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文化3年「田麦堀割訴訟」顛末記 <「済口證文」の真実を明かす>
 ~ 譜代大名・村上藩内藤家に敢然と立ち向かった平太郎 ~
 渡 辺 伸 栄 ・ 筆
2022.10.19改訂
 

訴訟関係町村地図>
<目次>

はじめに

 我が関川村の歴史に、後世の評価が曖昧なまま放置されてきた大きな事件がある。
 江戸時代、文化3年(1806年)に起きた「田麦堀割訴訟」、すなわち女川支流藤沢川の水争い事件がそれである。31ヶ村もの村々と水原代官所、村上藩を巻き込んで、果ては幕府勘定奉行所まで出訴された一大訴訟事件。結果は、原告・幕府領(現関川村)の村々が勝ったのか、それとも被告・村上藩領(現関川村の一部と旧村上市・旧神林村)の町村が勝ったのか。曖昧模糊とした見解が関係3市村(関川村・旧神林村・旧村上市)の公的歴史書に記載されたまま、その後論議されたとも聞かない。
 のみならず、この訴訟の真の相手が村上藩であることすら見逃されたまま。
 原告の中心人物は平太郎、小村の庄屋、とはいえ身分は百姓。相手のトップは、譜代大名で幕府要職にある高級官僚。
 巨大な相手に敢然と立ち向かった平太郎に、村上藩の役人たちは四苦八苦。幕府評定所では、芝居じみた裁判で和解成立。そのことに、関係市村の歴史書も全く気付いていない。
 当地域郷土史上の一大事件であるにもかかわらず、先学が看過し放置してきたこの大問題に敢えて挑戦し、和解合意書である「済口證文」に隠された真実を解き明かそうと思う。


1 訴訟文書との出会い

(1) 平田甲太郎家文書
 関川村の歴史資料館「歴史とみちの館」(以下、歴史館)には、800点余に及ぶ「平田甲太郎家文書」(以下、平田文書)が保管されている。江戸時代の小見村(現・関川村小見)庄屋平田家が残したものである。幸い文書リストがあるので内容の面白そうなものからピックアップして、館長さんの了解の下、文書をスマホで撮影してはせっせと解読にかかった。
 読めるようになると、古文書は面白い。江戸時代のちょんまげを付けた人々の息遣いが聞こえるような気がしてくる。まして、この村の古文書となれば、関川村の小盆地の底の同じ土を踏みしめているという共通感からか、文書に出てくる人々に妙に親しみが湧いてくる。まるで、異次元ではあるけども時間軸を同じにして、すぐ隣に同時進行で暮らしている人々とでも言えばいいだろうか。
 最初に読んだ、小見村柳吉が乙(きのと)の花火大会に出かけて打擲被害に遭った際の「詫状」などは、遠い昔のことでなく、つい今のことのように読めたものだった。  ※解読文書は、「歴史館古文書WEB分館」(以下、WEB分館)に掲載 ⇒こちら
 その中で、とりわけ興味惹かれる文書に出会った。それが、文化3年の「新規堀割用水路出入」と題した訴状だった(出入はもめごと・訴訟の意)。これは、田麦堀割のことだとピンときた。

(2) 田麦堀割とは
 田麦堀割の現地には、以前、登山の折に立ち入ったことがある。郷土史マニアには「田麦堀割」又は「藤沢川掘切」などと呼ばれて、少しは知られた史跡であるが、なかなかそこまでは足を踏み入れることのない場所ではある。
 女川の支流藤沢川の上流にある田麦集落のさらに上流山中の谷間で、村上市へ流れる門前川水域との分水嶺になっている尾根を掘り割って、荒川水系藤沢川の水を三面川水系門前川に引き落した跡である。
 江戸時代初期、村上城の用水確保のための城主堀丹後守による工事とは聞き知っていた。
 現在は、堀割跡に高堤防が築かれしっかりと閉め切られていたが、よくぞここを掘り割ったものだと当時の地理着眼と土木力に感じ入り、閉切り堤防の上にしばし佇んだものだった。  ※田麦堀割の現地探訪は、綿野舞の記「山歩紀行」に掲載 ⇒こちら
 堀丹後守の時代は寛永年中で1600年代、訴状の年代はその200年近く後。一体何があったのか。
 訴状は、崩し字ではあるもののしっかりとした文字で書かれていて、古文書の中では比較的読み易い。興味津々で訴状の解読を進めた。

(3) 6通の訴訟関係文書
 最初に読んだ訴状は、下に掲げるイの文書だった。解読はしたもののどういう訴訟なのか、よく意味がつかめなかった。そのことは後述する。
 ただ、リストにはまだ関係文書があるようだったので、それらを読み進めれば全体像が把握できて訴訟の内容が把握できるのではと考え、関係文書の探索と解読にとりかかった。
 結果、この訴訟に関係する文書は、6通見つかった。※文書6通の原文と解読は、WEB分館に掲載 ⇒こちら
年月順に、各文書の内容を簡潔に整理すると次のようになる。なお、かっこ書きは筆者の補注である(以下、全て同様)。

ア 文化2年(1805年)閏8月 我儘伐り出しの件一札 15ヶ村連判状
 15村は、幕府領11村(滝原・上野山・小見・高田・平内新・桂・朴坂・上野新・新保・若山・小和田)と村上藩領の4村(中束・蛇喰・中・宮前)。
 内容は、「大栗田村(村上藩領)が、我々15ヶ村の入会山や藤沢の所々で勝手に木を伐ったので抗議した。今後出入になっても、幕府領藩領15村に考えの違いはなく、小見村庄屋平太郎と上野山村庄屋九兵衛を惣代にして(村上藩か代官所かへ)願い出るつもりで、そのことに一同異議はない」との念書である。(願い出るとは、訴え出るの意味)
 入会山の木の伐採については、この時代よく争いごとが起きていて関係する文書も外に多く残っている。この件も類似の一件かと思いきや、次のイを読めば、この事件が掘割訴訟の発端であったことが分かる。

イ 文化3年(1806年)7月 新規用水路堀割出入 訴状 村上御役場宛
 原告は、アの幕府領11村に大島村が加わって12村、代表は小見村平太郎。被告は、村上藩領大栗田村とアの村上藩領4村を加えた5村。アで連判した15村の内、村上藩領4村は、勝手に木を伐ったと非難された大栗田村と共に被告側になっている。
 訴状の内容を要約して端的に示せば、次の通り。

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女川用水は、原告12村と被告(大栗田を除く)4村の計16村の組合の用水です。藤沢という所に組合で用水林を育ててきましたが、私たちは川下のため水不足で困っています。
大栗田村は組合ではなく谷も異なるのに、去年春以来、新規に幅2,3間の用水路を堀割って(藤沢川の水を)門前村へ分水し、鋳物師・大関・坪根・山屋の村々に引入れたもので、さらに水不足になり、これでは御田地養育が難しくなります。それで、早々に、用水路を塞ぐよう掛合ったのですが一向に取合わないのです。
去年も、大栗田が用水林の木を伐ったので掛合ったところ、間違いだったと詫びたので(それで)済ませたのです。
蛇喰・中束・宮前・中の4村は用水組合なのに、新規(堀割)の企てを私たちに知らせず、大栗田と馴合いになってそのままにしておいたのです。
このような大きな用水路を堀割られたのでは、僅かの日照りでも水不足して田は干害になり、御上納にも響きます。
何卒、相手の村々を召出して、新規用水路を取り潰し、用水林も伐らないよう仰せ付け下さい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この訴状(以下、7月訴状)を読むと、去年8月の無断伐採の連判時点では、新規堀割には気づかなかったらしい。木を伐られた峰の上だけ見ていて谷底の状況に気づかないというのは、筆者の経験からしても、山ではありえること。その後、アの件を契機に入会山の見分を入念にやって、それで発見したとしても不思議ではない。(と、アとイの文書を読んだときは、単純にそう思ったが、そんな単純なものではなかったことが、この先この事件の追究で判明するのだが、それは後回しにして)

 その堀割工事が去年春からだったと知り、さらにそのことを蛇喰等4村が知っていたのに黙っていたと知って、訴訟となった。その事情は理解できる。
 分からないのは、一つには被告のことである。大栗田は木を伐り、堀割った相手だから被告になるとして、他の4村は、藤沢川とその下流の女川流域にある。訴状にあるように大栗田と一味になったとして、何の利益もない。まして、前年大栗田非難文書に連判している。知らんふりをしていたとしても、それだけで被告側に回す意図が分からない。
 もう一つは原告側の村のことである。12村中、大島は荒川対岸の村でかけ離れているが、女川川口付近に出作地を持っていて加わったのだろうかと想像できるとしても、滝原、上野山、平内新、小見、若山は女川から用水を引ける位置にはない。小和田は女川流域の上流で、藤沢川の水には関わりない。アで連判していることから考えれば、用水には直接関係しないが元々小見組として入会山を共有していたからの連帯なのか、それとも大島のように多少の出作地がそれぞれにあってのことなのか。釈然としないと思っていたら、案の定、後にそこを被告側につかれることになる。それは後述する。
 さらに分からないのは、堀割って門前村へ分水し、鋳物師・大関・坪根・山屋の各村の水利にしたのなら、それらの村々も被告にすべきなのにそうなっていない点。
 とにかく、不可解な訴訟だなというのが、率直な感想だった。

 しかし、その初発の感想は、よく吟味しなおす必要がある。
 というのは、この訴状の末尾には、水原代官所の添翰を求める文章が追い書きされている。これは他領間の訴訟における当時の手続きを踏まえたもので、代官所の添翰を付して村上藩役所へ提訴したことになる。
 もし仮に、添翰を出せないほどの無理な訴訟であれば、そこで却下となるはず。ということは、代官所では、筆者の上記の疑問点は全て了解した上で添翰を出したと考えるべきである。文書だけが全てということはなくて、必ず尋問があるから不足の点は口頭で答え、了解されたのだ。この後の村上藩とのやり取りに代官所もかかわることになるから、添翰を出すことには責任が伴う。
 代官所がなぜ添翰を出したのか、その訳はおいおい解いていくことにする。

ウ 文化3年(1806年)9月 新規用水路堀割出入 訴状  御奉行所様宛
 2ヶ月の間をおいて、訴状は一気に江戸幕府勘定奉行所へと上げられた。
 原告は、イと同じ12村惣代の平太郎。そこにもう一人、上野新村と新保村を兼帯する若山村庄屋仙右衛門が、平太郎と並んで原告になっている。
 被告は、イの5村に加えて、門前川下流域の村上藩領14町村(村上町・門前・鋳物師・大関・上相川・日下・天神岡・山辺里・坪根・中間町・山屋・上助渕・下助渕・潟端)に大幅に拡大され、計19町村が被告となった。
 実は、この文書の前部が欠けていて、原告と被告の町村名は失われており、被告の最後の1村・潟端村だけが残っている状態にある。ただし、この訴状と同内容の訴状がオであって、そこには原告・被告とも全て列挙されており、上記の町村名が確認できる。
 ともあれ、藤沢川の水を引き取って使った町村全てが被告となった。これで、イで筆者が上げた疑問点の三つめは解消されたことになる。原告側の内部で、同じ疑問が出され検討されたものと考えられる。(がしかし、これもまた、平太郎の高等戦術だったらしいと、後で判明する。)
 訴状の内容は概略次の通り。これも要約して端的に示す。

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私たち原告12村と被告4村の計16村は、組合で女川の水を使い御田地養育しています。大島村除く15村は入会山へ植林して用水林にし、水を確保してきました。
ところが近年、村上町大庄屋助左衛門・庄屋助右衛門が村上町その外大関村所々で畑や空地を新田にし、用水が無いものだから、私たちの入会山から北の大栗田側へ新規に幅3間の用水路を掘割り、藤沢川の流れを堰で閉め切って、水を引き取ってしまったのです。それで、助左衛門たちが作った新田へは勿論、被告の村々へも分水しています。
そのために女川の用水は甚だ不足となり、このような理不尽なことでは、御田地養育を続けることもできなくなり、亡所する(土地を捨てる)ほかありません。
その上、被告たちは馴れ合いで、去年、用水林の木を大栗田の者が伐り、新規の掘割用水路を使って川下へ流して売ってしまったのです。そのときは掛合って、間違いを詫びたので済ましたのに、今年になっても止めないでまた同じ場所で木を伐っています。
それで、新規堀割用水を元の形に埋立て、理不尽しないよう被告の村々へ掛け合ったのですが、一向に取合わないのです。
そんな大造りの用水路を新規に堀割られたのでは、私たちの御田地養育のための水が引き取られて、僅かの日照りでも干害になるのは歴然です。第一に御上納にも響くことで、私たちは退転する(落ちぶれて他の地へ移る)ほかなく、甚だ嘆かわしいことです。
結局、被告たちは馴れ合いで理不尽のことをしており、捨て置くわけにはいかず、是非なく今回の訴訟となりました。何卒、被告村々の者共を銘々召出され、いちいち御吟味の上、新規堀割の用水路は勿論、藤沢川の流れを堰き止めた閉切りを取り払い元の形にし、また、用水林にも以後手を出さないよう、私たちの村々が難なく百姓を続けられるよう、仰せ付け下さい。
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 実際の文章は回りくどく同じことの繰り返しで、主述の語も単純にはつながらず、論理的でもない。これは現代とは違う、当時の文章流儀とも言える。
 だが、平太郎たちの訴えは、はっきりしている。
① 理不尽な理由で堀割られ、水が取られ、木も取られた。
② このままでは、自分たちは百姓が続けられない。
③ よって、新規の掘割を埋め、閉切りの堰は取払い、木は切らせないでほしい。
 端的に言えば、願いは「新規掘割を埋め、閉切り堰は取払え」の一点。

 なお、今回の訴状(以下、9月訴状)にも追い書きがあるが、イの7月訴状とは異なる。
 7月訴状は、領主の異なる役所への訴状、つまり幕府領から藩領へだから代官所の添え翰を付した。
 今回は、幕府領から幕府の奉行所への訴状で、前沢藤十郎御役所を経由して奉行所へ差出してほしい旨の願書となっている。
 このとき、前沢藤十郎は水原代官所の代官を勤めており(享和2年~文化7年の間)、原告の村々は、前沢藤十郎の一時預かり地となっていた(関川村史参照)。だから、幕府領の預り領主から所管の勘定奉行所へ提訴するという形になる。代官所は勘定奉行所の配下であるが、藤十郎は、当分預地とあるから現代で言えば委託管理者ということになるだろうか。直接勘定奉行と面談できる関係かどうかは分からないが、奉行所に勤めている旗本や御家人と面識やつては必ずあるはずである。つまり、事前も事中も情報交換はできていたとみるべきである。

 2ヶ月という短期間に奉行所へ出訴したというのは、村上藩の扱いを見限ったのか、それとも、当所からの作戦だったのか。
 村上藩が、「分かった、堀割は元の形に戻させる」と言えば、それでよし。叱ってほしいのは、地元の大栗田と裏切った4村だけでいい。
 それが叶いそうもないから、勘定奉行所へ提訴した。幕府領の土地と水に手を出して、なおかつ幕府領の年貢上納にも響くとなれば、直接所管する勘定奉行所は動かないわけにはいかない。そのためには幕府領に損害を与えている相手は多い方がいい。そんな計算が平太郎たちにできたことぐらいは、容易に推測がつく。両面作戦、あるいは二段階戦法。領主前沢藤十郎、つまり代官所にしても、当然、了解の上での行動である。

