせないまま。来月から後期高齢者、もう体力も残りわずか。想いだけは天空を駆ける。8年ぶりの巻機山、詳細は「山の記」で。
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9月3日(金) 風そよぎ 船頭の酒 三味の音  
荒川河口の海老江は旧湊町、今は昔、出船入船大賑わいの地。その痕跡を探して村内探訪。幕府の御米蔵跡、館林藩の陣屋跡、船着場、水際線・・・そして、ここは廻船問屋だったかつての大地主の邸宅。秋の風が邸内の巨木の葉をゆらしたそのとき、櫓を背負った船頭さん一人、狭い小路を駆けて湊へ急ぐ。夕べ、花街で遊び過ぎてどうやら遅刻の態。いきなり振り返って、「姐ちゃん、どこへいく?」 酒の香と三味の音が風に乗って流れたような、ふとそんな気にさせる小路。 
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8月31日(火) 文書読み 焦げ付くような夏終わる 
熱い夏でした。外に出れば焦げ付くかと思うほどの熱射。7月頭に始めた庭木の刈込は、半端にして、梯子を掛けたまま放置。陽射しを避け、専らエアコンの風の下で過ごした夏。それでも、やおら炎天下に出て行って、ドローンを上げて撮ったのがこの一枚。気に入った角度を見つけるまで、あちこち移動して。7分限度のバッテリーを2個しか持ってないから、充電のために家に戻れば、結局2日はかかる。この間も、海老江の空撮に2日かかった。ともあれ、今日、村の広報紙9月号が届いた。「花嫁御寮のおさださん」の話。今現在の実写風景に250年前の光景を想像して重ねてみる。かつて、この同じ場所にこの人たちが生きて働いて暮らしていた、この同じ土地を踏みしめて。みんな一陣の風になって通り過ぎて行った人たち。我らもまた次々と風になっていく。今はただ、吹き溜まりのような、この日々。さて、涼しくなって、そろそろ庭木の残りを刈りこむか。
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8月25日(水) ReyとEry 空中遊泳ハイタッチ 
毎週水曜日のクライミングクラブに、熱心に通ってくる6つ違いの姉妹。Eryちゃんは生まれてまだ4年しかたってないというのに、お姉ちゃんの見よう見まねで習わぬお経読み。 いつもニコニコケラケラ、付添のおばあちゃんから「まじめにやんなさい!」と檄が飛ぶ。幼児の学びは遊びだと彼のペスタロッチも言ったはず、なのに、幼児教育の大家も自分の孫のこととなるとセオリー吹っ飛ばし。Reyちゃんは頑張り屋さん。黙々と、てっぺんに達するまで、滞空したまま何度も何度もホールドの石に挑んで、諦めない。Eryちゃんがいつものように空中遊泳を楽しんでいると、ゴールしたReyちゃんが上空から降りてきて、期せずして空中で交差、と、さすがは仲良し姉妹、すかさず空中ハイタッチ。絶好のシャッターチャンス!ではあったのだが、両手はロープを吊っていて放せない。ということでヘタなイラストで代替え。毎週水曜の夜は、Eryちゃんと突っついたり追っかけたりのふざけっこ、良寛さんの気分。と、そうこうしているうちに8月も終わります。すっかり古文書読みにのめり込んでしまっていて、すこしは綿野舞の記にも精出そうかと思いなおしているところです。
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7月31日(日)~8月1日(月) 越後人 駒に登らず何しっとン ⇒「山の記」へ
2千メートルの天空にコバイケイソウが群れ咲く斜面。登ってくる一団は兵庫からの登山人。ここは越後駒ケ岳、駒の小屋から山頂へ向かう稜線。昨日、麓の銀山平にテント泊して今朝2時半にテント撤収、3時に枝折峠から登り始めた。越後を代表する名山駒ケ岳、ここにようやく来ることができた。これまで何度眺めたことか。高速道を走れば、いやでも目に付く越後三山、その盟主。日向倉の雪山から眺め、荒沢岳から眺め、なかなかチャンスのなかった山。来てみれば、その遠いこと。枝折峠登山口からのアプローチの長いことといったら、まるで、光兎山に登るのに登山口まで3時間歩いたみたいな感じといえばいいか。結局、往復の行動時間12時間、小刻みの休憩を入れながら歩き通し。ここを日帰りピストンするのは健脚の若者たちで、老年登山人はだいたいが小屋で一泊するのだとUnqさん。行き交う人を見れば確かにそうらしい。軽装の若年者は8,9時間で往復すると言って追い越していく。下ってくる人たちは昨夜小屋に泊まった老年者たち。多少時間がかかるとはいえ、まだまだ我らも若い衆の内かなとど思っていたら、ところがどっこい。彼の兵庫からの一行、最高齢が80歳で、70代と60代、年齢不詳の女性1名、昨日は平ヶ岳ピストンで、今日が越後駒ピストン、明日は会津駒ヶ岳ピストンとか。運転交代で1日がかりでやってきて、3日連続ピストン3山、5日目に兵庫へ帰るというのだから、何とも凄いの一言。彼らに言わせれば、越後に住んでこれまで駒にも登らず何しっとんねん、ということになるところだった。いやはや恐れ入りました。それはそれとして、それにしてもだ、食事は銘々が用意しててんでに好きなものを食べるのだということまでも含めて、兵庫の一行とちょこっと一緒に休憩しただけでここまで一瞬のうちに情報を収集してしまうYoumyさんの技、いやはやそっちもオソレイリヤシタ。
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7月18日(日)~19日(月) 釜茹でに遭わねば遇えぬこの花に ⇒「山の記」へ
ここは朝日連峰以東岳。初日はテント荷を背負って大鳥池まで標高差400mの荷上げ。その重いこと暑いこと。テント荷を担いだのは一年ぶり。足腰にズッシリと加重。おまけに、大鳥池からしみ出す水分で周囲は湿気むんむん。陽射しは炎熱。まさに釜茹での刑。さて、その翌日。大鳥池にテント荷を置いて、小ザック一つで以東岳へ。その身の軽いこと爽やかなこと。昨日とは大違い。おまけに、1600mの稜線に上ってみれば、そこは天空の花園。これほどの花盛りとは、想定外の極楽園。行く先行く先、ミヤマリンドウがびっしり。星のように散りばめた花あり、かと思えばブーケのような塊あり。稜線道の両側、何処までも何処までも紫の星の道。さらには、ヒメサユリとニッコウキスゲのコラボレーション。思わずブラボー、アンコール‼。それに応えて、出てくる出てくる。緑の草原にピンクと黄色の配色。次はなんだ?おお、キンコウカ。これは草原の黄色の星。トキソウにオノエラン。ミヤマダイコンソウにタカネマツムシソウ。もう秋の花。百花繚乱千紅万紫とはまさにこのこと、いやはや驚きましたですねえ。
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7月4日(日) ゆっくりとゆっくりと山に浸って   ⇒「山の記」へ
