山の記 2021
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4月21日(水) 古街道 痕跡今も茅峠
茅峠480m 新潟県関川村
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今年は大里峠が開削されて500年目の年に当たる。それ以前の米沢街道は、沼から若ぶな山の稜線を越え、荒谷沢へ下って対岸の稜線に登り返して金丸へ下っていたという。金丸側の稜線の峠を茅峠という。ずっと以前から、この古街道を踏査したいと思って来た。藪漕ぎ山歩きの達人Chuzyさんも、たまたま同じことを考えていたということで、今回一緒に探索踏査することになった。ChuzyさんはUnqさんの前の歴史館館長で、当時二人で山城を探索して薮を漕いだ仲間。久しぶりの藪漕ぎコンビ復活というわけだ。お陰で踏査は大成功。先週事前下見分をしておいたせいもあって、迷うこともなく古道の痕跡を辿ることができた。事前の予想通り、峠は、荒谷沢を挟んだ東西2本の稜線の最低鞍部にあった。荷を運ぶ街道であれば当然のことだ。沢への降り口と徒渉箇所も、最適の場所を選んでいた。昔渓流釣りをした経験から、沢の近くが突然数mの崖になっていることが多く、尾根筋から沢へ降りれる場所は限定されてくるので、そこがうまく見つかるかを一番心配していた。さすが元街道だけあって、全く心配のない場所に自然に下るようになっていた。ただ、徒渉した対岸、つまり沼側の崖に斜めに道を刻んだ跡が見えたが、かなり傷んでいて岩が露出しており、そこは危険なので避けて滝の枝沢を大きく巻いて迂回して、崖に刻んだ道と合流できそうな方向へ進むつもりだったが、その選択が、本日最も難儀な急登攀ルートになってしまった。そこは何とかクリアして、最終的に442mの最低鞍部まで行ったら、そこには明らかな道痕があって、斜めに緩やかに沢へ向かっている様子だった。真のルートはそこから緩やかに蛇行しながら徒渉点に向かうのだろう。次回機会があったら、その道を踏査することにして、今回の踏査を終了した。下山途中、猟師のSさんに会った。我らが徒渉した箇所からずっと下流に熊がいるのだと言う。猟は明日で今日は下見とか。前回の下見分でも、金丸のHさんがここはかつては熊の巣だったと言っていた。熊に遭いたくない一心で、様々な鳴り物を持って歩いた。その分、熊を警戒させて猟の邪魔にはなったかもしれない。Sさんに謝ったら、いや、ずっと下流だから大丈夫大丈夫とは言ってもらったが。とにかく、熊に遇わなくてよかったし、何より、念願の茅峠道を歩けて大満足、大満足。      
 渡辺伸栄watanobu
前週、金丸のHさんとKさんに教えていただいたルート。2度目になるとさすがは慣れて、前回よりも時間がかからずほぼ1時間で稜線のピークに達した。元々の茅峠古道は、ピンクのルートの右側の大きな沢に作られていたという。荷を運ぶ街道だからつづらに折れながら傾斜を緩くしてあの沢の窪地を登っていたのだろう。中世、米沢伊達氏の軍勢だってここを通って、黒川氏にちょっかいを出していた。 
金丸からの尾根登り、5日間で、新緑がうんと濃くなり、コブシは開き、ムラサキヤシオの花も咲いていた
ムラサキヤシオ 今季初見参
特徴的な割れ目、二重稜線かもしれない
標高450m付近で右方向へ進む道痕。写真の平ら面を通って最低鞍部へトラバースするショートカットの道。斜面の横断は、古道廃道の場合、傾斜がきつくなると道は消えて案外手こずることが多い。それより遠回りでも尾根の方が結果的に楽になる。今回も、横断は見送って尾根を直登した。
標高526mの稜線のピーク。対岸に若ぶな山が見える。林が密で沢は見えない。ここから直角に北へ、稜線の分水嶺を辿って最低鞍部へ向かう。