エ 文化3年(1806年)11月 内済破談届   前沢藤十郎様御手代・内藤豊前守様御内宛
 江戸時代の民事裁判は内済、つまり当事者間での和解が原則で、訴訟に持ち込んでも、仲介者を立ててまずは自分たちでよく話し合って解決するようにと返される。仲介者のことを噯人と書いて扱人という。
 エの文書は、仲介に当たった扱人から原告と被告の後ろ盾となっている役所役人への仲裁破談の報告書である。宛先は、前沢藤十郎家臣の稲岡茂作と村上藩家臣の三宅佐藤次・佐藤田子七・牧大助・大嶋勝左衛門。勿論、稲岡は原告側、三宅以下は被告側。この役人たちがこの訴訟の担当者で、中には江戸まで出張して被告を支援(どころか、指示誘導)する者もいた。差出人は、岩船町年寄と四日市村・佐々木村・牧目村の庄屋、計4名。被告側原告側2名ずつ。
 報告書の内容を要約して概略を示せば次の通り。

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この度の訴訟は、現地でよく相談して内済にするよう(評定所から)仰せ付けられた由。それで、御双方様御立合い、その場所を御見分の上で、私たちに取扱いを仰せ付けられました。
双方の扱人は、相談の上、用水が渇水のときは、掘割した水路には水を流さず、残らず元々の川(藤沢川)へ水を落とすようにして、用水組合の村々(原告)が差支えないように水の掛け引きをするということでどうかと申し入れたところ、原告側はそれでよいと受入れたが、被告側は不承知。
それでまた、相談の上、七分三分で、4月1日から8月30まで、日割り分水で、水は3日3晩元々の川へ残らず落し、1日1晩堀割水路へ残らず引入れるということで、用水の仕来り通りに水を掛け引きしたらどうかと申し入れたところ、原告側はそれでよいと言うが、被告側は色々差支えると申立てて得心しなく、それで、あれこれ申し入れたのですが、和解の相談は調わず、この上、私たち扱人には手立てがなく、仕方なく破談となりましたので、お届けいたします。
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 この文書(11月破談届)から、原告の平太郎たちが、掘割水路への分水を完全にストップさせることを望んでいるわけではないことが分かる。7対3の割合で分水することを認めている。「用水の仕来り通りに」とは、堀丹後守の時代から、その程度の分水でやってきたということではないか。
 原告の訴えは、あくまでも新規に広げた堀割用水路を埋めて元に戻させることだから、広げる前の従来通りならそれでよい、というのが原告の立場になる。堀丹後守の時代の堀割は狭い水路で、そこから少しの水を引き取っていた程度だというのは、後で明らかになる。
 それに対して、不可解なのは被告側の態度である。何が得心いかないのか、水を全部取りたいということなのか、それとも他に何かあるのか。理由が何も書いてなく、この文章からだけでは理解できない。

 なお、この文書の初めに、「御双方様御立合い、場所を御見分の上で、私どもへ」という文言は、この後の展開に重要な意味を持っている。原告の訴える新規幅拡大の堀割用水路や藤沢川締切りの堰を双方の担当役人が確認した上での仲裁要請だからだ。もし、そんなものが無いのであれば、初めから仲裁の必要もないことになる。そこが、この問題のキーポイントなのだ。

オ 文化4年(1807年)1月・4月 新規用水路理不尽堀割用水引取出入 御奉行所様宛訴状と評定所の裏書 
 訴状の内容は9月訴状そのまま。日付が年を越えた文化4年。裏書の日付が1月25日とあるので、一旦返された9月訴状を、破談となったので再提出し、文化4年1月25日付で受理されたことを示している。
<1月25日付裏書>
 裏書は評定所のもので、「裏書裏判」がある。これは、訴えが受理されたことを意味し、被告に対して、「返答書を持って2月13日に評定所へ出頭するように。もし不参であれば曲事(くせごと=けしからぬこと)である」と通告する内容である。通常は原告がこれをいただいて持ち帰り、被告に見せ、評定所へ引き出して対決となる。この度は、次のカの項にある通り、被告も出頭したところで見せている。
 ともあれ、訴訟は受理されなければ始まらない。だから、受理された意味は大きい。問題の所在が公に確認されたのだ。

<4月21日付裏書>
 裏書はもう一文書かれてあって、日付は4月21日、次のカの項で述べる済口證文と同日になっている。
 内容は、「本件は内証で済ます旨、今日評定所で申出があった。それで、判形を消して初判に持参するように。返答書を一通継ぎ合わせてやる。」
 内証で済ますとは、内々(うちうち)での和解のことで、内済という。そうなったからには、訴訟は取下げ、訴状は不要ということになる。それで、判形を消して持参せよということなのだろう。

カ 文化4年(1807年)4月  済口證文   御評定所宛
 済口は、内済が成立したこと。その証となる証文が済口證文。和解した内容を原告と被告で取交し、評定所にも提出する。江戸時代の民事裁判は、これが原則で、言ってみれば、喧嘩した子どもを呼びつけて、双方を叱って仲直りさせるような感じといえば、当たっているだろうか。
 この証文の内容は、大きく3段に分かれている。1段目は原告の言い分、つまりは訴状の内容。2段目は被告の反論、つまり提出した返答書の内容。それらを踏まえたうえで3段目として、和解した内容という構成になっている。

(ア) 原告の言い分
 概略を箇条書きすると以下の内容になる。

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a 女川の水が不足するので入会山に苗木を植えて用水を確保してきた。
b 村上町助左衛門、助右衛門が大関村所々で畑や空地を新田にして、私たちの入会山の地内北側の大栗田側へ新規幅3間余の用水路を掘割り、水を引き取った。
c その水を被告の村々へ分水した。
d それで、そのような理不尽をしないで、新規堀割の用水路を埋立て、堰の閉切りを取り払い、元の形にするように、仰せ付けていただきたいと、去年9月中に松平兵庫頭様(勘定奉行)へ出訴した。
e そうしたところ、同年10月2日、評定所へ召出され、現地で熟談(話し合いで折り合いをつける)するよう、言いつけられた。
f それで、帰村して掛合ったが調停は破談となり、その内容を12月26日に訴えた。
g 今年1月21日、評定所へ召出され、破談の内容をお聞きいただき、その上、御裏御判を下さる旨、仰せられた。
h そうしたところ、被告の代表村上町外5ヶ村の者が、この掛け合いのためこちらに来ており、その御尊判を、こちらで見たいというので、お願いしたところ、2月13日に御尊判を頂戴し被告へそれを見せた。
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a~dは、これまでの訴状の内容で、用水林の木を伐られたことなどは省かれ、とにかく新規堀割と閉切り堰が作られる以前の元の形に戻させてほしいというので、訴えは一貫している。
e~hによって、内済に至るまでの経緯を知ることができる。後ほど、改めて時系列に沿って事実関係を整理してみたい。

(イ) 被告の言い分
 これが、被告側の提出した返答書の内容になる。ただし、後述することになるが、被告が広範囲にわたり、それぞれ訴えられた内容も違うため、返答書も、それぞれに作成したものがあって、それらを一本にまとめたのがこの証文に載せられた内容ということになる。
 以下、こちらも概略を箇条書きする。

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a 藤沢川は中束・蛇喰・中・宮前4村の用水で、女川は、水かさも川幅も藤沢川の倍あって、小和田・新保・朴坂・桂・高田・中束・宮前7 村の用水だ。
b 原告の内、小和田・新保は藤沢川落合(女川との合流点)の水上だし、若山・平内新・上野山・小見・滝原・上野新6村は、山裾の地形が段違い(段丘の上)だし、大島村は谷違い、これらの計9村共、女川や藤沢川から用水路を引ける地縁にないことが、見分で分かっている。
c 入会山へ昔苗木を植えて用水林を仕立てたと(原告は)言っているが、それは偽りで、一昨年、大栗田の者が光兎山で薪を伐ったとき、平太郎から示された証文の下書きに初めて用水林を伐り取ったと認め(文)があって、それが(後に)差し障る文意だとも思わず、(平太郎から出された)下書きのまま連印したのであって、全て、この度の(訴訟のための)企みだったのだ。
d その入会山は、地元の中束村以外に、14村の入会用水林だということは、決してない。
e 村上町助右衛門、助左衛門が新田を目論んだなどということも、全くない。
f 入会山地内北から大栗田分へ、新規幅3間余の用水路を堀割り、用水を引き取ったと申し立てているが、それは、堀丹後守様が領主のとき御城用水不足で寛永年中に初めて分水を仰せ付け、その後、山屋・上助渕・下助渕3村の本田用水が不足して、その御城用水を掛け、猶又、堀切を仰せ付けられたのだ。
g その堀切が次第に埋まったもので、去る天明年中に領主から(命じられて)浚い普請があったのであって、新規堀割などではない。
h これまで数年来差障りがなかったのに、今般、あのような誤った申立てを受け、まったく意図が分からない。
i 門前・鋳物師・大関・上相川・坪根・日下・中間町・山辺里・天神岡・潟端計10村は、(今回問題の)分水には関係ないのに被告にされ、領主の普請所(工事場所)に差し障ることで、原告代表の平太郎一人の謀計と聞いており、大変困ったことだ。
j 今後、この用水路については、彼是面倒なことを言わないよう仰せ付け下さるようにと(返答書)を差上げ、再度御吟味の上、原告の(平太郎と仙右衛門以外)残り10村の者一同召出されて御吟味中でしたが、今般、双方掛合熟談内済致しましたので、その内容を申し上げます。
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 一読して分かるように、真向否定、全面対決である。これだけの食い違いをどうやって和解に持っていくのか。ましてや、現地での扱人でさえ無理であったことを。当時のこと、相当、居丈高に抑え込んだものか。それにしたって、双方の顔が立たなければ、内々(うちうち)での、つまり形式上は自分たち同士での和解とはならないだろうに。さてどうなる?と、次の和解内容に興味がいく。

(ウ) 和解の内容
 以下に、概略を箇条書きする。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
a 藤沢川は、中束・蛇喰・中・宮前4村の用水で、女川南岸の新保、北岸の中束・蛇喰の3村地先で落合う。よくよく調べたら、原告12村中、この用水を引き取る地縁のない村もある。
b 大栗田地内へ用水路堀切の場所は、堀丹後守が領主のとき御城用水不足で寛永年中に分水を仰せ付け、その後、山屋・上助渕・下助渕3村本田が用水不足で、御城用水を掛けるのに堀切を仰せ付けた。
c 以後、次第に埋まったので、天明年中に村上の領主が浚い普請等を行ったもので、古来よりの証拠は顕然としてある。
d 今般、10年以来、新規用水路掘割と原告が言っていることで、御吟味を受けるのは全く心得違いで、この上、お願い申し上げるべきことはなく、恐れ入ります。
e 然る上は、この堀切場の用水を引き取ることは、これまでの通りと心得、今から以後、原告からいささかも異議のない旨、原告が言い、合意決定した上は、被告においても言うことはない。
f もちろん、拘わり合いのない村々も、その通りで、被告にされた申し分も、証拠のない言い争いも、扱人がもらい受ける。
g このことについて、双方、いささかも申し分なく、熟談内済いたしました。これはひとえに、幕府の御威光と有難き仕合せに存じ奉ります。然る上は、この一件について、双方より重ねてお願いがましきことは申し上げません。後の証拠のため、訴えと返答に連印した済口證文を差上げます。この通りです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 一読して驚いたのは、原告の訴えが雲散霧消していること。a~cは被告の言い分そのままで、あれほど訴えてきた、新規掘割を埋めて締切り堰を撤去させることはどこにも書いてない。平太郎たちの全面敗訴ではないか。嘘つき呼ばわりまでされて、江戸まで一度ならず足を運んで、結局、訴えた新規堀割も堰も、何もなかったことにされて、すごすごと帰るのか。
 そんなことがあるだろうかと、素朴な疑問が湧く。仮にそうであれば、関係文書が現代まで大事に残されるものか。燃やして全てなかったことにしてしまいたいだろうに。それに、平太郎一人ならまだしも、11もの村々の役人(庄屋・組頭・百姓代)だっている。新規堀割も堰も、初めから絵空事なのであれば、こんな訴訟になるはずがない。絵空事でないなら、絵空事だと言われて黙って引き下がるはずがない。何かある。

 そう思って、和解内容をよくよく読むと、eの「堀切場」の「場」の字が気になった。原文の読み下しでは、「右堀切場用水引取方の儀は、これまでの通り相心得」と書かれた箇所の「場」である。これまで「堀切」という言い方はあったが、「堀切場」という文言は初めて出てきた。この文言は、bの「堀切の場所」を指している。その箇所の原文読下しは、「用水路堀切場所の儀は、堀丹後守様御領主の節」となっていて、そこの「堀切場所」に当たる。
 つまり、「これまで通り」で合意した堀切場の用水は、この時代から200年近くも前の寛永年中に掘られて村上城と山屋・上助渕・下助渕3村で使って来た用水のことになる。
 被告側に立てば、新規には何もしていないのだから、「これまで通り」で当然。
 原告側に立てば、新たな取水増は禁止されたから、「これまで通り」で目的は達した。
ということになる。

 それでは、幅3間もの新規堀割はどうなった?あったのか、なかったのか。
 そのカギを解くのが、dの「今般、10年以来、新規用水路掘割と原告が言っていることで、御吟味を受けるのは全く心得違い」の箇所。原告の心得違い(思い違い)だとは言わないで、原文では「奉請御吟味候而者全心得違」、つまり砕いていえば、「御吟味を受けることになったのは、全くの思い違い」。では、思い違いはどっちなのか。
 原告の思い違いなら、ここまで一大訴訟に発展するはずがない。だから、この文言には、被告の側に思い違いがあったのだという意味が込められている。原告・被告・評定所三者了解の上で、そこは有耶無耶しておこうというのが、仲裁のコツなのかもしれない。民事だから、どちらかを正、どちらかを邪とする必要もない。丸く収まればそれでよし。そういうことなのかもしれないが、どこか釈然としない。

2 後世の評価

 「はじめに」で述べたように、この訴訟事件に対する後世の評価は曖昧模糊としている。ちょうど、原告と被告の言い分が真っ向対立しているのに、和解合意の内容が雲散霧消しているのと同じように。そのまま200年、真実は闇に葬られたままの状態である。
 とはいえ、これほどの大事件だけに史料は平田文書以外にも多数残っていて、それらを元に関川村はもとより合併前の神林村、村上市とも、昭和から平成にかけて作成した市村史誌にこの事件を取り上げている。
 真実を解き明かす前に、まずは、それら関係3市村史誌の内容を整理し、それぞれの見解の相違点を明らかにしておく。