東北山行の本番日。前泊の宿でゆっくり朝食の後、弘前から酸ヶ湯温泉へ。温泉の登山口から反時計回りに八甲田山を周回する。30人の団体登山にさえ道を譲るゆっくり登山。景色に花に、じっくりと眺めて歩く。登りに通った仙人岱の花もよかったし、大岳山頂の眺望も抜群。陸奥湾を取り囲む下北半島の向こうに北海道の島影まで見えた。そして下りに回った毛無岱は、今、綿菅の真っ盛り。緑の草原に真っ白な綿の玉が揺れて、歩く木道の気分のいいこと。ずっと遥か先に岩木山。その姿もまたなんともいい。八甲田山は2度目だが、その時その時でしか味わえない何かがある。だから、同じ山でも何度でも登る。それにしても青森は遠い。関川村から、往きは日本海東北道、帰りは東北道。ぐるっと回って一千キロ。ずっと運転のUnqさん、2日間のコース設定、宿の手配、登山案内と、何から何までのオールマイティ。我らはただおんぶにだっこで、感謝の言葉が思いつかないくらい。本当にありがとうございました。楽しい楽しい東北山行五人旅。帰宅した翌日、頼まれていた退公連支部便りの原稿にとりかかった。よほど、今回のババヘラアイスと八甲田にしようと思ったが、やめて3年前の大キレットにした。山は硬軟。あれがあって、これがある。多分喜ばれるのは軟だろう。が、語りたいのは硬。硬があってこその軟。
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7月3日(土) 遊子笑む 弘前の古城の畔
コロナと雨を避けての東北山行。前泊日の今日は、のんびりの旅。秋田県内通過中には恒例のババヘラアイス。いつもと違って何やら世代交代が進んだようで、ババはいなくてアネヘラアイス。それを言ったせいかどうか、私だけ大盛りのアイスを渡された。 思いは口に出してみるものだ。弘前に着いてちょうどお昼。バイキングを桜屋という実に感じのいいしかも格安の日本料理店で。それから、弘前城址見学。桜で有名な城址だが、閑静な今は逆に探訪の好機。ゆったりと城内を一回りして、今いるここは、城外の藤田記念庭園。詳しくは知らないが、何やら渋沢栄一のような人らしい。功成り名を遂げて故郷に憩いの名園を残した。ここは城下町の低地と高台にある御城との境目の崖の中間。まっ平らな津軽平野の真ん中で、平らに見えた弘前の町もこうやって歩いてみれば起伏があって、城郭はそれを利用していることが分かり、興味深い。今夜の宿は、弘前。前日までの予定では酸ヶ湯温泉ホテルに泊まる筈だったが、予約満杯で弘前泊になった。すべて結果オーライ。ここもまた格安でありながら、楚々としてどこか気の置けない気分にさせる宿だった。まるでなじみの行商を泊める駅前旅館の風情。女主人の背に負ぶわれた孫殿の目があまりにも賢そうに見えて、思わずそれを口にしたら、後でKeynさんから褒め上手だと褒められた。ただし、それでビール一杯サービスされたわけではない。とまれ、車の中でも野外でも宿屋でも、箸が転んでも何であれ、笑い出す遊子。悲しみは内に秘めるもの、ほほ笑みは顔に出すもの。
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6月26日(土) 鳥海山鳥海湖冒険者たち  ⇒「山の記」へ
かつて同じ職場で濃密な付き合いもあったOさんが亡くなった。1歳年上、最近までお元気だったのに突然の訃報。昨日、安らかな寝顔にお別れの挨拶をしてきた。それで今日の葬儀は失礼して、山へ来た。もっとも今はコロナでどこも参列ご遠慮だから、失礼には当らないのかもしれないが。このところ、親しかった人の訃報が続く。もうすでに一年一年の歳に入っている。来年のことは分からない。一年一年。マラソンと同じ。へばったら差し当たって1㎞だけ進んでみる。その先どうなるかは進んでみなければ分からない。去年と同じ時期にこうやって、今年も仲間と鳥海湖に来れた。湖の下へ降りて縁を回り、急斜面の雪渓を恐々登った6人の冒険者たち。カメラの先には鳥海湖と鳥海山の山頂。滅多にない角度から撮影できた。想定外の冒険のお陰。とりあえずの1㎞の先は、進んでみなければ分からないが、進んでみればいつも心動かす何かが待っている。一年一年、一キロ一キロ、一歩一歩。白山一華の白と深山金梅の黄が色鮮やかな鳥海山だった。 
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6月13日(日) 偲ぶなら花は越後の姫小百合  ⇒「山の記」へ
人の手のたんと入った花を見た後は、奥山でひっそりと咲く野生の花を見たくなる。元々この日・月は頼母木山から朳差岳を一泊で回る予定でいた。かの山の花たちも密やかに種々咲き乱れ始めているに違いないと。が、月曜に雷雨の予報があり、この日だけの日帰り山行に替えた。前日のヤマレコ情報によれば、粟ヶ岳の姫小百合が見頃を迎えつつあるらしい。2014年以来の粟。行ってみれば、稜線の一角にそれはそれは見事な姫小百合。7年前と少しも変わっていない。年年歳歳花相似たり、歳歳年年人また同じ。そのことがまた何とも嬉しい。まだ蕾もたくさん残っていた。来週も再来週も見頃に違いない。Unqさんは来週もまた来ようかという。それもいいが、ボクは浅草岳の姫小百合も見てみたい。先週の平標・仙ノ倉稜線でYoumyさんに鍛えられたせいか、今日は息も上がらず快調。毎週末登山なら平日の鍛錬不要といったのは岩崎道郎。さもありなんか。会長の山ネクタイがなんともお花畑に合っている。花園はおしゃれをしておとなうべし。
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6月12日(土)宮内から汽車に乗って長井に着いた
ノボラーズ花企画第2弾。ここは南陽市宮内のバラ園。この後すぐ隣の熊野大社で、兎二匹までは見つけたが、残りの一匹を見つけたのはどうやらkeynさんだけ。その後、Unqさんが車で先回りして待っている長井のあやめ園まで鉄道の旅。昔、山形へ行くのにこの長井線が米坂線のショートカット線で、運賃が安くなるのでよく使った。半世紀以上も前のこと、多分それ以来の乗車。勿論、沿線の風景も汽車も全く別物。山河だけは変わっていないはずだが、それも覚えてはいない。それでもなぜか懐かしかった。アヤメと花ショウブとカキツバタと、本来は別のもので花の模様で区別をつけるというのだが、アヤメ園では全てあやめ。細かいことには頓着しない山形の県民性か、かくありたくはある。
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6月8日(火) 水底の村路を独り 良寛・・・
 
ここは旧街道十三峠道の宿場村、市野々宿があった場所。村は横川ダムによって湖底に沈んだ。手前の大銀杏は、村の寺、飛泉寺から高台のここへ移植したという。かつては、イザベラ・バードが泊り、良寛も通った村。画面左が、先月歩いた黒沢峠。そこから横川に架かる橋を渡って目の前の干上がった川底が市野々宿。人家が肩を寄せ合うように並んでいた。人々の喧騒の中、道を急ぐ良寛の旅姿。幻を見たか? ここから桜峠を越えて白子沢の宿場までが、今月19日予定の十三峠歩き。それで、今日はそのための下見。 全ルート車道で、下見はずっと車。時々降りては道端の石碑を見たり、旧道の痕跡を探したり。路傍に「草木塔」と大きな石碑。これは初めて見たと言うと、同行のTamuちゃんのマスクから読経のような声。「草木国土悉皆成仏」だったか「山川草木悉皆成仏」だったか。なんだ?と尋ねると、草木の供養塔でみな魂があるみたいな話。アミニズム?いやいや、彼の空海の高尚な教えなのだとか。本番当日もこんな話でレクチャーすれば、6㎞の山越え車道歩きも退屈しないのではなかろうか。それにしても、同行のこの方の知識たるやただ者ではない。ユメ油断すべからず。
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6月6日(日) 天上の花咲くという仙ノ倉   ⇒「山の記」へ