薮を漕ぎながら標高480mの最低鞍部に達した。道痕がくっきりと残っていて、明らかに分水嶺を乗り越える峠。ここが茅峠だ。名前の由来は、この辺りが茅場だったからとのこと。茅は往時は屋根の材料はじめ大事な資源。この辺りの稜線は広く平らで、さらに峠下の斜面も平らな面が多い。きっと、大事な茅場だったのだろう。
峠から北方向へ斜面を横断しながらゆるく下る道痕が残っていた。横断道は雪に押された細木が蔽いかぶさっていて、歩くには難儀をする。消えては現れる道の痕跡を楽しみながら薮を漕ぐ。最も難儀したのは、このような雑木林ではなく、植林した杉林。熊に皮を剥がれて枯れた倒木が縦横無尽に行く手を塞ぐ。この辺りの植林を管理していたというHさんが見たら嘆くだろうな、などと言いながら障害物を越えて進む。その点、ブナ林の中は歩きやすい。夏の葉が茂れば下の雑木は茂れないのだろう。葉のない今の時季は林床は明るく、芽吹きのミドリは柔らかく、歩くには最適期。
広く平らなブナ林の中に、随所に炭焼き窯の跡が残っていた。往時、ここは格好の炭焼き場所だったとのこと。そんな昔のことではない、ほんのひと世代前の時代のこと。山は燃料の宝庫、言ってみれば村々は皆背後に油田を抱えていたようなもの。焼いた炭を背負って峠道を登り下りした。峠の古道は、街道の役割は終えても、重労働の道としてつい最近まで使われていた道。Hさんにしたってこの山道を毎日通って山の手入れをしていた。燃料革命と外材隆盛によって、山に人が入らなくなって3,40年。道も窯跡も、中世の山城跡と同じ痕跡遺物になっていく。がしかし、人々が重労働から解放されたと思えば、嘆いて懐古趣味に浸ってみせている場合ではない。今の自分たちにできるのは、先人の労苦を偲んでひととき山に入ることだけ。
標高350mまで下ったら、ようやく沢の水流が見えた。どうやら酷い崖にはなっていない様子。これなら降りられると、ほっと一安心。
2m弱の崖を降りたら崖を削った道の跡。間違いなく旧街道の跡を辿っていると妙に自信が湧く。Chuzyさんが一心不乱に撮っているのは・・・
この花、吾妻白金草
これが荒谷沢の谷底、思っていたほど急峻な谷ではなかった
徒渉も心配の一つだったが、これも案ずるよりは生むがやすしで、長靴で渡れるくらいの深さ 
斜めに崖を横切る道の痕。素直に左方の薮を伝ってあの道の痕を辿ろうかと思ったが、画面の右奥に滝が落ちる枝沢があって、そこを大きく迂回すれば画面左の斜面よりも緩斜面かもと、そちらのルートを選んだ。そこは上部が思いの外の急な尾根で、まるでクライミング状態で攀じ登ってようやく平らな面に出て迂回してみたものの、結果的には、本ルートとはずいぶん離れてしまっていた。
それでも平らな面に出てしまえば、ルートの選択には困らないほどの爽やかなブナ林の中
 
これが登山道なら登山者の積んだケルンとも言えようが、ここは、道なき人跡未踏の土地。誰が一体石を積んだのやら。多分、雪崩に運ばれた石。 
人も通わぬ深山に咲く花、テングスミレだろうか、一体誰に見てほしくて咲くのやら
とにかく、若ぶな高原の稜線に登り上がって、最低鞍部を探して南へ下る。そこはかつての放牧場の境界で、牛を囲うための有刺鉄線をめぐらしたとかで鉄の支柱が藪中に点々と立っていたが、今はものすごい藪。今回最も手ごわい藪漕ぎ場、ついにたまらずナタをふるう羽目に。そして今立っているここが標高442mの最低鞍部。見事、道痕を発見。ここが沼側の峠。 
峠から、荒谷沢の方向へ緩やかに下る道痕も残っていた。どこまで下れるか、辿ってみたかったが、もはや時間と体力の限界。次回機会があったらここから下ってみようとChuzyさんと約して、本日はこれにて終了とすることに。 
 最低鞍部の峠から薮を抜ければそこは若ぶなスキー場の慣れ親しんだゲレンデ。朳差岳と、葡萄鼻山から大境山へ続く稜線
ゲレンデを歩いて下ってここまで来て、振り返れば、あそこが若ぶな側稜線の最低鞍部。あそこの薮の中に古街道の痕跡が残っている。 
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