(1) 3市村史誌の見解
 3市村史誌の発行時期には7,8年の時間差がある。ということは、当然、先に作成された史誌を読んだうえで次の史誌が記述されているとみるべきである。現に関川村史はそうなっている。そこで、発行年次順に、3市村史誌の内容を整理し、先行史誌の見解をどう受け止めているか見ていくことにする。
 なお、「田麦堀割」については、神林村誌と村上市史では「大栗田堀切」あるいは「大栗田掘割」としている。

ア 神林村誌(昭和58発行)
 「大栗田堀切分水出入」の項目を立て、3市村史誌中もっとも多くのページ(本編9ページ、資料編下13ページ)を割いてこの問題を扱っており、内済に至るまでの経緯が、下記の通り詳しく記述されている。史料がそろっているだけに、ところどころに真実が見え隠れする。(以下、神林村誌通史編を村誌とし、同村誌資料編下を村誌資料編とする。)

(ア) 7月訴状への大栗田等5村の8月反論
 村誌は、文化3年7月の村上藩宛訴状(7月訴状)と、それに対する被告5村(大栗田・中束・蛇喰・中・宮前)の8月付返答書を掲載している。(7月訴状は、1-(3)-イの平田文書と同じ)
 この返答書は、7月訴状への反論(以下、8月反論という)であって、平田文書にはなく村誌で初めて知ることができた。村誌資料編に元史料(釈文)が載っているので、その要点を箇条書きする。(宛先は藩役所なので、丁寧文にした。以下同様)

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a 女川川筋のことは、中束村地元光兎山北前の谷合から流れ出るのを藤沢川といい、中束・蛇喰・中・宮前4村の用水掛りです。同所南奥から流れ出るのを女川といい、中束と蛇喰の地境で落合います。女川の水量は藤沢川の十倍もあって、御料所(幕府領)小和田・新保・朴坂・桂・高田5村並びに中束・宮前計7村の用水です。その内、小和田・新保は藤沢川落合の水上なので藤沢川へは全く拘わりありません。外に若山・上野新・平内新・小見・上の山・滝原6村は地形高低も異なり用水には全く懸り合ない村です。
b 去年、大栗田村が光兎山境内の立木を伐採したことについては、元来この山の木は光兎権現のおしみと言い伝わり、伐り荒らすと不時の洪水があり川が破損するということで、組合15村申し合い、みだりに伐採しないよう取り決めてきたものですが、組合でもない大栗田が伐り荒らしたので懸合に及び、以来伐採はしないと詫びて書付を差し出し、事は済んでいます。だから、この度申立てるべきはずもないことで、全く訴答に及ぶ必要もないことです。
c 朴坂・桂・高田3村は、藤沢川余水落合の下(しも)なので、女川の水量は格段に多く、藤沢川余水などあてにすることもないのです。宮前村でも用水は3村同様で、特に宮前・朴坂入会の西山川も用水にしているので、今まで何の言い分もなく、訴訟をするはずもないのです。
d 大島村は、荒川を隔てていて、女川の川筋とは山も川も別の村で全く拘わりはないのです。
c 以上申し上げた通り、懸り合いない村々までかり催し、その代表だと言って平太郎が訴訟を起こしたのは、何分理解し難いことです。こんなことに重立数ヶ村の騒ぎを取り結び、和睦(仲の良い)の村を妨げて、何とも嘆かわしいことです。どうか平太郎がそのような難題を申し懸けないよう仰せ付け下さるよう、水原御役所(代官所)へ懸合いお願いします。
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 さて、平太郎たちの訴えは、「幅2,3間の新規堀割を塞ぐように」だったはずだが、そのことには一切触れてない。ありもしない新規堀割なら、「ない」と言えばそれで済むはず。それを言わずに、「原告の村々は、藤沢川の水には関係ない村だ」と主張している。つまり、新規堀割はある。それを前提にして、中束・蛇喰・中・宮前と朴坂・桂・高田以外の村は藤沢川の水に無関係の村だから口出しする資格、つまりは堀割に反対する資格はないと言っている。

 また、文中、藤沢川之水ではなく、「藤沢川余水」としている点は重要である。2ヶ所も使っているのだから、釈文に直すときの誤記ではない。
 「余水」の意味は大きい。新規堀割で大栗田側へ流した水の余りの水。藤沢川を堰き止めて分水したとしても、その下流には、枝沢が流入していて藤沢川の水となって落合で女川と合流する。それが余水。
 朴坂・桂・高田3村は、そんな余り水をあてにしなくても良いほどに潤沢な女川の水を使える所だ、だから訴える必要もないはずだと言っている。
 ここでも、新規堀割があることを前提にして、反論していることが分かる。やはり、新規堀割はあるのだ。

 ところが、どこかの段階で、新規堀割そのものをなかったことにせざるを得なくなったのだ。そう考えなければつじつまが合わない。一体何があったのか。

(イ) 9月訴状への被告町村からの反論
 大栗田等5村の返答書が、村上藩→水原代官所→原告と渡された。訴えは、門前払いされた形だ。それならばと、被告を一挙に19町村に増やして江戸の勘定奉行所へ訴えた。それが9月訴状で内容は、1-(3)-ウの平田文書と同じ。
 訴えは、幕府の裁判所である評定所で扱われる。

 村誌によれば、評定所から現地で熟談するように指示され、村上藩はその旨を被告の村々に伝えた。被告村々は、3口に分かれて藩役所へ10月付願書を提出した(願書とは返答書であり、反論であるから以下、10月反論とする)。3口とは、①「村上町等10町村」、②「山屋等3村」、③「大栗田等5村」、それぞれに事情が異なるのだと考えられる。
 村誌は、③の反論は(ア)で掲載したものと同じとして、9月訴状に対する③の10月反論はない。(後で、村上市史資料編にあることが分かったので、後述する。)
 ①と②の内容は、村誌資料編に釈文が載っているので、その概略を箇条書きにして次にあげる。

 なお、少し煩雑になるが①②③の計が18で、被告19町村の数と異なる点について補足しておく。大栗田が①と③の両方に入っていることと天神岡と潟端が抜けていることによる。大栗田の理由は、村上藩への7月訴状の被告で地元村として③、幕府への9月訴状では門前川流域の村として①。天神岡と潟端は、門前川流域ではないことが理由で、どこにも入ってない。

① 村上町等10町村の反論
 10町村は、村上町と門前川流域の中間町・山辺里・坪根・日下・上相川・大関・鋳物師・門前・大栗田。はじめに全体的な受け止めを述べ、次に村上町と門前川流域の村に分けて述べている。

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a これまで原告から一度も掛合なく、訴訟のことは今回初めて聞きました。大栗田堀切用水には全く関わりない村々も多数あり、(熟談せよと言われても)どうすればよいのか。相手違い、名前違いもあって粗雑な内容です。

村上町については
b 茶作りが第一で、本田の用水は御城の御用水の吐き出し水を使っています。余水もあるが茶産業なので新田は作ってなく、余水は吐き捨てにしていました。
c そうしたところ、近年になって茶作が多く値段が下がって採算が取れず、年々茶畑が荒れてきていて、それで、御用水の捨て水をそのままにしないで使える分だけ田に使い、その上、以前畑に直した場所もあるので、使える水の分量を計ってそこを田に戻すよう(藩から)仰せ付けられ、追い追い田作りができるようになってきました。けれども、御用水を使うのは決まった分量があって、私共の自由にはならなく、ほかに用水取り入れ口もないのに、どうして(門前川の)上流へ関わるものでしょうか。
d 勿論、ほかに新田を目論んだなどということは決してなく、それなのに、私共が新規企てで所々に新田を作っているなどと訴えて、意味が分かりません。全くの謀計で、一度の掛合もしないで、不法に訴訟を起こしたのであって、双方様(藩と代官所の)御威光をもって訴訟人を糾弾して下さい。

村上町以外の9村については
e 昔から門前川の水を使って御田地を養育しており、原告が申し立てている大栗田堀切分水には一向に拘わりありません。
f その分水というのは、寛永年中に堀丹後守様が御城内用水に引き入れ遊ばされ、その後、松平大和守様の代に猶又御普請の上、山屋・上助渕・下助渕の本田用水に(するため)、坪根地内より分水仰せ付けられたと、前々から伝えられ承知しています。すでに、その3村は変わらず坪根地内から堰で水を入れていて、門前川の村々は、堀切御分水と拘わりありません。
g それなのに一度も掛合等もなく、私共村々を被告に訴訟とは、理解しがたく、よって、この度どうしても熟談を行う筋はありません。不慮の難題を申しかけられ迷惑至極です。この上そのような不法を申し掛けない様、仰せ付け下されば有難く存じます。
h (以下、訴状の名前が違う、相川村はなく上相川と下相川の2村だと指摘し、さらに該当の人物はいないという指摘を多数あげている。)

潟端村と天神岡村は、川筋そのものが門前川とは拘わりありません。
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 取り付くしまもないほどの完全否定で、熟談をすべき内容も無いと拒否している。
 その論拠を整理すると、次のようになる。
 村上町が茶畑を新田にして使っている水は、あくまでも御城用水からの余水である。だから、上流の大栗田堀切分水には拘わりない。
 門前川流域9村が使っているは門前川の水で、大栗田掘切分水の水ではない。大栗田堀切分水を使っているのは、御城と山屋・上助渕・下助渕3村である。だから、9村は大栗田堀切分水には拘わりない。

 これが否定の論拠になるだろうか。
 寛永の堀切によって、門前川の水に藤沢川の水が入っていることは、皆承知している。水に色はない。その水を使っているのに、自分たちには関係ないと言い張っている。論拠もなにもない。かつては山屋等3村と村上町との水争いだって起きている(村上市史参照)。村上町に至っては、茶畑を水田へ切替を進めていて、それは藩の方針だとも明かしている。皆、堀切拡大によって増水されれば利を得る立場にあるのだ。ところが、一切関知しないの一点張り。頑なすぎる態度は一体何を意味しているのか。

 一度も掛合のないまま、いきなり訴えられて困惑しているというのは、事実と思われる。
 原告の平太郎たちが掛合ったのは大栗田等5村で、それが村上藩への7月訴状。前述のように、そこで新規堀割の閉鎖は否定された。その理由は、平太郎たち原告には藤沢川の水利権がないから。
 それならば、藤沢川の水を使っている者たちとの水利権の争いになる。藤沢川の水は門前川の水と一緒になって流下している。だから、門前川の水を使っている町村は、新規堀割の藤沢川の水で利を得ていることになる。水利権の争いなら、それら町村全てを被告にすべきだ。
 そもそも、7月訴状に、村上藩は水利権の争いだと応じた(大栗田等5村にそう言わせた)のだから、本来は村上藩との争いだ。それができないから、19町村をあげた。一つ一つの町村とやり取りする必要など全くない。人名など細かいことはどうでもよい。平太郎たちの理屈はそうなる。
 最初の段階から、本当の相手は村上藩だと分かっていた。それで、大栗田の無断伐採事件を好機と、自分たちの水利権をまず認めさせた。その上で、村上藩の出方を伺うために、まず藩へ訴えを出した。村上藩が応じないのであれば、幕府に訴えるほかないと初めから覚悟を決めていたのだ。
 真の相手は村上藩だから、被告町村は藩の指示に従うほかない。そう考えれば、被告たちの頑なな態度も論理的矛盾も、理解できる。

② 山屋等3村の反論 (村誌資料編のタイトルは文化四年四月となっているが、これは誤り)
 上記①の中の、村上町以外門前川流域9村の反論は、文章は長いが内容はただ一つ。「藤沢川の分水を使っているのは山屋等3村で、自分たちは関係ない」。水に色はないから関係ないはずないのだが、自分たちの水は藤沢川から来ていないと言い切る論理が分からない。それはそれとして、関係するのは山屋等3村だと言われ、それで、3村は別口で文書を出したということになる。その内容は概略以下の通り。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
a (私たちの)三ヶ村用水は坪根地内の御城御用水堰口上から引取り来ているものです。
b 大栗田堀切分水は、昔、堀丹後守様領地のとき御城用水不足のため、中束村地方(じかた)から大栗田村地内へ、掘貫用水路を作り御用水を引取り遊ばされたものです。
c その後、松平大和守様領地のとき、その場所をなおまた掘切り遊ばされ、私共3村本田の用水に引入れたのです。
d しかるところ、あま岩(軟らかい岩)のため、近年絶えず崩落して通水できなくなり、三ヶ村用水に支障が出たので、天明年中に堀切お浚い普請を(藩が)遊ばされたところ、前々のように通水して、有難く思っていたところです。
e そうしたところに、この度、平太郎・仙右衛門が、新規堀割分水などと不法なことを申し上げていること、理解できません。
f (以下、名前違い等の指摘や一度の掛合もなかったことなど)
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 御城用水を除けば、田麦堀切分水の水を生命線にしているのはこの3村。正当性があるだけに主張ははっきりしている。
 まず、堀丹後守の工事は御城用水のためだけだったこと。堀丹後守の村上城主は元和4(1618)年~寛永16(1639)年。
 次に、松平大和守のとき、三ヶ村用水ができたこと。松平大和守の村上城主は寛永16(1639)年~寛文7(1667)年。
 その後、天明年中に、村上藩が堀切をお浚い普請工事をしたこと。天明元(1781)年~天明8(1788)年の間。
 その上で、新規堀割などではないとはっきりと述べている。「新規堀割」という文言を使って、明確に平太郎たちに反論しているのはこの文書だけ。
 そもそも、自分たちの用水は200年近く前からの権利で、今更新規に掘割するなど自分たちにはあり得ないという主張は理解できる。現地を見ていれば、「ある」ものを「ない」とは言えない。だから、見た人は「ない」とは言えず、見てない人は「そんなものはあるはずがない」と思っているから「ない」と言える。筆者はそうにらんでいるのだが、さて、この後どうなるか。

 ところで、山屋等3村の願書には、次の資料2点が添付されていた。
a 貞享4(1687)年2月24日付 大栗田村7名から御奉行様所宛 「申上げる口上の覚」・・・山の木の伐採に関わる訴えの文書で、その中に「堀丹後守が御城用水不足で、藤沢の黒はけという所の上に堀貫を遊ばされた」とある。
b 寛永11(1634)年卯(4)月11日付 野瀬、近藤両名(工事担当役人・武士)から御算用所宛、「大栗田切通シ御普請ニ而銀子請取」の証書・・・大栗田堀切の実施年は、寛永11年であったことが分かる(この1年だけとは限らない)。

 3村の反論には、最初は堀貫(トンネル)で、その後に堀切にしたとある。これは、aの資料に「堀貫」とあって、これに依ったものと思われる。しかし、それより古いbには「切通シ」とあるので、最初から堀貫ではなく切通し、つまり堀割だった可能性が高い。

 2文書とも藩宛の文書だから、出所も藩に違いない。それなら、最初の大栗田等の反論に添付すればいいものを、そこでは寛永堀切には一切触れてない。初めは、資格なしではねつけるつもりだったが、それだけでは無理と分かり、徐々に新規堀割ではなく寛永堀切だと主張する方向に舵を切り始めたように思われる。それも結構難しいと知りつつだろう。