上越国境の平標・仙ノ倉稜線は天上の花園で名高い。百花繚乱千紫万紅というには少し早すぎたが、それでも吾妻石楠花と峰桜が競演し合う豪華絢爛さ。その上、可憐な白山小桜の濃紫や純白の白山一華。空は曇りなのにどういうわけか遠くの山が良く見える。文字通りの360度大パノラマ。この稜線には何度か来たが、いつもガスがかかったり雨だったり霞だったり。こんなに眺望の効いたのも珍しい。越後の山、信州の山、関東の山、会津の山。上越国境大分水嶺に立っていることが実感できる。それにしても新調の靴で軽快に疾登するYoumyさん、何やら身も心も解放された感。それを追うと息が上がってゼイゼイハーハー。ゼイハーが心肺能力を高めるというのはマラソンのセオリー。平標から仙ノ倉の階段道てたっぷりと心肺を鍛えてもらった。前日のUnqさんの安静気遣いは一転して、今日は鍛錬鍛錬また鍛錬。翌日、Unqさんから心配のメール、熱は出てませんか?と。ナンノ、ワレハツネニ熱血ナリ~!とは言ってはみたもののやはり歳は争えない。少々だいぶ衰えたり~。詳細は「山の記」で。
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6月5日(土) 鳥坂の姫百合たちは賑やかで  ⇒「山の記」へ
前日は驟雨。それがすっかり上がって、鳥坂山は青葉若葉の爽やかさ。今日は、関川村公民館主催の健康登山。登山道には、姫シャガや姫小百合の咲き残りがわずか。それに代わって余りあるこの面々。果たして姫がつくかどうかは本人以外判定のしようがないが、賑やかであでやかなことは百合やシャガの花以上。 鬱蒼とした鳥坂山の山中が、一行の通過中だけはパーッと明るくなるのだから、薮の中の獣たちもさぞかし眩しかったことだろう。昨日2回目のコロナワクチン接種を終えて2,3日安静の要ある小生を、安久さんが気遣って先頭先導にしてくれた。鳥坂山は低山の割に険しい山で、どのルートをとっても傾斜のゆるい道はない。それで、小生の安静ペースで登れば、参加者一同にとって最適ペースになるだろうとの計算だ。何しろ参加者は、初心者からベテランまで各種混合、年齢も11才から82才までの老若男女入り乱れ。期待通りにゆっくりゆっくり。その甲斐あって全員この笑顔で登頂。この後、ユズリハノ峰へ進んで1時間超の長い昼休み。それから鳥坂山塊最高点の黒中山へ上り、下山の黒中コースで激坂のスリルを堪能。そしておまけは、下山直後の山蛭数匹。それらこれらがあっても予定より1時間ほど早く終了。余裕の日程で帰路には歴史館に寄り、88才の長老平田大六氏の「越後の巨匠展」を見、そのついでに「タイムスリップ江戸時代」の展示も見てくださった方多数(?)。ともあれ、皆さんお疲れさまでした。そして、ありがとうございました。詳細は「山の記」で。
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6月4日(金) 古文書でタイムスリップ江戸時代 
村の広報紙に、6月号から古文書の紹介を載せていただけることになった。歴史館に保管されている平田甲太郎家文書。江戸時代の小見村の大庄屋家に伝えられた貴重な史料。開催3年目になる歴史館の古文書講座で田村師範から教導されて腕が上がり師範代くらいにはなった(ような気がしている)。それで、応用問題に挑戦。折角の貴重な平田家文書、読める文書から読み進めたら、これが結構おもしろい。これまでは中世史マニアで、江戸時代についてはほとんど無知。平田家文書を解読するうちに、諸々のことが分かってきて、まるで、時間軸を異にして同じ時空に江戸時代の人々が生活しているような感覚。解読を終えた文書から「歴史館古文書分館」に掲載しているが、これだけではもったいない。折角の歴史文化財、その内容をひろく村民の皆さんにも知っていただき、なおかつ、歴史館にこんな貴重な史料があることを知ってもらえばなお良いのではないかと思い、館長さんに話したら、即、役場に通じて快諾をいただいたという経緯。広報紙掲載に合わせて田村学芸員さんが、上の写真の、こんな素敵なコーナーを設けてくださった。6月1日号が配布されて4日。何人かの人に面白いとか楽しみだとか声をかけていただいた。有難く嬉しい限りだ。ただ、歴史館のこのコーナーを訪れた人がいるとは、まだ聞いてない。有料300円。隣の無料コーナーは盛況なのに。わざわざ古文書を見ようという人が少ないのは、仕方ないか。広報の字数は限られているから、このコーナーに展示する解説文書は、力をいれて詳しく書いたのだけどな~。それに図版もカラーだし。・・・広報紙に載せた文は、「文の記」にあります。Unqさんの「オッドアイ・Tの猫とその一味」も「文の記」にリンクを貼ってあります。
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5月30日(土) 花探し鳥坂山の下見行   ⇒「山の記」へ
今年は花の移ろいが速い。黒沢峠の下見で咲いていた碇草も裏白瓔珞も4日後の本番では消えていた。今日は、来月5日予定の公民館登山の下見。本番は「姫小百合咲く鳥坂山へ」がテーマの積り。が、今日既に盛りを過ぎつつあった。本番当日はほぼ望みはない。せめて、此処にこんなふうに咲いていたと話だけでもしようじゃないかと、Unqさん。此処とはユズリハノ峰を越えた櫛形山脈縦走コースの一角。此処だけどうしたわけか、見事な群落。この後、下見隊4人は4コースに分かれて、それぞれ単独偵察隊。私はこのまま縦走コースを進んで、黒中山から黒中コースの登山口へ下山。久方ぶりの単独行。稜線歩きの気持ちよさ。足下眼下に黒川中の校舎が見えて、低山らしからぬ高度感。かつてあの学校の校長を務めた今は亡き旧友を暫し偲んだりして。詳細は「山の記」に。
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5月28日(金) 一仕事終えてジシャガラ庭珈琲
昨日、国際情報大学の公開講座で十三峠と街道の魅力を一席講義した。ほぼ2時間しゃべりっぱなし。関川村の街道のマイナーな話に、熱心に耳を傾けていただいた。自分が面白いと思った内容を話すのだから、話す自分は楽しんだ。ただ、アマとプロの違いは、自分が楽しむか人様に楽しんでもらえるかにあると言われる。その伝でいえば、あくまでも自分はアマ。人様が楽しんでくれたかどうかが、分からない。終わってから、一昨年までの藪漕ぎ古道歩きに参加していたとおっしゃる方が二人、あの時は夢中で藪漕ぎしていたけど今日の話でどういう道だったのか分かりましたと言っていただいた。やはり聴き手の反応というものはありがたい。それに時々この「綿野舞の記」も見ていただいていると。嬉しさ一入。歴史館からこの講座講師の話をいただいて以来数ヶ月、講義内容をまとめながら、今更ながらではあるが、お陰で十三峠と街道の魅力を改めて見直すことができて、私にとっても有難い講座となった。受講の皆さん、講座開設でお世話になった皆さん、ありがとうございました。さて、これで、一仕事終わり。それで、今朝はゆったり庭コーヒー。ジシャガラの花が今見頃。園芸種で、山のジシャガラより小柄な薄ピンクの花。さて、このあとは久しぶりに床屋さんへいってくるか。昨日の講義の内容は、左上の「十三峠」にリンクしてあります。最末尾までスクロールすると、「せきかわ歴史とみちの館」の宣伝があって、安久館長さんと田村学芸員さんの素敵な写真があります。見てください。 