(ウ) 村上藩の方針
 村上藩から、現地熟談の扱人に指名された岩船町年寄与惣左衛門は、「大栗田堀切分水出入取噯覚書」(以下、覚書)という記録を残していて、内済破談に至るまでの経緯がよく分かる。
 10月13日付で、与惣左衛門(だけではないだろうが)に示された村上藩の方針が記されている。村誌の読み下し文を要約して箇条書きで示す(以下、同様)。なお、資料編にも原文は掲載されていない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
a (7月訴状には)大栗田等に返答させたのに、その後何の挨拶もなく直ちに(幕府に)出訴とは、訳が分からない。
b 大栗田堀切分水は、天明年中に御普請し、これまで20年来余何事もなく来た。今更、用水不足の事情で、(女川の)川筋に関係ない村々まで加担させて公訴するとは、何か謀計があるように思える。
c この堀切は御先代からの場所で、御城内用水に引いたのだと(殿様から幕府へ)申上げれば、すぐに分かってもらえるのだが、それでは、地改め手代などの見分では済まず、御使番か御目付様方が御検地に御出でなられるかもしれない。
d その上、原告の村々も御要害(御城)用水に差し障るとなれば軽いことではない。
e だから、そうすること(殿様から幕府に言うこと)は、差し控えなされたのだが、御普請所に差し障ることは甚だ心外に(殿様は)、思召されていて、潔白の御吟味があるように望んでおり、内済は望んでいない。
f しかし、此度、思い通りに熟談すれば、被告になった村々も大きな喜びになるだろうから、一入骨折り、取り扱うように。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 藩の言う謀計とは何かといえば、ありもしない新規堀割を言い立てて、昔からの用水である寛永堀切の水を全て奪おうということ以外、考えられない。それは御城の用水で、とんでもないことだ。だから、潔白の裁定以外ないのであって、熟談内済などありえない。これが藩の主張。
 しかし、これまで何度も言ってきたように、新規堀割などではないと潔白を証明したいのであれば、代官所の手代でもなんでも来てもらって見てもらえば済むはず。それをやらないで、殿様から言ってもらえば大事になるし、原告もタダでは済まないから、やらないのだとか。内済にはしたくないけど、被告の村々のために熟談に入るのだとか。それは新規堀割ではなくて元々からの分水だと、言いくるめたい意図がありありではないか。
 だれもかれも、藩のその意図が分かった上で、仕方なく動いている。

(エ) 村上藩の熟談書文案 
 10月22日付覚書に「熟談の大意」と記された村上藩から示された熟談書文案が載っている。

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a 大島・小見・滝原・上野新・平内新・小和田・新保は(女川や藤沢川には関係ないので)、以後、堀切分水には決して差障り申さぬこと。小和田・新保以外は、女川用水組合にも携わらないこと。(村誌の読下し文には都合9村となっているが、2村足りない。上野山と若山。これは原文の書き落しか、又は読下し文にする際の落しか。)
b 残りの朴坂・桂・高田は、天明年中に堀切浚い普請のとき4村掛合いの通り、万一干ばつのときは藩領の4村と掛合い、御領主(藩主か代官所か)に申立て、差支えないように取り計らうつもりなので、他に言うことはない。(4村とは中束・蛇喰・中・宮前)
c 結局、24,5年来干ばつもなかったので、行き違いがあったのだろう。以後、この申し合わせの通りに決め、勿論、堰上げなど、なおざりして渇水の申し立てをするなど決してしない。
d 互いに和熟して双方の御田地差支えならないよう取り計らうこと。このほか、藩領15村被告村々へ兼ねて内々掛合もせず、相手違い、名前違いなど、不束のことは扱人がもらい受けるので、互いに異論はない。
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 これまでの町村からの反論同様、完全に論点をずらしている。敢えてずらしているのか、それとも前述の謀計だと思い込んで防御に出ているのか。前者だとしか思えないのだが。

(オ) 村上藩の破談意志
 村誌によれば、19町村庄屋と扱人は随時会合して藩役人の指示を受けていた。勿論、藩側の扱人である。10月24日の会合で、殿岡組大庄屋から扱人へ伝達された村上藩の意向が記録されている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
a 原告が全く筋の立たないことで願出ているので、熟談はできず、破談になるしかない。だから、各々、破談と心得て存分に掛合うように。
b 堀切江口でわずか5,6尺余の所を幅3間余などと、明らかな偽りを申し立てて謀計を企むのだから、とても内々では分からないだろう。(評定所の)御裁断をお願い申し上げるほかない、破談の意向を明らかにすべきと(藩の役人)各々一決した。この通りであるから、内済はしてはならない。
c いよいよ評定所裁決となっても、諸入用の分は、御上様(藩主)より下されるので、この度は御奉公と心得て、各々精を出すべきであると内々申し含むべしと(藩主の)御沙汰があったので、このことを承知するように。
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 やはり、被告19町村はダミー(身代わり)で、真の相手は村上藩だった。何しろ費用は出す、御奉公だと思えというのだから。板挟みになった人たちは、何が何だか分からないまま「関係ない、関係ない」と言っていたことになる。
 それにしても、1間幅を3間幅と明らかな偽りを言っていると言うが、そんな明らかな嘘でこれだけの騒ぎになる方がおかしい。ありえない話だ。それぐらい皆分かっているから、板挟みなのだ。
 本当は5,6尺なのだと、これで押し通すのだと言い含めている。逆らえるはずがない。先に熟談合意文案を作ってはみたものの、こんな論点ずらしの話が通用するわけがないと分かって、もう破談しかないとなったのだ。
 評定所まで行けば、なんとかできるという見込みが藩主を含め上層部にはあったと思われる。なにせ、当時の藩主は内藤信敦、将軍間近に仕える幕府の高級官僚、文化10年には幕府寺社奉行に就任するほどの実力者(ウキペディア参照)。こんな大物に立ち向かったとは、改めて、平太郎という人の人物像を後で考えてみたいと思う。

(カ) 現地調停の様子
 村誌本文の記述(p272)を要約し箇条書きにする。村誌に出典は示されてないが、これまでの記述の続きから、これも与惣左衛門「覚書」からと思われる。(一部太字にしたのは筆者、以下同じ)

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a 熟談の日時は11月2日と決まった。
b (被告)19村の庄屋・組頭・百姓代、扱人、殿岡組大庄屋が、雪道を中村に到着した。
c 村上藩からは、奉行三宅佐藤治と佐藤田子七、牧大助、大嶋勝左衛門、蛇喰村を本陣とした。
d 原告側の出役は、水原代官所手代稲岡茂作、扱人は牧目村庄屋常右衛門と佐々木村庄屋清治。
e 会談は3日から始められ、19村の組頭と庄屋は、御年貢収納時期で帰村。
f 4日に、堀切現地見分
g 5日から話し合いが続けられたが、折り合う筈はなく、11月13日に扱人4名による破談届提出。
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 4日の現地見分が最重要である。
 それなのに、直前になって19村の村役人は帰った。帰ったのは組頭と庄屋とあるが、百姓代だけ残る理由がない(庄屋・組頭が村の執行部で、百姓代は百姓の代表、いわば評議員だから)。それは書き落しで、全員帰ったとも考えられる。原告の参加者は書かれてないが、当然、被告側同様にいたはずであるし、原告代表の平太郎と仙右衛門を残して、被告同様残りはみな帰村したとも考えられる。
 それでも、双方の役人、扱人、原告被告代表者と、相当の立場の人々が掘割の現地を見分している。幅1間弱の寛永以来の堀切か、それとも幅3間の新規に削った堀切か、一見して、あるいは、よく調べれば分かるはずである。たとえ積雪があったとしても、削った尾根は見ることができるし、分水路と藤沢川本流の水量の違いは、雪でも見えただろうし、藤沢川本流を締め切ったという堰の有無も見えたはず。それなのに、ここで、黒白を付けられなかったということは何を意味するのだろうか。

 いくつかの仮説を立てて、何があったのか考えてみた。
① 新規堀割も締切堰もなかった場合。平太郎たちの虚偽もしくは勘違いという結論で、一件落着。但し、平太郎は無事では済まない。そうならないということは、明らかに寛永堀切とは異なった様相が見て取れ、平太郎たちの虚偽もしくは勘違いと結論付けるには無理があったということ。
② 藩側が、この日までに新規堀割の分水路を埋め戻して旧来の川幅に戻し、本流の締切り堰も取り払っていたとしたら。平太郎たちの願い通りになったのだから、それでよしとなって熟談成立のはず。しかし、藩の方針はすでに破談と決まっている。ということは、あくまでも新規堀割の存在自体、藩にとっては認められないことになる。元の形に戻したからよいだろうとは、決して言えない。そもそも、こそこそと埋め立てて、なかったことにしてほしいとは、面子にかけても言えまい。
③ どう見ても誰が見ても、新規に拡張した堀切であるにもかかわらず、藩側が、これは新規でなく寛永以来の堀切で、広く見えるのは長い年月の間の崩落だとか、堰も自然に出来たものだとかと、主張した場合。つまり、目の前に新規堀割も閉切堰もある、にもかかわらず、藩側が絶対に違うと言い張った場合。ここにいる人たちで、黒白を付けることのできる立場の人はいない。裁判官のような上位判定者がいないのだ。
 ③の場合、そこにいる人たちは、限定された少人数の方がよい。大部分の村役人を返した理由もこれならうなずける。また、村誌は「折り合う筈はなく」と書いているが、文脈からしてこれは「覚書」の文言と思われる。扱人でさえ「折り合う筈もなく」と書かざるを得なかったのだ。

 5日からの話し合いは、黒白を付けるためではなく、どう折り合いをつけるかで知恵を絞ったのだろうが、藩側はすでに、ここで決着を着けるのは無理と踏んで、前述のように幕府評定所へ行けばなんとかできると目算していたのだ。

(キ) 破談から評定所へ
 村誌は、破談届(平田文書の前掲1-(3)-エと同じ)を掲載し、続けて、破談から評定所における熟談までの経緯を簡潔に記している(p273)。その要点を箇条書きする。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
a 現地で破談の後、村上藩は殿岡組大庄屋小田彦十郎外10人に、11月15日には江戸へ出立するよう命じる手回しの良さ
b 原告は、12月26日に破談の趣を訴え上げ、翌文化4年1月26日に評定所に召出され、破談の趣受理、訴状に御裏判下さる旨の申し渡し。
c 被告19町村も「一件懸り合い」として出府して居り、御尊判を江戸で拝見したいと願出て受理された。
d 2月13日、御差日(指示された日)の裏書裏判のある訴状を頂戴して、被告側へ手交し、被告側からは返答書が差出されて御吟味に入った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 aとb前半の出典は「覚書」と思われるが、b後半以降は、「済口證文」にある通り。dにある裏書裏判のある訴状とは、平田文書の前掲1-(3)-オのことである。
 それにしても、「手回しの良さ」の文言には、扱人を命じられてさんざん苦労させられた与惣左衛門の、藩に対する皮肉が込めれているように思われる。

(ク) 熟談成立
 村誌(p273)は、「御吟味の経過を記した資料が残っていない」としつつも、「奉行所からは訴訟方に強い圧力があったのであろうか(訴訟方とは原告のこと)」と書いて、4月21日に熟談がまとまり、済口證文(平田文書の前掲1-(3)-カ-(ウ)と同じ)を掲載して、それを評定所へ差上げて一件落着したと書いている。
 村誌も、これほどの対立を和解させるには相当の「強い圧力」が必要だったと見ている。
 それもそのはず、「ある」ものを「ない」とするには、かなり強引に運ばなければならない。ただ、いくら評定所とはいえ、一方的な押し付けで通るはずがない。双方と相当なやり取りがあったと見るのが普通である。
 和解に至るためには、どちらの顔も立て、なおかつ、どちらも同じくらいの不利益を我慢することでなければならない。評定所ならそこをうまくやってくれる。それが村上藩の狙いと見た。単純に黒白を付けられたら、村上藩は困る。だから、回りくどく回りくどく立ち回り、何が何だか分からない状況を作った上で和解に持ち込む。高等戦術と言えるが、それに付き合わされた扱人や村役人たちにとっては、迷惑なことだったにちがいない。その怨嗟を藩に向けることはできなくて、平太郎さえ余計なことをしなければと、方向違いに向けられた可能性はある。

 なお、村誌は、殿岡組大庄屋小田彦十郎等の逸早い出府は、「藩の江戸屋敷の要人に実情を説明させ、要人から然るべき方へ種々手を打たせるためであることは疑う余地がない」(p274)と書いている。村誌にも、藩の高等戦術は分かっていたようである。それなのに、(コ)で後述するような結論で締め括ったとは、まことに残念と言うほかない。

(ケ) 村上藩による経費拠出
 先に述べたように、村上藩から、諸入用の分は、御上様(藩主)より下されるので、この度は御奉公と心得よと示された通り、内済に至るまでの被告側の経費は、村上藩から拠出された。
 村誌資料編には、文化4年5月付で被告代表の村上町組頭、大栗田村庄屋、中束村庄屋、宮前村庄屋、山辺里村庄屋、上助渕村庄屋6名からの収支報告書「堀割一件江戸表出府諸入用書上写し」が掲載されており、経費として約57両かかったことが報告されている。
 村誌は、「このように出府人の経費を藩が出すというようなことは、他に例を見ないことである」と記している。
 それだけ、平太郎の訴訟は村上藩にとって衝撃的だったということを示している。
 何度も言ってきたように、ありもしない3間幅新規堀割の虚言に、藩がこれだけの公金を費やすはずがない。しかも、相手は幕府領とは言え一介の百姓身分の者に過ぎない。平太郎の訴えが真実であったことは最早明らかと言うほかない。

(コ) 神林村誌の見解
 村誌は、済口證文の内容は、「訴訟方の主張を全面的に退けたものであった。」(p274)と書き、「小見村庄屋平太郎が、結果から見て全面的に否定されるような事柄を根拠に、関係ない村々まで巻きこんだ訴訟を、何故おこさなければならなかったのか、この点は不可解である。」(p275)と書いて、「第三節 大栗田堀切分水出入」の項を結んでいる。
 端的に言えば、このような無意味な訴訟を起こした平太郎の意図が分からないということだ。

 これまで述べてきた筆者の考察からすれば、村誌が何故このような結論しか書けなかったのか、そちらの方が不可解だと言うしかない。
 「全面的に否定されるような事柄を根拠に」して、ここまで大騒ぎになるか、村上藩がそんなことに大金を出すか、虚偽で評定所まで訴えて無事で済むはずがない、というくらいは考えられると思うのだが。
 通史の性質上、一々の資料検討をそこまで入念にする余裕はなかったのかもしれないが、それならそれで、せめて「改めての研究が必要である」とかで結んでほしかったと思う。真摯な研究態度とは、そういうことではないだろうか。

 とは言え、神林村誌には感謝している。これだけの資料をそろえていただいたおかげでここまで真実を追究することができた。自然環境から始め、原始古代から現代までを824ページに収めようとする通史の中で、「大栗田堀切分水出入」に本編で9ページも割き、しかも別冊資料編下に13ページを当て、平田文書では知りえなかった貴重な史料を掲載していただいたことは、後続の研究にとってどれほどありがたいことか。批判は批判として、率直に感謝の言葉で「神林村誌(昭和58)」の検討を終える。

イ 関川村史(平成4)

(ア) 地元村史の扱い
 関川村史(以下、村史)が、全1000ページ余中、田麦堀割訴訟に当てたのは2ページ弱に過ぎない。記述内容も、平田文書の7月訴状と9月訴状の要点を示しただけで、他は全て神林村誌からの引用で埋めている。
 与えられたページ数の中に収めるために相当の無理をしたのだろうが、率直に言って粗雑な内容と言わざるを得ない。
 特に、済口證文の内容として、「村上城池と上助渕・下助渕・山屋三村で水不足のときは分水してよいというものであった。」と記述している(p443)が、済口證文のどこを読んでもこのような内容は出ていない。また、解釈だとしても、このように解釈できる文言はない。
 11月の内済破談届に扱人の仲裁案の一つとして、それに近いような内容があるので、それと混同したものと思われる。もちろん、それは破談となっており合意事項ではない。
 ただし、平太郎たちが訴訟の対象にしたのは、表向きあくまでも農民・町民の町村であって、元来軍用要害である御城を表立って対象にできるはずもなく、「村上城池が水不足のときは分水してよい」などということは、破談届書の仲裁案にも済口證文にも書けるはずもないことである。
 関川村の人間である平太郎が、村上藩領の町村はダミーで、実際は譜代大名・内藤村上藩を相手取って江戸の勘定奉行所まで訴えた一大事件である。それにしては、地元村の公式歴史書である村史の扱いがお粗末過ぎて、嘆息せざるをえない。

(イ) 関川村史の見解
 ところで、村史には、最後に気になる一文が載せてある。
 「十二村惣代平田家では理不尽に掘割りをし分水されては、女川流域で水不足となり、この訴訟で歯止めをかけることができたとしている。」(p143)
 村史は、本文で神林村誌を引用してきたのであるから、当然、村誌の結び「不可解である」を読んでいるはずである。その上での村誌の疑問への回答と受け止めるべきであろう。
 平太郎は、何故、このような訴訟を起こしたのか、それは理不尽堀割による分水を防止したのだ。理不尽堀割とは、当然、寛永堀割ではない。つまり、新規堀割を防止するのが平太郎の訴訟の意図であって、それに成功したのだ。というのが、関川村史の見解ということになる。

 どうしてそのような見解に至ったのか。史料等の裏付けは全くない。
 12村惣代とは訴訟原告12村の代表の意であるから、村史の言う平田家とは平太郎の家のことである。つまり、平太郎の家ではそう言っている、ということになる。
 平太郎の家は、代々小見村庄屋であり小見組大庄屋も勤めた平田家である。平太郎は、平田家の12代に当たる。
 村史の述べ方から推測すれば、現代まで続く平田家でそういう言い伝えがあるというように、読めなくもない。ただ、平太郎から続く平田家は、村史発行より以前に他出し在村していない。平田家の分家に当たる平田大六氏に確認したところでは、そのような言い伝え等は聞いていないということであった。(2020年12月16日歴史館にて聞取り)
 また、高橋重右エ門著「先人からの贈りもの」(平成5)の「史跡 田麦堀割址」の項にも、そのような言い伝えや解釈については、一切触れられてない。(なお、同書にも「「村上城池水不足のとき導水してよい」ということで、両者熟談まとまり」(p166)とあるが、上述した関川村史の誤りをそのまま一部引用したものだろうか。)
 勿論、両者以外の出所ということも十分考えられる。伝承も重要な歴史の資料ではある。歴史書記述者としては、せめて、出所ぐらいは明記すべきである。
 関川村史の最後の一文は、この事件の真相を解明するための重要なヒントとなっているだけに、根拠不明の記述であることが惜しまれてならない。

 それはさておき、関川村史としては、田麦堀割訴訟にはそれなりの意味があったのだと、プラスの評価を与えていることになる。無意味な訴訟と見た神林村誌とは真逆な見解である。

ウ 村上市史(平成11)
 村上市史は通史編2近世(以下、市史)で、2ヶ所に分けて田麦堀割訴訟を取り上げている。1ヶ所は、第6章で水論(水争い)の事例として1ページ、もう1ヶ所は第7章で、江戸での訴訟事件として3ページである。いずれも、本文の記述は簡略である。

(ア) 大規模な事件
 7月の村上藩への訴えには触れず、9月の幕府評定所での訴訟を「大規模な事件であった」(p333)とし、原告・被告双方の主張を並べている。それを要約すれば次のようになる。

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原告…被告が村上町や大関村など所々で畑・空地を新開し、新規用水路を堀割って、女川の水を引いたので、原告村々は深刻な水不足になっている。新規堀割水路を埋め立てるよう仰せ付けてほしい。
被告a(大栗田・中束・蛇喰・宮前・中)…女川も藤沢川もこれまでに水不足という事実はなかったので、原告の訴えはい言いがかりである。
被告b(山屋・上助渕・下助渕)…自分たちの用水はかつて堀氏が城の堀に水を引くために掘削した水源によるもので、女川水系の水は用いていない。
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 原告の主張は、村上市史資料編近世2(以下、市史資料編)に9月訴状が釈文で掲載されており、それに基づいて端的に説明されている。
 被告の主張は、2件に分けて説明している。被告bの山屋等3村の主張は、神林村誌にもある内容である。但し、元史料には「女川水系の水は用いていない」との表現も文意もなく、この点は不正確である。

(イ) 大栗田等5村の10月反論
 被告aの大栗田等5村の反論については、市史資料編に新たな史料が載せられている。
 「神林村誌」の項で説明したのだが、9月訴状への被告の反論は、①村上町等10町村、②山屋等3村、③大栗田等5村の3口に分かれていた。そのうち、③の大栗田等5村の反論は、村誌にもその資料編にも、7月訴状への8月反論が掲載されたのみで、9月訴状への10月反論はなかった。
 ところが、村上市史には、9月訴状への大栗田等5村の10月反論が載っていた。市史資料編にはその元史料が釈文で掲載されているので、それを要約して、以下に箇条書きする。文章は大きく2段構成になっている。

 9月訴状への大栗田等5村の10月反論 「乍恐以口上書奉申上候」
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1段目
a 7月の訴訟の際、返答書を出したのに、どうしたことか否も言ってよこさず、更に相手(被告)を増やして一向に引き合わない(割に合わない)訴訟を起こしたので、なおまた一々申し上げます。
b 第一に用水組でもない村々が多くあります。(原告の)用水に差支えると言うが、9村は地縁も違い、用水に全く拘わりない村です。もし、朴坂・高田・桂の3村内に出作地でもあって訴えたのだとしても、(用水のことは)その3村で拘わるべきことと決まっていることです。
c 中束の山から大栗田地内への藤沢川分水場は古来よりの堀切で、次第に埋ってきたので天明年中に浚普請をした際、御役人も出張され人足も大勢入ったので、川下で不審に思われないように、私共から前もって掛合って置くように仰せ付けられていたので、大栗田外4ヶ村から(川下の村へ)次のように申し入れたのです。「この度、堀切浚普請があるが、旱魃の時は川下の御田地(以下、田)に差支えないようにすることは、御領(幕府領)の3村(朴坂・高田・桂)も(藩領の4村と)同様のことである。万一、旱魃の年があったら4村(藩領の中束・蛇喰・宮前・中)で申し聞くように」と。
d ですが、今まで何の障りもなく、何程の長照りがあっても女川は勿論藤沢川も旱魃になったことはなく、25年来旱魃でお願いするようなことは、幕府領にも藩領にもなかったのです。
e だから、この度の平太郎の計画に、3村(朴坂・高田・桂)は始め同心しなかったのに、無理に同意させられたのです。平太郎の意図は、この訴訟がどっちに片付こうとも全く村々の損益に拘わるものではなく、数ヶ村を相手取り、つまりは米金をもって内済(和解)に持込み、得分を(原告)12村で分けようという企みで、村々もそれならと同心したと聞いています。
2段目
f 7月に私共が返答した趣意は、大島村・小見村外7村は用水に拘わりない村で、不実の訴訟で、他に返答しようもないということです。
g 朴坂村外2村は用水に拘わっているが、これもさっき言ったように(田に)差支えはないことなので、そのように返答しました。
h とはいえ、その3村では、本当のところ言いたいこともあるのであれば、幾重にも訴答に及ぶ(話合いに応じる)つもりだったのに、それ以来は掛合もなく、私共が返答した内容に納得したと思っていたのに、全く知らせもせずに、御公儀(幕府)まで御苦労をおかけすることになったのです。
i その上、種々掛合をしたけれども取り合ってもらえなかったなどと言って、数ヶ村を相手にして、なかんずく、堀切分水の用水路幅は5尺余なのに、幅3間余も理不尽に掘割りしたなどと言って、誠に不埒至極です。
j しかしながら、今般の熟談の仰せ渡しも重いことなので、恐れ多いことですが、御双方様御立合いの上、堀切江筋願い並びに幕府領12村用水懸りを御糺しの上、用水に拘わりない村々は(この問題に)携わらないように仰せ下さい。
k 朴坂村外2村の用水については、先年の話合の続きなので私共へ熟談仰せ付け下されば、幾重にも熟談して片付けます。
l 右に申し上げた通りで間違いありません。御双方様御威光をもって、9村を退け、朴坂外2村へ熟談仰せ付け下さい。その上で、9村の者共が納得しないようでしたら、その者共の謀計始終を江戸表へ訴えたいと思います。
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(ウ) 8月反論と10月反論の比較
 7月訴状に対する大栗田等5村の「8月反論」と9月訴状に対する同5村の「10月反論」を比べて、その違いをみると、この間の作戦変更が分かる。
 まず、原告12村中9村は藤沢川の水(を含む女川)に関係ない村であること、残り3村(朴坂・桂・高田のこと、以下3村)は関係あるが、藤沢川の水をあてにしなくてもよい村であること。だから12村の訴訟は意味がないとの主張は、8月・10月とも一貫している。
 その理論に、今回、次の3点を補強している。
① もし、9村の者が、3村の地に出作地があるから関係があると主張するのであっても、用水のことは出作地のある村がやることになっているのだから、口を出す資格はないこと。
② 3村の水は潤沢なのだが、もし、旱魃で水不足になるようなことがあれば、藩領4村(中束・蛇喰・中・宮前)も同じ立場なので、7村でよく話し合って、お互いに困るようなことはしないと前から言ってあること(言外に、堀切の水を藤沢川へ回すという意味が感じられなくもない)。だが、これまで何程の日照りがあっても、25年来、そんな事態は一度もなかったこと。
③ 3村が、もし②のことで心配していて訴訟に加わったのなら、これからでもいくらでも相談に応じること。

 次に、今回新たに加えた内容が3点ある。
① 藤沢川分水場は古来よりの堀切で、25年前、天明年中に浚い普請したこと。その際、藩の役人も来て、工事人夫も大勢入ったこと。
② 堀切分水の用水路幅は5尺余なのに、3間余も理不尽に掘割りしたなどと不埒なことを言っていること。
③ 3村は、始め平太郎に同心しなかったのを無理に同意させられたこと。平太郎は、この訴訟の結果がどうなっても、原告村々の損得には関係しなく、相手の村々と米か金で和解に持込み、それを12村で分ければよいという企みで、それならばと村々同意したと聞いていること。

 そして、8月反論にあって10月反論になくなったことが2点ある。
① 文化2年の大栗田村による立木伐採のこと。
② 3村が女川の水量が豊富で藤沢川の水をあてにしなくてもよいところだと説明する際の「藤沢川余水」という文言。

(エ) 比較から見えてきたこと
 この比較から見えてきたことは、次のことである。
① 平太郎たちの訴えは、「新規3間幅の堀割を埋めて藤沢川閉切りの堰を取り払うこと」。これに対して、最も現地に近い大栗田等5村は、最初の8月反論ではそれの有無には全く触れず、「原告に訴訟の資格なし」と答えた。そして、資格なしの訴訟を10月反論では「不実の訴訟」と言った。
 しかし、元々幅3間の新規堀割が「ない」のであれば、「ない」ものを「ある」と訴えることこそ「不実の訴訟」である。それを言わないであくまでも資格なしの形式論で押し通そうとした。
 「ない」ものを「ない」と実質論で争えば済むだけの話を、現地の現状を知る者としては、そうはできないからこそ、形式論で反論せざるを得なかったのだ。つまり、「ある」ものを「ない」とは言えなかったということだ。

② しかし、10月反論は8月のそれと違って、幕府へ提出するものである。藤沢川は幕府領の川でもある。だから、訴えの内容が虚か実かに全く触れないわけにもいかないと判断したのであろう。もちろん、そう判断したのは村上藩である。藩からのてこ入れが相当入念になされたと見なければならない。
 それで、幅は3間ではなく3分の1の5尺余だと付け足した。それでも、5尺余の用水路は新規堀割ではないとは明確に言っていない。
 古来よりの堀切を25年前に浚い普請したのだという話は、朴坂等3村の扱いの説明で出した話で、5尺余の掘割の話とは直接の脈絡をもってはいない。つまり、「今あるのは新規3間幅堀割ではなく、古来からの掘割を25年前に浚い普請した幅5尺余の掘割である」とは、明確に主張していないのである。何となく、そのようにつなげて解釈してもらえるようにという書き方である。
 さすがに、「ある」ものを「ない」と断定することは、この段階では躊躇されたのだと思う。

③ とはいえ、今更、新規に幅を拡張したとは言えない。村上藩としてこれを胸張って言えれば、話はごく簡単で、こんな大事件にもならなかったはず。なぜ言えないのか、その理由は一つしかない。幕府に無届だったからに違いない。
 幕府の許可を得ていれば、最初の訴訟で代官所が添え状を出すはずもない。
 よくよく考えてみれば、大栗田等5村は、まさか無許可とは思ってもいなかったのだ。だから、「関係ない村は口出しするな」で収まる話と思っていたふしがある。ところが、その後の藩の様子がおかしい。「ある」ものを「ある」とは言いたくないような、かといって「ない」とも言いにくいような。
 藩としては、まさか百姓たちに藩の不始末をばらすわけにもいかず、とにかく幕府まで上がったらどう始末付けようかと頭がいっぱいだったはず。とりあえずこの時点では、はっきりしない有耶無耶の部分を多くしておくほかないというのが藩の方針というように見える。だから「余水」の言葉などは抹消というわけだ。
 多分だが、無許可だったのは単なる事務手続きの手落ちだったのだろう。「まいったな」というところが、藩の役人たちの正直なところではなかったか。この後、代官所にも幕府にもその辺りの事情が理解されて、三者三様に「まいったな」「で、どう収める?」という問題になっていったのだろうと、これは推測ではあるが、案外当たっているような気がしている。(この後、法廷の場面も含めて事件の全容が明らかになると、もう少し複雑な事情も見えてくることになる。)

④ さしあたって真っ正直に突っ込んでくる平太郎をどうするか。戦術としては揺さぶりをかけておくに限る。それで、ゆすりたかりまがいの強欲悪人だと情報操作。あわよくば、3村と9村の分断作戦。そんな作戦が透けて見えてくる。