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5月23日(日) 雨の日は花よ団子よノボラーズ     ⇒「風の記}へ
ここは旧下田村高城城址ヒメサユリの小径。入口付近に楚々としたヒメサユリ。山道を進むにつれて小雨がやがて本降りになり、花もまばらで早々に撤退。下山してまずは、ガストでステーキに喰いついて、次に向かった見附イングリッシュガーデン。思いの外の花々満載。野の花もいいし、英国庭園の花もいいもんだ。などと喜ぶ今日は全員ノボラース。夕食は回転寿司。何ヶ月分もの御馳走にありついて、さて、明日からまた粗食に戻して、今日の増加体重をどうやって減らすか。帰路の各自、頭の中は、それで一杯。お腹もいっぱい。花の写真は、「風の記」で。 
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 5月22日(土) 雨よ去れ!黒沢峠 我ら越ゆ  ⇒「山の記」へ
どうだ!この笑顔には、さすがの雨雲も敵うまい。時ならぬ長雨続き、前日も当日の朝も、雨。有料の「天くら」予報を頼りに、決行としてはみたものの、もし予報が外れた最悪場合は傘さし立ち昼食も覚悟の上。もっとも、これまでの度重なる山行で信頼度抜群の「天くら」のこと、今回もまったく信頼通りに予報ドンピシャリ。登山開始直前に雨は上がった。しかも、石畳の苔は、前日来の雨のお陰で緑しっとり。半信半疑で雨合羽に身を固めた参加者も、徐々に雨具を脱ぎ始め、峠の頂に着いた頃にはこの笑顔。と思ってよくよくつぶさに検討したら、笑ってない人一名、視線不合の人一名、顔隠れ一名、いや~失礼しました。もう少し写真撮影人の腕を上げなくちゃ~と反省反省。越後米沢街道十三峠を歩く会、今日で8峠め、ここは名高い黒沢峠。詳細は「山の記」で。
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 5月18日(火) 黒沢の敷石道の下見行
22日の峠歩きは、敷石で名高い黒沢峠。それで今日は下見。名にし負う見事な敷石道。昭和55年から、地元黒沢集落の活動で復元を始めたというから、もう40年。毎年手入れをしているということで、苔生した古道の雰囲気がなんとも良い感じ。3600段にもなる敷石を掘り出して復元したというから、すごいものだ。ただし、峠を越えて市野々側に下って直ぐに大豹変するから、何やら化粧した人間の裏表を見せつけられたような、妙な気分もするにはした。廃道になった後に、不要の石ということで炭焼き窯やら何やらに廃物活用されたらしい。種沢の薬師堂の階段もここの石だと地元の人が言っていた。峠の向こう側の石の方が廃物利用された数が多いのかもしれない。それでも、3600段、すごい数だと感心しきり。戻りは、峠から旧道に入った。こちらは変哲もない極普通の山道。と言っても、山歩き人には、自然なこの道も喜ばれるかもしれない。ともあれ、本番当日、晴れればよいのだが、Tamuちゃんは早々と当日の栞をでかしたというのに、今段階で最悪予報。
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 5月9日(日) 分け入れば森の精霊現れた  ⇒「山の記」へ
前日下界は黄砂で霞んだ。にもかかわらず、この日、深山の緑はしっとり艶やか。2年ぶりの沼奥山の巨木ツアー。巨木1号は相変わらず30m近い巨体ですくっと立って迎えてくれた。巨木2号の下へ行き、洞穴の前で集合写真。見上げれば、頭上から見下ろす穏やかな目、口、鼻。シシ神だという人あり。確かにこれは森の精霊・森の化身。山に棲む無数の動物、無数の樹木、無数の草花の集合体。「我と共にあれ!」ふと聞こえたような。圧倒されんばかりの巨木を「山の記」で感じ取ってください。
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5月4日(火) 晴れて 日本平の山頂奪還   ⇒「山の記」へ
この連休は2泊3日で大朝日岳を予定していた。Unqさんは5人×3日分の食糧をすっかり用意していた。ところが天候が整わない。山梨方面は好予報なのだがコロナで遠征は自粛。近辺予報は4日だけ絶好天。さて、どこの山にしようか。思い残している山があった。1年前、山頂目前でタイムオーバー、引き返した日本平山。よしそこだ。前回より1時間早く集合して、余裕を持たせた。結果、大成功。途中、雪で倒れた木の障害物や藪漕ぎがあったものの計画通りに山頂に達し、一等三角点にタッチ。終日天候に恵まれて眺望の素晴らしいこと。往き返りずっと飯豊の白峰が一緒。見飽きることのない麗姿。固く締まった残雪の急斜面に靴先を蹴り込んで登るキックステップの心地よさ。歌の一つ二つも出ようというもの。歩行距離17㎞、累積標高1340m、所要時間12時間20分の長い長い山歩き。大朝日に代えても余りある山行ではありました。詳細は「山の記」にUPしてあります。さて、3日分の食糧はどこで使おうか。
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4月24日(土) 賑やかに善男善女山登り    ⇒「山の記」へ
菅名岳の魅力は、どっしりとしたおおらかな山容にある。909mの菅名岳山頂を中心に、右に864mの大蔵山、左に880mの鳴沢峰。この三山を繋ぐ稜線が、ちょうど翼を広げたような形で長く連なっている。千メートル足らずの低山ながら、まるで筋肉隆々の小兵力士三人が肩を組んで立っているような重厚感を漂わせている。稜線の最高点は911mで、地元では三五郎山と呼んでいるらしいが、地理院の地図にはない。そんな細かいことにはこだわらないのもこの山のおおらかさらしくて、いい。もちろん、越後平野の縁に立つから眺望は素晴らしく、それに、登山道の手入れのいいこと。これらのこともこの山の魅力になっていることは、まずまちがいない。さて今日は、公民館の健康登山。スタッフを入れて総勢25人。おしゃべりに笑いに、長い隊列の賑やかなこと。急坂で黙したかと思えば、緩斜面になればすぐにまた元に戻って、善男善女ぶりまる出し。あ、そうそう思い出した。坂登りの途中で歌も出た。♬人みな花に酔うときも 残雪恋し山に入り 涙を流す山男♬ 無線機で流したのだが、その後の反応がなかったから聞こえなかったのかもしれない。山頂でみんなで歌おうなんて言ったのに、すっかり忘れてた。大体山の会話は苦し紛れのその場しのぎだから、大概そんなものだ。とまれ、3時間登って大蔵山で大休止。最大の楽しみが山頂昼食。そのひとときをドローンで撮った。続きは、「山の記」で
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 4月21日(水) 古街道 痕跡今も茅峠    ⇒「山の記」へ