⑤ ところで、先に平田文書「済口證文」の和解の内容1-(3)-カ-(ウ)で指摘しておいた「場」の語が、この10月反論で使われていた(1段目のc)。ここでは「分水場」、済口證文では「堀切場」。「場」といえば、寛永堀切の場所を指していることになる。それを、済口證文で利用したのだ。なお、iで、幅5尺余を持ち出した箇所では、「場」は使っていない。微妙な使い分けからは、村上藩の苦衷が透けて見えるように思えるのだが、どうだろうか。

(オ) 村上市史に欠けた史料「村上町等10町村の反論」
 上記(ア)で述べたように、市史は、村上町や大関村等所々で新田を作り水を引いたことでこの訴訟が始まったとして9月訴状を取り上げ、それへの反論として、大栗田等5村と山屋等3村の元史料をあげ、本文にも要点を記述している。
 ところが、肝心の村上町や大関村所々の新田に関わる反論には全く触れていない。それの元史料があることは、市史作成の時点で、すでに神林村誌で明らかになっている。執筆担当者なり監修者なりがそれを見ていないとは思えないが、なぜ一行も触れていないのか、これまた不可解である。
 もしかして、当時の市内には史料が存在しないので触れなかったのかもしれない。(市内にある史料だけで市史を書くという方針ではないと思うが。)
 そのことよりも、この場合、なぜ、この史料だけが旧村上市内、あるいは当時の村上町に存在しないのか、そちらの方がむしろ問題なのである。本論文の後半で、その問題を検討する。

(カ) 江戸での訴訟
 田麦堀割訴訟についての市史の記述は、争いの経緯よりはむしろ江戸での訴訟の様子に重点を置いている。というのも、当時この訴訟裁判のために江戸へ出府し滞在した関係者の日記が残っていて、民事裁判の実際が詳細に分かるからである。
 市史資料編に掲載されている日記は次の2点。
① 「文化三年 堀切出入手控 寅十二月五日」
② 「夘 山辺里村 出府中公私留計紙帳 役 三月初日」
 市史本文によると、①②とも山辺里村代表の庄屋源蔵の手記ということで、2分冊になっているが一連の日記ということである。
 市史本文に書かれた日記からの抜粋内容を、以下に要点のみ箇条書きする。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
a 出発に当たって藩役所に挨拶、論所の絵図、道中費用、合羽、脇差まで貸与
b 江戸へ到着して江戸藩邸へ挨拶、留守居役が滞在費貸与、藩の長屋に宿泊
c 出府8日目12月25日、公事宿が決まり移動、藩邸から三宅佐藤次が派遣され裁判の心得など助言、公事宿の主人が裁判の世話や便宜を図る
d 26日勘定奉行松平兵庫守控所へ出頭、「破談届」提出
e 2月21日評定所に呼び出され裁判、白州で奉行による儀式的吟味
f 4月6日留役による再吟味、関係者一人一人呼び、年齢、家族構成、村高、自分高を威圧的に尋問
g 原告側は、論所地図を忘れて叱られ国元へ取りに戻ったり、居丈高な尋問にまともに答えられなかったりで、裁判の有利性が薄れ、原告側は留役のいいなりになる場合も多くなる
h 結局、原告が提訴を取り下げて和解させられた
i この件で江戸へ登った双方の人数は約12名で、被告側の経費は路用、滞在費、その他で50両の高額、おそらく原告側も同額の金を使っただろうから、騒いで損をした結果だった
j 一面、江戸滞在は楽しげで、仲間と語らい、泉岳寺四十七士墓参、江戸見物、有名寺詣で、吉原見物などで国への土産話
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 a~cに書いてあることは、神林村誌にあったように、藩の公務出張扱いであって、藩が真の当時者である証拠である。市史は「藩もまた、利害がからむことから、自領の代表者にはできるかぎりの便宜を計ろうとしている。」(p386)と書いているが、便宜というようなものではなく当事者そのものであることは、これまでの検証で明らかである。なお、貸与と書いてあるが貸金ではなく、小遣いを含む出張経費で、余った分は返却する公費である。
 d~gで、裁判の経過が簡単に書かれている。しかし、市史資料編の実際の日記をよく読むと、4ヶ月に及ぶ長い期間に実に興味深い展開をしていて、決して、一方的にhの結末を迎えたのではないことが分かる。
 この日記の詳細については、この論文の後半で真実を解明する際に、改めて詳しく読み解いていくことにする。
 jは何を意味しているか。そもそも代理戦争をさせられている村々の代表に切実感はない。公費出張だから、長期江戸滞在をせいぜい楽しもうということだ。

(キ) 村上市史の見解
 市史は、この訴訟は「大規模な事件であった」としているが、それは、原告・被告の数と江戸評定所まで上がった訴訟だからであって、事件そのものとして重大なものであったとはとらえていない。だから、互いに多額の費用を費やして「騒いで損をした結果であった。」(p388)と簡単にまとめている。
 そもそも、和解は、双方がいくらかずつ損をすることで成り立つのだが、市史の「損をした結果」という言い方には、そのような深い見方は入っていない。ただ金銭的に損をしたと言っているに過ぎなく、この訴訟に何の意味も見出していない。
 和解に至るまでの経緯を全く省いているので、そのような短絡的な結論にならざるを得なかったのだと思うが、せっかく資料編に載せた庄屋源蔵の詳細な日記を丁寧に読めば、もう少し違った見方も出来たのではないかと、惜しまれる。

(2) 放置されてきた相違点と問題点
 ここまで関係する3市村の公式歴史書に掲載された元史料に当たり、通史編の記述を批判的に検討してきた。その結果、田麦堀割訴訟という共通事件について、3市村それぞれに見解が大きく異なっていることが分かった。

ア 関係3市村史誌の見解の相違点
 神林村誌は、原告の負けと断じたうえで、この訴訟は不可解だと疑問を呈した。豊富な史料を提供した上で、歴史上の謎の存在を提起したことは、1番手として最低限の役割は果たしたことになる。
 関川村史は、平太郎は用水を守ったのだと、根拠は不明ながらプラスの評価を与え、2番手として神林村誌の疑問へ一つの答えを示した。
 3番手の村上市史は、また別な答えを示した。騒いで双方損をしただけだと。どちらにも意味のない訴訟だったということになる。

 以上のように、神林村誌の疑問に対し、関川村史と村上市史は正反対に分かれたまま、この訴訟事件の評価は放置されている。

イ 見逃されてきた問題点
 しかし、それよりも、もっと大きな問題が見逃されている。
 それは、この訴訟の陰にいる真の当事者は村上藩であることである。その事実が、神林村誌の訴訟から和解に至る経緯に縷々綴られていることは、すでに述べてきた。また、村上市史資料編の庄屋源蔵の日記に如実に表れていることは、この後の真実の解明で解説する。
 ところが、3市村史誌とも、それが大きな問題であることに思い至っていない。
 何しろ、当時の村上藩主内藤信敦は、幕府奏者番として将軍の間近に勤める高級官僚であり、この訴訟事件の6年後には、評定所の裁判官三奉行の1人でもある寺社奉行に就任する。
 平太郎の真の相手は、そのような幕府高級官僚をトップに頂く村上藩庁だったということに思いが至れば、眼にした事実もまた違った意味に見えただろうし、済口證文の文言の裏に隠された真実にも迫ることができただろうに。
 200年前の平太郎という人物から、歴史を見る目を問われているような気がしてならない。

 ここまで、3市村誌史とその資料編に載せられた資料に基づき、各通史編本文の記述内容を批判的に検討してきた。その結果、上述の通り問題の所在が明らかになった。ここからは、事実関係を整理して、神林村誌の提示した「不可解」を解き明かす作業に入る。


3 事実関係の整理

 これまで、平田文書と関係市村の歴史書を検討してきたが、叙述の都合で事実の時間関係が前後していた。真相の解明に入る前に、ここで一度、これまでの史資料検討で明らかになった事実関係を時系列で整理し直しておくことにする。

 西暦 元号 出来事
1805 文化 2 閏8   大栗田による入会山無断伐採
1806 文化 3 7   村上藩へ訴状 <7月訴状>
      8   大栗田等反論書 <8月反論>
9   幕府奉行所へ訴状 <9月訴状> 
      10 2 原告、評定所出頭、現地熟談の指示を受けて帰村 
      10   3口の被告反論書 <10月反論>
      10 13 現地熟談への村上藩の方針
      10 22 村上藩の熟談書文案 
      10 24 村上藩の破談意志 
      11 2 現地集合 
      11 3 現地会談開始 被告多数帰村 
      11 4 現地見分 
      11 5 話合い 
      11 13 扱人から内済破談届、代官所と藩へ <11月破談届>
      11 15 村上藩、被告11名に江戸行を指示(実際に出府したのは6名)
      12 17 被告、江戸着、藩の長屋泊
      12 25 被告、公事宿へ移動
      12 26 原告被告、評定所へ破談の届 
1807 文化 4 1 21 原告、評定所出頭
    1 25 訴状に裏書裏判の日付 
      2 13 返答書持参出頭指定日 原告、裏書裏判頂戴し被告へ手交 被告、返答書差出
      2 21 評定所で裁判、奉行による吟味 
      4 6 評定所で留役による再吟味、関係者一人一人 
      4 21 済口證文提出
      5   被告6名から藩へ江戸費用収支報告 


4 真相の解明

(1) 「村上町年行事所日記」
 いよいよ、ここから真相の解明に入る。まず1番の謎は、平太郎の訴えた幅3間もの新規堀割があったのか、なかったのかである。これまでの検討で、無いはずがないと筆者は考察してきた。論理的にはそうなるのだが、肝心の証拠がない。
 しかし、それを捜す手立てが、有難いことに村上市にある。「村上町年行事所日記」(以下、町日記)という、貴重な同時代史料である。

 年行事所とは、江戸時代の村上町役場のことで、二人の大年寄たちがそこに詰めていて、町の住民(町民)たちの日々の暮らしを自治的に取り仕切り支えるとともに、藩の役所(藩庁)との接点・窓口にもなっていた役所である。
 年行事所では、毎日業務日誌をつけていて、役場で処理したその日その日の出来事を細大漏らさず記録していた。現在、村上市資料館には正徳2年(1712年)からの業務日誌(以下、元日誌)が残されていて、膨大なその記録を、有志の方々がコツコツと翻刻し、元日誌十数冊分をまとめては、「村上町年行事所日記」と題して刊行する事業を続けている。平成3年(1991年)に「村上町年行事所日記(一)」(以下、町日記(1)と表記、以下同様)を発刊、現在「町日記(15)」まで発刊されている(2020年)。有志による翻刻・刊行の作業は現在も続いていて、その弛まざる取り組みには頭の下がる思いがしている。
 というのも、少し横道にそれるが、この町日記が実に面白いのである。
 江戸時代の庶民の暮らしぶりがリアルに分かる。時々の物価、事件、訴訟、仲裁、処罰、藩庁からの指示命令等々、当時の社会や町行政の実際などを具体的に知ることができる。何町何兵衛の女房誰某がくわえキセルで納戸に入って火事を出したとか、何町何助の娘誰某が武士の小柄を拾って届けたら御褒美が出たとか、母子連れで伊勢参りの帰り下諏訪でかどわかしに遭い、宿場の人に助けられて宿継で村上まで送り届けられたとか、あるいはまた、公文書が江戸から宿継で送られてきて代官所に達する仕組みだとか、時々江戸幕府の役人が各地を巡検して回る様子だとか、江戸時代が意外に高度に発達した社会であったことが知れて、実に興味深い。
 知る人ぞ知るの書物にしておくにはあまりにももったいなくて、古文書WEB分館に「村上町年行事所日記 流し読み」と題して、拾い読みした面白い記事を載せている。       ※古文書WEB分館の「村上町年行事所日記 流し読み」は ⇒こちらから

 さて、本筋に戻る。この町日記に、探し求めている新規堀割に関する記事があるかもしれない。
 なお、話を簡明にするため、この項以降は、特に必要がある場合は除き、原告は平太郎、被告は村上藩又は藩と言うことにする。また、大栗田堀割、同堀切という言い方も、史料原文を引用する場合は別にして、それ以外は田麦堀割と言うことにする。

 平太郎の訴えに対する村上藩の反論は、端的に言えば次のようになる。
 「田麦堀割の場所を最後に工事したのは、今(文化3年)から十数年前の天明年間であって、それ以来、新規の工事は一切やっていない。」
 この反論からすれば、町日記に天明年間の工事は載っていて当然、その後の工事は載っていなくて当然、ということになる。
 すぐにでも、文化3年直前の工事の有無を捜しに入りたいところだが、その前に、記載されている可能性の高い天明の掘割工事の有無を捜すことにする。

(2) 天明の掘割工事
 田麦堀割に関する記事はすぐに見つかった。しかも、町日記(3)と町日記(4)の二冊に。町日記(3)は、本来は安永3年(1774年)~天明元年(1781年)までの元日誌を収録したものであるが、その中に、天明5年(1785年)8月28日の記事があって、「大栗田掘割御普請所御出役 池田与右衛門殿・赤嶋弥市殿」云々と記載されていた。
 なぜ、天明元年までの元日誌を収録した日記(3)に天明5年の記事があるかというと、天明元年以降寛政までの記事のダイジェスト版のような元日誌が数冊挟まったようである。その元日誌の題名が「諸要録」とあるから、各年月日ごとに記載してきた元日誌の中から重要な事項を抜き書きしたものと思われる。そうであれば、天明の掘割工事も重要な出来事の一つとして認識されていたことになる。
 そして、日記(4)では、同じ日付の項に同じ記事が載っていて、こちらの記事の方が町日記(3)より詳しい。以下にその概略を示す。

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天明5年(1785年)
8月28日
a 大栗田堀割御普請所の役人池田・赤嶋から大年寄二人に御配布(通知)が来た。
b その内容は、村上町から人足21人宛、飯米・鍋・寝敷夜具持参で差出すように。
c 即刻、町々の年寄たちに来てもらい相談したところ、出し兼ねるとなったので、このことを藩の御取次衆に大年寄善蔵が申し出た。
d 御取次衆の指示により、29日、善蔵と年寄一人が堀割普請所へお願いに行った。(以下、手土産か、数量は略) 諸白(清酒か)、酒、鮭、甘鯛、酢こんにゃく持参
9月1日
 夜、惣町年寄寄合、前日に帰った両人の話を聞いた。願いは容赦はならず、それではと、半減のお願いをしたら15人となったとのこと。
9月2日
 3町から計15人出すことにして、御上からの扶持米と銭を渡した。3日から宵詰。
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工事はこの年だけでなかった。翌年の記事はもっと細かい。出来るだけ概略を簡潔に示す。
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天明6年(1786年)
4月20日
 大栗田堀割工事が今日から始まり、町方から人足20人、昨日から出た。
4月28日
 人足206人半、扶持米3石9升7合5勺 これは大栗田堀割人足扶持として御手形一枚、掘割御普請所から届いた。30日付で受取を出した。合わせて、引替人足を承知し、町々へ申しつけて今朝(30日)差し遣わしたと赤嶋・池田両役人へ返書。
5月10日
 堀割普請所から御配布。当町人足214人半、30日から9日までの扶持手形もあった。
5月18日
 御普請所のお見舞いに寺町年寄を15日に遣わし、翌日帰った。
5月21日
 人足、20日に残らず帰った。
7月4日
 人足扶持200人分、米3石 今日受け取って塩町年寄へ渡した。
7月10日
 人足扶持手形を塩町年寄から受け取った。池田・赤嶋から大年寄二人へ書状が来た。
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 ここで田麦堀割工事の記事は終わっていることをみると、上記2年間の工事だったようだ。村上町だけで延べ400人を超す大工事。人足は村上町だけではなかっただろう。10月反論で、天明の工事によって通水がよくなったと喜んでいた山屋等3村は勿論、関係する村々からも出ていたはずである。
 そもそも、10月反論の内容を思い起こせば、天明の工事は山屋等3村の用水(以下、神納3村用水)のために行われたかのように印象付けられていた。村上町も門前川流域村々も、田麦堀割は一切関係ないと。
 しかし、村上町だけでもこれだけの人足を出しているということは、最早、関係ないとは言えず、大いに関係あることが明白になった。町日記(4)には、そのことを示す記事があった。
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天明4年(1784年)
7月2日
当年の田の水番年寄羽黒町伝左衛門が来て言うには、「村上町支配御用水懸り 一昨晩から一切水が流れないで難義していて、松山村出作の百姓が願出ている」と。それで、水が懸るように御取次衆に申し上げた。
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 天明5年の掘割工事が始まる1年前の記事である。御用水とあるから、これは御城から流れ出ている水のことである。その水源はもちろん田麦堀割。そこの流れが悪くなって困っていたのは、神納3村用水だけではなかった。御城用水の流出水をあてにしている田も困っていて、そのことが、天明の堀割工事の背景にあったのである。
 なお言えば、天明のこの工事が村上藩の成功体験になって、その十数年後の新規堀割工事の伏線になったのではないだろうか。

(3) 新規堀割の謎
 いよいよ、平太郎の訴えた文化3年直前の新規堀割の有無である。

 該当年次が載っているのは町日記(7)で、収録の元日誌は、享和2年(1802年)3月23日~文政6年(1823年)12月6日まで。問題の文化3年(1806年)は、この間に入る。
 目次を開いて驚いた。訴訟のあった文化3年の分(元日誌)がそっくり欠本となっている。欠本の前後の頁をめくってみると、欠ける直前は文化2年10月17日まで。それも、文化2年はとびとびの記録。そして、次の記録は文化4年8月から、しかし、それもとぎれとぎれの記録で文化9年が混じっていたりしている。文化2年以前のような正常な記録に戻るのは文化11年の元日誌からとなっている。
 つまり、正常な記録は文化元年までで、文化2年はまばらな記録。文化2年11月から文化4年8月までは全部欠落。それ以降ははまばらな記録で、文化11年から正常な記録に戻る。こんな状態。
 驚いた理由は、言うまでもなく、平太郎の訴訟から和解までの期間がそっくり抜けていること。これは、偶然とは言えない、何かがある。
 しかし、今はそれに触れている場合ではない。その謎解きは後に回して、まずは、新規堀割の謎を解く鍵を捜すこと。文化2年の10月まで記載があるということは、まだ望みはある。

ア 新規堀割工事はあった
 頁をめくり続けると、享和3年(1803年)6月21日の記事に「今度大栗田掘割三尺程堀下致し」の文字。あった、やはりあったのだ。
 現地の地形を知れば、掘割を1mも掘り下げたら、藤沢川の水は一気に門前川支流の沢(以下、掘割の沢)へ流れ落ちることが分かる。つまり、藤沢川の川床より、掘割の先の沢(門前川支流の後沢)の川床が低く、しかも急勾配の谷川なのである。天明の工事の原因は、掘割の周囲が、崩れやすいあま岩(軟らかい岩)であることに起因していた。掘下げによって急流となった水勢は、掘割の周囲を削り幅を拡大していくこと、まず間違いない。
 結論を急ぐのはやめよう。
 この工事は、真に新規工事なのかどうか。天明6年(1786年)の工事以降、享和3年(1803年)6月21日の記事までの間、17年間ある。その間に田麦堀割の工事はなされていないのか。町日記(4)から(7)までの4冊の記事をつぶさに当たった。その作業で、本題からは逸れるが、実に面白い記事にたくさん出合って興味が尽きなかった。4の(1)で紹介したのはそのほんの一例である。
 それはさておき、結果、この17年間に「大栗田掘割」は、1度も記載されてはいなかった。
 17年目にして、突然浮上したのが6月21日の「今度大栗田掘割三尺程堀下致し」なのである。これを新規と言わずして何と言うか。
 平太郎の訴えは真実だったのである。村上藩の反論が虚偽だったのである。
 それにしても、正常な記録が残った最後の年・文化元年は享和4年と同じ年(2月11日改元)。新規工事の享和3年はその直前。つまり、元日誌が正常でなくなる直前で、危うく消されそうになる直前に、辛うじて残った記録ということになる。奇跡だろうか、平太郎の執念だろうか、それとも藩の見落としだろうか。筆者には、村上町大年寄たちの、せめてもの誠意のように思えてならない。このことは、ウの項で改めて述べる。

イ 田地切替のための工事だった
 この記事の前後の記事を詳細に探ってみると、このとき何があったのか、明瞭になってきた。そして、村上町の10月反論に真実の一部が洩れ晒されていたことが明らかになる。
 では、関係する記事を順を追って並べてみることにする。

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享和3年(1803年)
6月19日
a 山居前の茶畑で田になりそうな所や水懸り(具合)の見分に、郷村役人と郷方衆が御出になるそうだ。
b 長井町の浄国寺前の御用水より町裏へ、(新規に)用水路を作るように聞いた。護摩堂土居(土手)際へ水を流せるかどうか、見分の上で決めるのだそうだ。
c 見分には羽黒町年寄と組頭2名が出、お昼休みは肴町最念寺、弁当は持参、茶の用意だけ、給仕に1人、肴町へ申付けた。茶瓶と薄縁2枚、人足2人出し。
6月21日
a 19日のことについて、今日、伊久美氏から言われたこと。
b 「近年茶畑が不景気の由で、今度、大栗田堀割を三尺ほど掘下げて、長井町浄国寺前の御用水を長井町枡形土居際を通し、飯野の加茂初蔵殿脇の三軒長屋へ行くところの井戸の辺りから肴町の方へ差渡し、それより最念寺前の土橋の間を通し、筧(かけい)で茶畑へ水が懸るように工事することにした。その工事で、町方に差障りの有無を調べて早速申し出るように」と。
c 近々取り掛かるようなので、22日に(各町の)年寄たちに伝え、23日に、町方に差障りはないと答えた。
7月4日
江堰役人から達しあり。人足25人ずつ、鍬持で明後日から羽黒町新町堤御普請所へ日々差出すようにと。また、工事中、宿賄等用意するようにと。人足のことは年行事庄太郎へ、宿賄のことは羽黒町年寄市兵衛へ申し伝えた。
8月27日
新江筋(新用水路)、明28日より御取掛につき、江堰御役衆両人、長井町行恩寺御休宿と朝からの賄を申付け。工事中、各町の年寄1人1日ずつ出勤。
10月24日
新江御普請所、今日で済んだ。念番の年寄、寺町・塩町両人、江堰御役人衆へ御礼。御用もあったので拙者(大年寄)も21日罷り出た。
文化元年(1804年)
2月27日
新江御普請、今日から御取掛かり。長井町行恩寺へ御休み所申付け、御賄その外も去年の通り。人足は20人ずつ罷り出。
3月18日
堰番 大栗田行 片町金六 上片町金次郎 一日220文
同 坪根村行 片町平右衛門 一日120文 夜分は外に50文
7月27日
大栗田堰あけ御普請所へ御出役、御組衆とも御両人 羽黒町年寄市兵衛 7月22日より始り。 市兵衛は7月21日ここを出立、同28日に帰る。人足は、郷中へ仰せ付け。賄は当町。宿は、たもぎ(田麦)村へ仰せ付け。
12月10日
当年、新江筋御普請で町の入用(支出)が過分となったのと、そのほか幕府役人の御通行などで諸雑用が懸ったとの理由で、大年寄中村直助名で御奉行所宛、銭百貫文拝借願。
文化2年(1805年)
2月30日
江堰方から羽黒町年寄市兵衛へ指示があった。「かねて、山居前の畑で分杭で区切った所、茶の木を抜いて田にするよう。また、田になった所も手入れするように」と。このことを町中に大年寄名の廻状で知らせた。
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 田麦堀割の新規拡張は、村上町中に新設する用水路と一体の工事だったのだ。
 その工事は次のように進捗する。
享和3年(1803年)
6月19日 現地見分(測量?)
6月21日 工事計画発表(田麦堀割掘下げと用水路新設の一体計画)
7月4日 新町・羽黒町の堤工事(既存の御城用水路)
8月27日 用水路新設工事開始(羽黒町から御城用水路の延長)
10月24日 新用水路工事終了
文化元年(1804年)
2月27日 新用水路工事開始
3月18日 大栗田堰番
7月22日 大栗田堰あけ工事開始

 町日記の記録からは、享和3年と文化元年の2年がかりで、町中の用水路新設に着手し、遅れて文化元年に田麦堀割の工事にかかったように読める。しかし、文化元年7月22日の町日記に、田麦堀割工事の人足は郷中、賄は当町とあるように、それぞれの町や村々へ割り当てられている。だから、享和3年は、村上町中の用水路新設工事の割り当てが大きくて、田麦堀割工事への割り当てがなかったために記録しなかったとも考えられる。また、掘割工事の終了も記録されていない。だから、文化2年も継続して工事がなされたのかもしれない。
 平太郎の文化3年7月訴状には、「去年春以来(中間略)新規幅2,3間用水路堀割」とあるから、文化2年も継続していた可能性が高い。何しろ、これほどまで村上藩の言い分が虚偽だったと分かれば、逆に平太郎の言い分の信頼性は高まるというものだ。
 いずれにしろ、町日記に、用水路の新設は茶畑を水田に切り替えるためだとはっきりと記録されている。平太郎が、新規堀割の理由として挙げた畑を水田に切り替えているという主張も、事実だったのだ。

ウ 証拠は隠滅された
(ア) 村上町の10月反論
 田地切替のことについては、すでに村上町の10月反論に、下記①②の内容が述べられてあった。
①近年、茶の値段が下がって採算が取れず茶畑が(耕作されないで)荒れてきたので、御城用水の水を使って水田にしている。
②しかし、それは新規掘割で増やした水ではなく、あくまでも従来通りの御城用水からの捨て水だ。
 前段①は真実、後段②は虚偽ということになる。
 10月反論は、村上町の苦衷の表れだったように思える。新規堀割工事があったとは、藩が言うなというから言えない。しかし、茶畑を水田に切り替える工事は町中のことであり、無いとか知らないとかは言えない。せめて、そのことぐらいは偽りを言いたくないということだったのではないだろうか。でなければ、あそこまで真実を述べる必要はなく、他の村々のように知らない、関係ないの一点張りでもよかったのだろうから。
 その半分の真実も、隠されてしまった可能性が高い。なぜなら、大栗田等の10月反論も、山屋等の10月反論も、村上市内に残り市史編纂の史料とされていたのに、村上町等の10月反論だけが残っていないということは、そう勘繰らざるを得ない。たまたま、神納3用水に関係する文書と一緒に神納側に保管されてきたから旧神林村内に残り今に伝わったのである。藩へ提出した村上町の10月反論は、提出先の藩の段階で握りつぶされ、評定所へ出した反論では、「村上町助左衛門・助右衛門 新田目論見などと申す儀 これまた一向これ無く」と済口證文に書いてある程度の内容にされてしまったのだ。
 これが、村上町等の10月反論だけが村上市史に欠けていた理由に違いない。

(ウ) 文化3年の元日誌
 隠された証拠はもう一つ。それが、先に述べた町日記の文化3年を含むその前後の元日誌。平太郎の訴訟から和解に至るまでの間で、村上町に関わる事柄もたくさんあったはずである。もしかしたら、裁判の過程についても、江戸でのこととはいえ、代表して出府した者からの報告やら何やら、書かれていた可能性がある。その部分がそっくり欠けているということは、意図的に抜き出されたと思わざるを得ない。
 実は、藩からの指示で、元日誌を提出する事例は外にもあって、町日記(6)にもそのことを記録した箇所がある。
 寛政12年(1800年)閏4月と書いた元日誌表紙の裏書
一 元禄12年より正徳元年まで、年行事大日記一冊 右 当年5月8日封印にて御役所へ上置候事 伊久美氏へ
(以下、同様の記録・略)
 このように、業務日誌等を藩庁へ提出することは実際にあったのである。文化3年前後の日誌等を提出したという記録は、見つけていないが、状況としては十分考えられる。ましてや、完全に虚偽を押し通し、真実を訴える平太郎を逆に虚偽と断じた村上藩であることを思えば、それくらいのことはやっておいて当然ということになる。
 すっかり隠蔽された訴訟の年の元日誌。藩は、訴訟関係の記録の残る年の元日誌を没収したものの、訴訟に入る以前の記録までは思いが至らなかった。それを幸いとして、せめてもとの思いから、村上町大年寄たちの誠意が、その直前の享和3年・文化元年の元日誌を残した。そこに、村上藩が全否定した田麦堀割新規工事の記録が辛うじて引っかかって残った。10月反論で半分の真実を書いたのと同じく。そんなふうに思えるのだが、これまた穿ち過ぎだろうか。

 ともあれ、これで平太郎の訴えは真実であったことが証明された。ではなぜ、あのような済口證文になったのか、次からその謎に迫る。

(4) 済口證文の謎
 新規堀割工事はあった。取水の目的は、茶畑の田地切替だった。これが、村上町年行事所日記から確認した事実で、平太郎の訴えた通りだった。ここが問題の入口とすれば、出口は、済口證文の内容。そこでは、新規堀割工事も田地切替も認めてない。それなのに、平太郎は和解している。巨大な権力の前に屈した結果なのか、それとも何らかの取引があった結果なのか。入口と出口を結ぶトンネルは深い闇の中、その闇の中にこれから手探りで入り込んでみたい。1点の光明が射し込むことを期待して。

ア 山辺里村庄屋源蔵の手記
 済口證文の謎を探る手がかりは、ある。
 「村上市史資料編3近世二」(以下、市史資料編)に掲載された手記2冊が、それ(p727~)。
 1冊目は表紙が「文化三年/堀切出入手控/寅十二月五日」、2冊目は表紙が「卯/山辺里村/出府中公私留計紙帳/役/三月初日」(/は改行)と記されている。
 「村上市史通史編2近世」(以下、市史)の本文(p386)によれば、この2冊は山辺里村庄屋源蔵が田麦堀割訴訟で江戸へ出府滞在した際の手記とされている。しかし、つぶさに読むと、2冊目に「源蔵殿」と書かれた記述があったり、4月6日の記録が2通りあったりして、後半は最少でも2人によって書かれたものが混在していると判断される(が、本論文では、書き手は源蔵として記述を進める)。
 それはともあれ、文化3年12月5日から翌文化4年4月17日までの記録が市史資料編に載っており、江戸で、そして評定所で何が行われていたのかを窺い知ることができる貴重な史料である。ただし、書き手は被告側の人物で、当然、見方にはその立場でのバイアスがかかっていると思われるので、それらを勘案しながらも、可能な限り、この貴重な記録から済口證文の謎を探ってみたい。
 なお、市史資料編の掲載は、済口證文が取交される4月21日直前の4月17日で終わり「以下略」となっていることや、所々に掲載の中略もあることは、少々残念な点である。