今年は大里峠が開削されて500年目の年に当たる。それ以前の古米沢街道は、沼から若ぶな山の稜線を越え、荒谷沢へ下って対岸の稜線に登り返して金丸へ下っていたという。金丸側の稜線の峠を茅峠という。ずっと以前から、この古街道を踏査したいと思って来た。藪漕ぎ山歩きの達人Chuzyさんも、たまたま同じことを考えていたということで、今回一緒に探索踏査することになった。ChuzyさんはUnqさんの前の歴史館館長で、当時二人で山城を探索して薮を漕いだ仲間。久しぶりの藪漕ぎコンビ復活というわけだ。お陰で踏査は大成功。先週事前下見分をしておいたせいもあって、迷うこともなく古道の痕跡を辿ることができた。事前の予想通り、峠は、荒谷沢を挟んだ東西2本の稜線の最低鞍部にあった。荷を運ぶ街道であれば当然のことだ。沢への降り口と徒渉箇所も、最適の場所を選んでいた。昔渓流釣りをした経験から、沢の近くが突然数mの崖になっていることが多く、尾根筋から沢へ降りれる場所は限定されてくるので、そこがうまく見つかるかを一番心配していた。さすが元街道だけあって、全く心配のない場所に自然に下るようになっていた。ただ、徒渉した対岸、つまり沼側の崖に斜めに道を刻んだ跡が見えたが、かなり傷んでいて岩が露出しており、そこは危険なので避けて滝の枝沢を大きく巻いて迂回して、崖に刻んだ道と合流できそうな方向へ進むつもりだったが、その選択が、本日最も難儀な急登攀ルートになってしまった。そこは何とかクリアして、最終的に442mの最低鞍部まで行ったら、そこには明らかな道痕があって、斜めに緩やかに沢へ向かっている様子だった。真のルートはそこから緩やかに蛇行しながら徒渉点に向かうのだろう。次回機会があったら、その道を踏査することにして、今回の踏査を終了した。下山途中、猟師のSさんに会った。我らが徒渉した箇所からずっと下流に熊がいるのだと言う。猟は明日で今日は下見とか。前回の下見分でも、金丸のHさんがここはかつては熊の巣だったと言っていた。熊に遭いたくない一心で、様々な鳴り物を持って歩いた。その分、熊を警戒させて猟の邪魔にはなったかもしれない。Sさんに謝ったら、いや、ずっと下流だから大丈夫大丈夫とは言ってもらったが。とにかく、熊に遇わなくてよかった。踏査の様子は「山の記」でどうぞ。      
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4月16日(金) 峠道探すついでの若ぶな山  ⇒「山の記」へ
ここは標高630m若ぶな山山頂の三角点。薮の中のように見えるが、少し先へ出ると飯豊連峰の大展望台。二王子から杁、飯豊本山まで一望。その手前には葡萄鼻から大境への稜線が連なる。眼下には大里峠。そして、180度向きをかえれば、朝日連峰。祝瓶に大朝日三山、以東までの稜線。さらに登ってきた道の下には若ぶな高原スキー場、その先に関川盆地、さらに先に日本海。葉の茂る前の今なら360度の大パノラマ。しかも、スキー場上部の電波塔から登山道もしっかりついている。こんないい山に、公民館登山でぜひ来たい。
ところで、今日の本当の目的は、この山の下を流れる荒谷川の深い谷を越えて金丸へ出る古道・茅峠越えのルートを探ること。この後、一旦下山して車で金丸へ行き、そこから対岸の茅峠の峰へ上がり、谷を越えるルートの目星をつけた。久しぶりのChuzyさんとの藪漕ぎ登山。それどころか、金丸では、旧知の方々に何十年ぶりでお会いして、懇切丁寧に茅峠への道を教えていただいたり、さらには、さざれ石を頂いたり、ちょうど祭りだからと赤飯まで頂いて、いやはや、盆と正月と祭りと誕生日が一緒に来たような嬉しい日になった。詳細は「山の記」で。谷越えの本番は来週の予定。
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4月11日(日) 快晴日 山道ならぬ峠越え  ⇒「山の記」へ
十三峠を歩く会、今年度の第一弾。ここは、越後側から第6峠の高鼻峠。旧街道は舗装道路に改装されて車道になっていたが、幸いなことに積雪期の車通行止めのままで、道一杯に広がってのんびりと街道歩き。空は快晴、林内には残雪、空気は冷たく、陽射しは温か。削られて崖になった第7峠の貝ノ淵峠は、崖下の舗装道路から眺め上げただけで、のんびりのんびりと歩いてここまで来て記念撮影。このあと上杉神社前で昼食休憩して、午後は小国町の旧宿場街へ入り、武家屋敷町跡や御城の跡を探して、一日歩き尽くし。詳細は「山の記」で。
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4月10日(土) 花の下 ナンバ走りでトコトコと
ナンバ歩きというのがあって、江戸時代以前の日本人は皆この歩き方だったという。だから伊勢参り金毘羅参り平気で2ヶ月超歩き続けることができたのだと。伊能忠敬またしかり。現代の洋式歩行と違って、腰や膝に負担を掛けない自然形歩行。走りにも応用できるという。脊柱管を傷めた身としてはこの走法を使わない手はないと、只今実践中。桜咲く国道バイパスをトコトコ、トコトコとナンバ走り。時々止まってスマホでパシャリ、パシャリ。2、3日前から寒気が入って、咲いた桜が長持ちしている。朳差岳も寒気で降雪があった後なので白く輝いて、桜の花によく似合う。走り終わって、コメリに買物に行った帰り、桜の下の同じ道を走るUnqさんとすれ違った。この時ばかりは、桜Runに限る。
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4月4日(日) 往年のガンマニア 旧銃修理
歴史館展示の火縄銃、引き金と火ばさみの連動が異常のまま長年放置されていたらしい。往年のガンマニアとしては見逃すわけにはいかず、修理を買って出た。分解は昨日。時計にしろ玩具にしろ、いつも分解は順調。さて組立直そうとして四苦八苦。どうにも異常な連動が直らない。これもまあよくあることで、投了した時計に玩具に幼少の砌に幾つあったことか。今回もその轍を踏むかと、なかば捨て鉢になっていじくっていたら突然閃いた。何のことはない、引き金を止めるピンが一本抜けて紛失したままになっていたのだ。釘を仮ピンにして差し込み仮組立してみたら見事に正常作動。が、さてはて新品の釘ではどうにも見た目が悪い。Tamuちゃん家には刀といい盃といい、なんでも古いコレクションがあって、古釘のそれもあるのだとか。明日まで、合いそうな古釘を探してくることになって、今日はその組立日。持ってきた一握り程の古釘の中から、合致する1本を探す。太すぎても細すぎてもだめ。ピッタリでもだめ。数ミクロンのガタツキが火縄銃のメカの真髄。何本か試すうち、誠に具合のいい太さの釘が見つかった。長さはヤスリを掛けて削って調節。本来のピンは差込口と中心部と末端と、微妙に太さを代えてあったようで、穴がそうなっている。釘ではそうはいかないから、中心部、つまり引き金を作用させる中心部分の太さを最優先し、差込口と末端の微妙な太さの違いは、爪楊枝の先っちょを差し込んで調節した。これで火縄銃の正常な作動が見事に復活、館長に土下座をしないで済んだ。それにしても、メカニズムは実に単純なのに、一つ一つの部品の作りは実に精妙。内部のそれを隠して、外見は一切の無駄を排した実用一点張り。銃器の美はそこにあり、マニアはそこに惹かれる。それに比べれば、飾り物に堕した日本刀など・・・おっと、これは蛇足駄弁。一つ言い落した。種子島の鍛冶職人が娘をポルトガル人の妻にして、銃身の底を止めるネジの秘密を聞き出したというのは、種子島鉄砲伝来のドラマチック秘話となっているが、どうやらそれは俗説で事実を裏付ける資料はないらしい。歴史にもエビデンスとナラティブの問題が横たわる。歴史に限らず教育でも医学でも、何の分野でもナラティブの方が効き目があるのだ。困ったことだが、そもそも人間の造りがそうなっているのだから、どうにも仕様がない。
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 3月30日(火) 残雪のちょっと無謀な貝ノ淵
十三峠踏破の後半戦が来月から始まるというので、今日はその下見。行程の関係で、今回はこれまでと逆向きのコース。黒沢の集落から出発して、貝ノ淵峠と高鼻峠を歩き、小国町へ向かう。貝ノ淵峠は、車道の脇にわずかに古道が残っている。今、立っているここが、それ。残雪の斜面を登ってきて、ここから林内に入ると古道は半分車道のために削られて、片側崖の狭い道。Tamuちゃんが怖いとも言わず、必死の形相と楽し笑顔の半々で後ろについてきた。果たして、来月の本番でここを通れるものかどうか。この後、中間点の杉沢でNPO「ここ掘れ和ん話ん隊」本部に立ち寄ったら、この峠はどうやらメーンからは外されているような気配。当日は、下のアスファルト道を歩いてもらうことにしよう。NPOの理事長は、2013年にクライミングを教えていただいた吉田さんだった。最後にお会いしたのが2015年の小蓮華山だったから、6年ぶりの奇遇。さて、次の高鼻峠はアスファルト道。峠近くの上杉神社が見晴らし良く、ここを当日の休憩所にすることして、小国町の中へ。そこは、かつての宿場町であり城下町。江戸時代の享和絵図(1800年代)を手がかりに、痕跡を捜して街歩き。Tamuちゃんは、ブラタモリのようだと大喜び。あったあった、お城の土塁。忘れ去られ打ち捨てられたかのようにして、かつて城郭だった一角にL字状の大きな土手が残っていた。御濠だったと思われる暗渠の流れを見つけて、またまたブラタモリだとTamuちゃん大感激。ま、こんな峠歩きもたまにはいいか。詳細は来月11日の本番後にレポートします。
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3月28日(日) 山は旬 桜 満作 岩団扇  ⇒「山の記」へ
最適の時季のことを旬と言う。草木萌えいずる前のこの時季は、早春の花の旬。まっ黄色に咲く満作の下を通り抜けたばかりで、振り返ってまだ花を見ていたいというのに、むりやり、「ハイッコッチ向いて!」とパチリ。だから、IBU少年は少々不満顔なのです。このあと、岩団扇ロードに出たとき、彼の口元は少しほころびたように見えました。最年少隊員ながら、集合の際には点呼を取って、なかなかしっかり者の副班長ではあるのです。山は年中、旬。そして、彼も日々が旬。いや、何よりも、参加した善男善女も毎日が旬の人々なのでありました。公民館登山の大平山、詳しくは「山の記」で。 
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3月25日(木) のたりの季節 山に花 里に花  ⇒「山の記」へ
庭の白梅も咲き出した。杏の花芽も桃の花芽もふくらんで、いい季節になりました。常春の国があれば即移住するのに、と思うようになったのはいつ頃からだろうか。さてここ、大平山も、早春の花の咲き始め。まだ芽吹き前の明るい林内に、山桜に満作に岩団扇に猩々袴。ほかの草木が目覚める前に、早く早くと、健気な早起き。我らはのたりとそれを眺めるが、彼らは必死なのだろう。頭上では橅の芽が動き始めている。陽に当たれるのは今だけだぞー、なんて花たちが囁き合っていた。今日は、28日本番の公民館登山のための下見。3日後はもっと花盛りになるだろう。花の季節の終わらないうちに、早く早くと、3月から4月の我らの山計画もびっしり。のたりの筈の春なのに、なぜかせわしない。花を追い 花に追われて 時が往く・・・・・つづきは「山の記」で
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3月20日(土) ダシの土手 往路トットト復路ムムッ!
陽気に誘われて土手へ上がってみた。ダシの風が西へ向かう背を押してくれる。これじゃあ帰りは難儀だなと思いつつも、余りの気分の良さについつい大島まで。さあ、帰りの5キロ。風に向かってゆっくり走りだした。予報通り天気は陰ってダシ風は強くなる一方。水防小屋の陰に避難して一息いれて、何とかスタート地点まで戻った。昨年11月以来の土手Run。7月に突然、脊柱管狭窄症が発症し、薬で痛みを止めて10月にはRun回復も、11月末に再発して薬を増やし、1月半ばにどうにか再回復。量を減らしたとはいえ薬は離せない。おまけに血圧にコルステロールにと、薬の種類は増えるばかり。以前の調子にはもう戻れない。こうやってゆっくりでも土手を10キロ走れるようになっただけ儲けもの。再発の時は、腰と膝を思い切り屈めた状態で歩くのがやっとで、山はこの姿勢で登れる山だけと覚悟を決めた程。最悪の事態を思えば、多少の劣化に何の不満があるものか。MRIで診断してくれた専門医が言っていた。自分も同じ病気持ちですが、この病気、ナニ命には関わりませんから、と。なるほど、確かに。
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3月19日(金) 陽溜まりに花眩しくて 春彼岸 
庭の花だより第2弾。去年、福寿草をUPしたのは3月8日だから、今年は10日は遅れてる。そろそろ畑に石灰を撒く頃だが、まだ風が冷たくてその気にならない。明日辺りから、庭木の囲いを外そうか。それとも、温かかったら土手を走ろうか。ようやく少し足の調子が上向いてきた。昨日、近所のKさんから雪割草をたくさんいただいた。この福寿草のように庭に下ろして広がらせたいと思っている。庭仕事も、もう少し暖かくなってからだ。Margoが気胸で手術するのだという。コロナで親も入室出来ない。ひとりで心細かろうに。艱難辛苦汝を玉にす。遠くから無事を祈るしかない。人生は試練の連続だ。
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3月15日(月) 雪解けて 黄連の花逸早く
庭の雪がいつの間にかなくなった。あれだけの雪、どこへ行った?朝風呂の帰り、屋根の上を見上げれば、あそこに立って雪を下したのが嘘のよう。庭を見れば、雪で押しつぶされてしょげた様になっているヤブコウジの葉の陰に白い小さな花。キクバオウレン。毎年咲いてくれる春一番の花。冬前の囲い作業のたびに踏みつぶされるから、年々勢いを失って、今年はついに2輪だけ。ズームでアップすればなかなか見ごたえのある花だが、実物はあまりに小さくて、門を入ってすぐの所にあるというのに誰も気づかず見向きもしない。そんな花。ともあれ、花の季節がやってきた。
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2月28日(日) 弾みつき また雪の山 菅名岳  ⇒「山の記」へ
菅名岳909mは、五頭連峰と阿賀野川を挟んで並ぶ越後の名峰。 東蒲原の入口に門衛のように屹立する鋭鋒がその山だとばかり思っていたのは、まだ登山に身を入れてなかったずっと昔のこと。勘違いさせられたその山は鳴沢峰という名で菅名岳の隣に立っている。下界から見れば鳴沢峰ばかりが目立って立派で、肝心の菅名岳がどこにあるか分からないくらい。ところがどうして、登ってみればさすがは名峰。菅名岳は左右に稜線を伸ばして翼を広げた実に堂々とした山。鳴沢峰はその右翼の一端に過ぎない。やはり、山は登ってみなければ分からない。人を外見で判断してはならないのと同じこと。この日のルートは、左翼をなす大蔵山から雪の稜線を歩いて菅名岳に達し、中心の丸山尾根を下降した。10年前の4月24日と同じコース。あのときは公民館の団体登山で、隊列の中の一人。ただ賑やかなおしゃべりの列に加わって歩いただけで、同行の人への印象は残っていても山の印象はそう強くない。山への思いが浅かった分だけ、山から得るものも少なかったということ。山は、大きく叩けば大きく返してくれる。この10年間の山と自分との関係に改めて思い至らせられた大蔵山~菅名岳稜線周回。4月には再び公民館登山を予定している。下見にも、また来ることになるだろう。いい山は、何度来てもいい。どんな変化を見せてくれるか、どんな思いを抱かせてくれるか、この山を味わい尽くしたい・・・・つづきは、「山の記」で
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2月14日(日) 出遅れて二月初山弾みづけ  ⇒「山の記」へ
五頭山は安全に手軽に雪山の気分を楽しめる人気の山、この日も駐車場は超満車、出遅れた我らに駐車スペースはなく、村杉温泉に近いくらいのずっと下まで戻って、ようやく見つけた路肩の空きスペースにどうにか留めた。出遅れたと言えば、そもそも2月のこの日が初登りというのも、かなり出遅れた。出遅れの理由はいろいろある。今日の出遅れは、昨晩の地震ではない。寝入りばなを揺り起こされて、その後寝付かれずに朝飛び起きた人もいるにはいたが、それで遅れたわけではない。三月ぶりの登山が嬉しくて嬉しくて寝付かれなかった人もいるにはいたが、それで遅れたわけでもない。予定どおりに集合して時間どおりに駐車場に着いた我らより、外の人たちが早過ぎた。運よく駐車場に恵まれた人たちの顔を盗み見れば、連続晴天三日目の今日がラストチャンスと、寝ずに朝を待った人たちだろうかと、そんな顔。それはそれとして、我らが今年出遅れた理由もいろいろある。豪雪で除雪に追われる日々だったこともあるし、何よりも、毎年の元旦マラソンがなかったから、立ち上がりに弾みがつかなかったことも大きい。そんなこんなで、2月半ばの初登りは、近来稀に見る珍現象。それが今日、菱ヶ岳から五頭山へ長い長い雪の稜線を歩いていれば、去年11月からの空白は一気に埋まる。埋まるどころか、天空回廊の、この景色を見てしまったら、三ヶ月の空白は次の弾みのためのタメだったのではとさえ思えてくる。それに、前一ノ峰に上がったその瞬間、眼前の飯豊連峰はそれまでまとっていた雲のベールをきれいに脱いで、毎年の通りに、今年はいつ来るの?と尋ねかけるから、きっと夏には行くからねなどと、すっかり弾みがついてしまって・・・・つづきは、「山の記」で
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2月10日(水) 吹雪去り 寒気突き割く陽の温さ 
夜半まで続いた吹雪。今朝は一転して陽射し。見事な舞台転換。今朝が五頭山なら6年前の「山頂の光と雪のページェント」と題したあの写真(⇒こちら)が撮れただろうに。などとブツブツ独り言、朝風呂から帰って、急ぎカメラを持ち出し、庭の木のあちこちをバシャリバシャリ、今年は未だ一度も山行なしだから、このカメラを切るのも今年初めて。庭に積もった雪は固くてスコップも歯が立たず、自然解凍を待っている。予報では、月半ば過ぎにもう一度寒波が来るらしい。ヤメテクレー、雪ハモウ イ・ラ・ナ・イ! 
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1月29日(金) 雪わらに水蜘蛛の術こわごわと  ⇒分館トピックスへ
小学3年生が社会科で昔のくらしを体験しに歴史館へ来るのだと、Unqさんから手伝いを頼まれた。勿論二つ返事。昔取った杵柄というやつだ。担当はカンジキ、雪国の必需品。これをどんなふうに使ったか、いかに役立つものであったか、どうやって作ったか、得意の弁舌をふるうはずだった。が、それどころではない。なぜかというと、一人一人に次々と履かせてやっては外へ送り出すと、雪面を一回りして戻ってくるから、それを脱がせて次の子に履かせてと40人近くの子にローテーションを確保するだけで手いっぱい。弁舌の場面は全くなし。屈んだ中腰姿勢で只管カンジキの着脱作業。腰が張ってもう目眩がしてくるほど。多分生まれて初めてだろう、カンジキなるものを履いて恐る恐る雪わらに出ていく子ら。見送り見れば、まるで、水蜘蛛の術を習い始めた小さな忍者。雪わらをぬからずに歩けると、大喜び。弁舌よりはもちろん体験の方がはるかに大きい学び。なんとも愛し気なこの子らの笑顔を見れば、腰が張るの目眩がするのと言ってはいられない。体験ブースは、ほかに雪沓藁沓蓑、石臼大豆引き、洗濯桶洗濯板、その他諸々あって、それぞれに担当者がいたのだけれど、誰がどんな弁舌を垂れていたやら知る由もない。終わってどっと疲れて、結局支度していったドームRunはやらずじまいで帰宅。炬燵でスマホの小忍者を見て、ほっこり。 (当日の写真数枚、分館トピックスに掲載してあります⇒こちら) 
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1月24日(水) バカダバカダバカダ 
今日も代わり映えのない雪景色。ただし、ここは2階の屋根の上。
10時ごろ隣家のWさんが来られて言うには、「2階の屋根の雪が重くなって垂木が危ないから下ろした方がいい」と。Wさんは我家の棟梁で、家の守り神様。「垂木が折れたら100万や200万では終わらないから」とも。すわ、一大事!「すぐ下ろします」と、心の準備も整わぬまま、押っ取り刀で鉄のスノーダンプを担ぎ梯子を上って、今、ここ地上7mの断崖絶壁に立っている。クライミングのお陰で、高度の恐怖感はない。頭には岩山用ヘルメット。しまった、腰痛ベルトを忘れた。折角上った梯子を下りたくないし、半日何とかなるか。スノーダンプで快調に雪を滑り落とす。下の1階の屋根はたちまち雪の山。これを片付けるのは午後の作業。
1階の屋根を過ぎれば、一気に6m下へ雪の急降下爆撃。ヒューンドーンバァーン、雪下ろしをさせられた中学生の頃からずっとこれが快感。昔はスコップで投げ落としていたからヒューンの時間が長かった。下でOkkaaとWさんが心配そうに見上げていて「少しずつ落とした方がいいよー」「オーケーオーケー」言いながら、ついつい大きな塊をヒューンドーンバァーン。ガチャガチャガチャ!ありゃりゃ、玉椿の垣根の雪囲い。バンッ!ベギベキ!しまった、竹デッキの屋根を直撃。
1段目の雪は雨と陽射しで柔らかくなっているが、2段目の雪は、スノーダンプを足で蹴り込まなければ刺さらないほどの固雪。その塊が6m上から落下してくるのだからたまらない。竹デッキの屋根は、5㎝角の木材を垂木にしてその上にポリトタンを張っただけ。垂木の折れる音、トタンの破れる音。
それで、フッと思い出した。ずっと以前、2年続けて大雪の年があって、1年目の雪下ろしで今日と同じく竹デッキの屋根を壊した。それで、2年目は、ポリトタンで滑り樋を作って、そこを滑らせると雪塊が遠くまで飛んで、竹デッキの屋根に当たらないようにしたのだった。スコップですくっては流すから時間はかかるが、1階の屋根にもたまらない分、結局、同じ時間で済む。それをすっかり忘れてた。
いや、念頭にはあったのだ。滑り樋は物置の床下にあって、毎年、除雪用具をそこから出すとき、今年もこの樋は使いたくないものだと、所在は確認していた。それを、スノーダンプでゴイゴイ落すと楽なものだから、ついつい頭の中から抜けていた。雪が消えたら修繕するから、ま、いいか。
ちょっと昼寝して、さて、1階屋根の雪落しにかかろうかと、今度は忘れず腰ベルト。が、所定の位置に無い。探しても無い。あっ、思い出した。一昨日、2回目の学校スキーで帰りしな、トイレで腰ベルトを外して手洗い場に置いて、そのまま帰ってきた!わざわざ取りに行くほどの物でもないし、いや待てよ、取りに行ったついでにスキーをしてくるのも悪くないな、明日、電話してみようか。などとブツブツ言いながら1階の屋根の作業。
日が暮れて、疲れた体を湯船に沈めて、Okkaaに聞こえないように小さな声で、♬バカダバカダバカダ、バカダバカダバカダ、バカダ、バ・カ・ダー♬ 失敗した日の、いつもの愛唱歌。これを歌うと、タケダの薬よろしく効果絶大、失敗なんぞは雲散霧消。だから、また失敗を繰り返すのではあるけれど。
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1月20日(水) スキー授業 わかぶなつぶれて胎内へ
2年ぶりにスキーを履いた。もちろん、子どもたちもだ。スキーは自転車と同じ、一度覚えたら忘れない。中級コースを1本目恐る恐る滑っていた子たちも、2本目にはスイスイ。午前の最後に林間コースへ回ったら、途中の分かれ目で新雪の「ほだわら」。スキーを外してズボズボ歩き、それも冒険。閉校式で、スキーをそろえて滑れるようになったことと新雪をぬかりながら歩いたことを感想発表してくれて、小学校最後のスキー授業。いい思い出になってくれればと願うばかり。
地元のわかぶな高原スキー場は廃業となった。今年は有り余るほどの雪だというのに。やむを得ず学校スキーは、胎内スキー場。ここはしぶとく生き残った。その甲斐あってか、平日なのに駐車場は満車状態、リフト待ちも長い行列。賢いものだけが生き残れる。
久しぶりに見た子どもたち、随分大きくなって見紛うほど。それに比べて、こちらはどうだ。帰宅して夕食まで昼寝して、夕食後もすぐ夜寝して朝まで爆睡。上昇線と下降線の違い。神経痛が治まっただけ儲けもの。
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1月11日(月) 2年分降らせなけりゃと生真面目に
雪の神様、どうやら相当生真面目な方のようで、去年全く降雪ゼロだったから、その分を今年に積み増さなければ勘定が合わないと、鉛筆なめなめ必死で帳面合わせをなさっていらっしゃる様子。
一昨日朝の新雪が、膝上までラッセルして歩くほど。その雪を全部きれいに片付けたというのに、昨日の朝は、一昨日の朝以上の新雪。
6日に雪下ろしした屋根の南面を残していたので、今日はそこを下ろさなければと、2階の窓から屋根に出ようとして、開けてびっくり。ここは6日に下した場所。新雪だけでこの深さ。
午前いっぱい雪下ろし。午後から、下ろした雪の排出。雪下ろしは、屋根の傾斜を利用して、スノーダンプを滑り下らせて落とすだけだから、作業的にはそうきつくない。ただ、我家の屋敷は家の周りに雪を下ろせるスペースはほとんどなく、大部分の雪はピンポイントで狙って一ヶ所に落とす。
自分で自分をバカだなあと思うことは数多くあるが、一番のバカだったのは、雪下ろしのことを全く考えないで家を作ったこと。
だから、落とした後の排雪が大仕事。屋根から落下した雪は、堅く締まった圧雪。そこにスノーダンプを突き立てて、ピラミッドでも作るのかというブロックを引いたり押したりして、屋敷から出して道路の消雪やら、小溝の流れやら、田んぼの水やらで消してもらう。
言ってみれば一日中、造水作業。日本海の水蒸気が雪になって我家の屋根に下り、それを使って、ものすごい労力で水を造って、また日本海へ戻す。大気循環のエネルギーもすごいのだろうが、現実、水を造っているのは人間。だから、人間のエネルギーもまたすごい。隣近所の人、老いも若きも総出、エネルギーの総和。神様の帳面には E=mc2 なんて難しい式はなくて、単に(去年+今年)÷2=平年 なのかも。
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1月6日(水) 久方の光のどけし 屋根の上
元旦から1日の休みなく雪との格闘。この日は、いよいよ屋根の雪下ろし。北側屋根のガリガリ圧雪を下ろし終わって、南面へ出てみれば、打って変わって温かな陽射し。一昨日までの息つく暇もないほどの降雪を忘れたような、静心。ひとときの平穏。今年はもう屋根雪処理は無理かと我が身を案じていたが、案ずるよりは産むが安しか、半日みっちりとスノーダンプを引いたり押したり。労働中は神経痛が消えるから、ありがたい。翌日からは、下ろした雪の処理。これがまた、固いのなんのって。ダイナマイトで破砕したくなるほど。とはいえ、格闘は苦闘にあらず。これもまた筋トレと思えば格闘は楽闘。それに、隣近所の人たちが出てきて声掛合えば、雪籠りの閉鎖から解放。重い雪を運びながら、労働歌の一つも出てこようというもの。♬わか~ものよ~からだをきたえておけ~♬
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1月5日(火)  3時間 雪を運べば Run代わり 
そろそろ屋根の雪が心配になってきた。そうなる前に、まずは庭の雪を片付けておかなければならない。午前中3時間みっちり、雪運び。竹デッキの屋根から滑り落ちた雪は、固まって重い。スノーダンプで運び出しては消雪の水で消す。この作業を5回やれば春が来るはず。今年はもう2回やった。だから、5回では無理かもしれない。万歩計はつけてないが、相当の歩数にはなったろう。いつものことだが、動いている間は脚の調子はいい。
昨日は、ドームが開館して本年初走り。UnqさんとYoumyさんは雨天グランドを10㎞走ったというのに、当方は、マシンで5㎞。それも、キロ10分の超スローペース。この調子では、山についていけない。だから、5㎞のうち、2㎞はマウンテン・マシン。15%勾配にして時速4.5㎞。走るのは禁止のマシンだから、走るようにして歩く。今日もドームの予定でいたが、雪運びで相当の歩行距離になったから、午後はもっぱら「田麦堀割訴訟」。どうやら、平太郎にとりつかれたようだ。
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1月2日(土) コロナ避け 年末年始雪籠り    「庭の記2021」は ⇒こちら 
元旦マラソンなく、代わりの登山予定も大雪予報で取り止め。ドームは年末年始閉館で29日から完全家籠り。喪中を理由に、正月行事一切なし。ついでに年末大清掃もなし。もちろん恒例の仲間との新年会もなし。只管机に向かって、「田麦堀割訴訟の顛末記」書き。元旦は朝風呂の後2年ぶりの雪除け。今日で2日連続。積雪は、門と塀と垣根雪囲いの設計荷重を越えた。それで午前中は、そこの雪を掻き下ろして、排雪の作業。動いているうちに、脚の神経痛が消えていくから不思議。雪は午後もまだ降っている。この様子では明日も3日連続の作業・・・続きは「庭の記2021」へ。
言い忘れました。謹賀新年 今年もどうぞよろしくお願いします。コロナ収束は全世界の願い。80億近くの人々の願いが一致する新年なんて、人類史上初のこと。せめて気持ちだけでも壮大に、前向きに。 
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