イ 手記の書き抜き・整理
 まず、2冊の手記から、済口證文に至る裁判に直接関係すると思われる記述を書き抜いて、出来事を整理することにした。
 書き抜き・整理に当たっては、次のことに配慮した。
a 原文の候文を、意味を損じない範囲で現代文の平易な言い方に意訳し、なおかつ、できるだけ簡潔な表現にした。
b 御や様、殿の語は、極力省いた。目上への敬語・丁寧語も省いた。武士の人物名も、出来るだけ姓だけにするなど端的にした。金の「拝借」は実態に合わせて「受領」に置き換えた。
c 出頭した評定所の言い方がその時その時でまちまち(例えば、松平兵庫頭様腰掛とか、御訴所とか、御掛りとか)なので、ここでは、全て評定所で統一した。
d 原文通りの言い回しの箇所は、「」で括った。但し、その場の雰囲気を伝えたい箇所や、微妙な意味を検討したい箇所だけに絞った。
e 分かりやすくするため、筆者の補注を()で挿入した。また、謎を探る上での重要語句や、読み進めるうえでのキーワードは、太字にした。
f 済口證文の謎を考察するための手がかりになる事柄について、所々で、筆者の解釈を印で記入してある。

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<手記1冊目>
文化3年(1806年)
12/5 村上藩庁へ出立挨拶、村上町図・嘆願書一通・桐油合羽・三ヶ村図帳に御用状・法被(はっぴ)・刀・飛脚料金12朱、銭1420文・外に用心金1両を受領
12/17 江戸村上藩屋敷(以下、藩屋敷)着
12/19 留守居役酒井・三好に戸口で挨拶
   源蔵(山辺里庄屋)・太右衛門(中束庄屋)2人で金子6両受領、受取は佐藤田子七(以下、田子七)宛
12/21 2人では人数が少ないと、儀左衛門も差し添え人になり、3両受領(儀左衛門は所属不明、2人のお供か)
   この度の訴訟の趣意は、領主の要害(城)の水の訳に申述べるよう指示があったと言われ、その上、嘆願書の文面の通りと心得るよう言われた(明記されてないが、田子七からだろう)。

※①
 村上藩丸抱えの公用出張であることが明瞭。田子七は、村上から出張してきた担当役人で、ダミーである庄屋たちの言ってみれば操り役。太字の部分の指示は、「御沙汰之上」とあるから、藩の上の方からの指示・命令のこと。田麦堀割の水は御城用つまり軍事用なので、百姓がとやかく言える筋合いではないと主張せよとの藩の指示。これが藩の元々の方針で、新規堀割云々には触れたくないということだ。

12/25 留守居役三好に座敷で面会
   相模屋公事宿=裁判の世話をする宿)へ移動(それまでは、藩屋敷の長屋に宿泊)
   田子七が相模屋へ来て、前沢藤十郎(原告の領主で水原代官)から、明26日破談届を出すと言ってきたと言い、嘆願書に加筆、差略(策略)。宿屋が夜中に書面を書いた。
12/26 評定所腰掛(玄関の外の控場所)へ。間もなく(藩の)留守居役・三好が来て係に会い破談届提出。三好が腰掛へ来て藤吉(相模屋主人)と話す。藤吉が、嘆願書は直接差上げた方がよいと言うので、三好が提出した。ところが、評定所の役人が言うには、領主よりの差出しは筋として甚だ宜しくない(ということで)、嘆願書(の提出は)果たされなかった。
それから直ぐに宿屋と我ら三人が白州に召出され、役人から、只今領主より書付が差出されたが甚だ筋違いだ、と言われた。それでも、その意を尋ねられ、藤吉が、去年7月に被告が5村で、それから9月には被告が19村に増やされた訴訟の経緯、被告の名前違いや村名違い、一度も交渉のないこと、新たな被告14村には用水に関わりない村々が多数あること等の説明あり、それで甚だ迷惑しているので、嘆願書を領主から差上げたのだと述べた。
役人から、それならば原告と交渉の上で、用水場と関わりない村々を除くように、と言われて退出した。直ぐに腰掛へ行って、宿屋がそのことを三宅へ言ったら、三宅は、そちらで宜しく取り計らうように、と言った。それで、直ぐに藤吉が原告の公事宿・秩父屋へ行ったが留守で、明日交渉することにした。以上のことを、田子七に報告した。

※② 村上から持ってきた嘆願書は、形式上は藩主からのものだった(村上藩主は、この時期は江戸にいる)。今回の訴訟は表面上はあくまでも百姓対百姓(町民も身分は百姓に同じ)、そこへ正面切って藩主からの嘆願書が出されたのでは、評定所としても立場がない。一方、村上藩としては、ダミーを使った間接主張ではもどかしく、それで直接の嘆願書を出した。留守居役が直接行動に出ていることと合わせれば、村上藩は、この訴訟は百姓対百姓ではなく、百姓対藩であることを評定所に示威したかったのだ。身分制度下にあって百姓が藩を訴えるなどとんでもないことだ、と。評定所としては、それは承知の上で、表向きはあくまでも百姓対百姓の裁判として扱わなければならない。そこにこの裁判の難しさがある。
※③ 間接主張であることが、話を混乱させている。村上藩は元々、原告は藤沢川・女川の用水に関係ない村が大半だと主張している。だから、嘆願書の内容もそうなっているはず。後日2/21の兵庫頭の尋問もその問題を突いている。ところが、源蔵の記録では、藤吉は、被告の中に用水に関係ない村が多数あると説明したことになっている。源蔵は、自分も含め門前川流域の村は田麦堀割の用水に関係ないと思っていて、10月反論にもそう書いた。だから、藤吉の発言記録は、源蔵の思い込みによる記録間違いの可能性が高い。藤吉の本当の発言が、用水に関係ない村が原告に多いというのであれば、評定所役人の発言は、原告からその村を除くように交渉すべしという意味になる。ところが、源蔵は、被告の中から自分たち関係ない村を除く交渉をすべしと言われたと思っている。このちぐはぐさが、1/11の被告側との交渉で露呈する。

12/27 (今日の)交渉のことは、藤吉が夜遅く帰ってきたので明日藩屋敷へ報告するはず。
   (藩屋敷で、)村上からの(公用)飛脚が来て、原告は仙右衛門(若山)と利忠太(小見)が(江戸へ)来るというので、利忠太のことを田子七に尋ねると、水原代官所から両人共代人ではならないといわれて、(原告の)仙右衛門と(代人の)利忠太になったのだ、とのこと。
12/28 藤吉が藩屋敷で述べたのは、先方と交渉したが、先方が言うには、この度は破談届を出すだけで、来春平太郎が到着次第相談したいとのことだった、と。それで、田子七も、ならば来春のことにしようとなった。
(以降は、江戸見物や新年あいさつ回りなど)

※④ 結局、村上藩は不必要なほどに早々と源蔵たちを江戸に登らせたことになる。源蔵たちは実際何もすることはない。藩の狙いは、源蔵たちダミーを無駄でも動かしておいて、実は裏で自分たちが動くことにあった。操りの装置では、人形がいないことには舞台裏でも動けないということ。

文化4年(1807年)
1/9 藤吉が秩父屋(原告の公事宿)へ行ってきた報告を、藩屋敷で聞いた。12月の話の通りで、平太郎が来ないのではどうにもならないようだ。しかし、御判物(訴状の裏書裏判のこと、被告への出頭命令が書いてあり通常は原告が持ち帰って被告に示すもの)ができれば、7人の惣代としてこちらの方で拝見する旨申し込んだ方がよい、と藤吉は言う。田子七は、そのように頼むと言い、さらに、原告被告直の交渉がないのはよくないので、両人(公事宿同士)と私共3人で交渉をするように、と言う。明後11日にそれを申し入れることにして、藤吉は帰った。
  田子七から、一昨日飛脚が来て村上からの指令は、神納三ヶ村用水の趣にて、「御城内用水は、かけニ致すべき様」と言われた。

※⑤
 藩の方針がゆれている。今度は、神納三ヶ村用水の事にして、御城用水の事は「かけ二」するとの指示。欠けにする、つまり取り止める意味か。藩主の嘆願書がはねつけられたから当初の方針では無理だと、つまり、この訴訟はあくまでも百姓対百姓の水争いにせざるを得ないとの方針転換だろう。どちらにしろ、源蔵たちは、自分たちには無関係と思っている。そう感じられる記述が所々に出てくる。ただ藩から言われるがままに動いている。

1/11 3人と藤吉で麹町天神前茶屋で原告側と会った。仙右衛門と利忠太は来ず秩父屋・佐平だけ。先日言われた通りに私が篤と尋ねたら、「論所掘割分水の儀は、門前川へ落込み、その下村々へ引入れ候様に見請け候間、何分差除き申すべき儀相ならざるようと申切」、藤吉が「その儀は拠無く候、然れば御判物はこちらで拝見いたすべく」と申し入れ、佐平は、委細承知したと答えた。

※⑥
 源蔵は、用水に関わりない村が被告の中に多数あると思っているから、そのことを言い、佐平は、堀割分水の水は門前川に流れ、その水を引いているのだから被告から除くことはできないと申切っている。申切ははっきり言うこと。要するに簡単に否定されたということ。原告に関係ない村が多数あることを主張すべきだと分かっている藤吉は、源蔵の思い違い発言を受けて、それはまあ仕方ないことでなどと曖昧にこの場を引き取らざると得なかった。それで、即、話題を御判物に切替えた。当事者の思惑がズレている。藩と被告村々とのズレもあるし、藩の方針そのもののズレもある。そのズレが、この訴訟の問題を複雑にし混乱させている。

1/12 藩屋敷で、昨日のことを田子七に報告。
1/13 太左衛門(大栗田)・甚兵衛(宮前)・幸吉(上助渕)・文平(村上町)が到着して、藩屋敷へ同道。田子七からの指示は、先達ての原告側との会合の内容を評定所へ届けた方がよいか藤吉に聞いて、明日にでも報告するようにと。
1/14 藩屋敷で(田子七に)報告。藤吉が言うには、正式に言われたことではないので、私(藤吉)の方から届けておきますが、御判物の事は、江戸で拝見したいと届けておいた方がよい、と。田子七は、(原告が)関わりない村々を除かないのであれば、また嘆願書を差し出した方がよいか、これについても藤吉に尋ねるように、と。そして、人数がそろったので、儀左衛門は外してもよい、と。
1/15 三宅佐藤次(田子七の上役、以下、佐藤次)、この一件で江戸へ着。
1/19 藩屋敷へ行き、藤吉からの話を伝達した。21日評定所で破談届受理、22日原告が訴状を出すので、此方からも江戸で御判物を拝見したいと引続きお願いした方がよい、と。
1/21 12月提出の破談届が今日評定所で受理された。此方側からは留守居役三好が出た、原告側の役人の名は聞かなかった。
   藤吉が言うには、明日22日に、御判物を此方で拝見できるようお願いするところだったが、原告側から明日は都合悪いと言ってきた、と。この夜、名前違いの調書を宿屋へ渡す。
1/22 藤吉が言うには、今、原告側へ行ってきた。それで、先方が言うには、私共(原告)は12月に破談届を出すためだけに来た。平太郎も一両日中に到着すると言ってきたので、平太郎が到着次第訴状を提出する。その時にこちらも動いたらどうか、と。このことを藩屋敷に伝えた。
1/23 藩屋敷で、三好から言われたこと。惣代で来たからには、村々からの依頼の書面が必要で、評定所で糾問の時入用の事もある、と。それで、村々の依頼証文を、認め置いた。
※⑦ 嘆願書といい村々からの依頼証文といい、簡単に書き直したり作成したり、手軽過ぎるような気もするのだが。これも差略(策略)の内なのだろうか。どこか、いい加減さがつきまとっている。村上藩の対応のアバウトさが、この訴訟を混乱させている原因のように思えてくる。

1/24 評定所腰掛へ。江戸で御判物拝見したいと宿屋が書いた願書を原告と一緒に提出。その後、一同呼び出されて言われたのは、その願いは御沙汰の上で仰せ付けられる、と。
1/27 田子七が2/2頃帰国するので儀左衛門が御供を命じられた
2/2 帰国する田子七へ暇乞いに藩屋敷へ。この日、佐平(原告宿屋)が助次郎(所属不明)同道で御判物を相模屋へ持参したが、私共は留守だったため、相模屋で受け取って置いたのを、藩屋敷から帰って拝見した。一札認めて、文平と太右衛門が秩父屋へ持参して渡した。一札は別紙にある(記載なし)。金4両、文平の名で受領。
2/3 藩屋敷で光兎山境内のことを(どう言うか)伺ったら、用水林の三字をよく言い回し、先方の謀計だと第一に言うように、先にそれを訴えるように、と指示された。

※⑧ 平太郎の主張を多方面から攻撃しようとしている分、藩の焦点が定まらず、源蔵たちにも伝わらない様子が見える。ただ、水争いとなれば水源の用水林はキーポイントだとは、源蔵たちにもそれはよく分かっているようだ。

2/4 6人が(被告を)惣代して御判物を拝見したと、藤吉が(評定所へ)届けた。その際、藤吉が(評定所から)言われたのは、前々日に間違いなく返答書を持参するように、と。
2/5 大田原で田子七に会って(見送り)、佐藤次へ渡した書付(の写しか)を見せられた。別紙にある(記載なし)。嘆願書の前末を差略(策略)し、返答書は藤吉に頼み早々認め直して(藩屋敷へ)持参するようにと指示された。
※⑨ やはり、各町村から藩へ出された10月反論(返答書)とは別に、嘆願書を基にして評定所提出用の返答書が作成された。10月反論にあった村上町中の田地切替の件は、ここでカットされた。

2/7 藩屋敷へ。一昨日言われた返答書ができて、持参した。明後日、一同来るように言われた。
2/9 6人で藩屋敷へ。返答書の加筆や削りがあって、宿屋へ頼むよう指示。その外書物品々渡されて、金4両甚兵衛の名で受領。
2/11 評定所係へ出頭、6人惣代到着届。何にても御尋ねには差支えなくお答え申し上げるとの書付と、返答書を提出。評定所では、返答書をお読みの上で、被告側48人の名前も記載するように言われた。
2/12 評定所係へ。明日13日、評定を受けに罷り出るとき、2度まで呼出しがあるが、まず差し控え、3度目に宿屋だけ召出されるのだと言われた。しかし、明日は紅葉山へ御成りになるので流れになったといわれ、20日に来るよう言われた。
この日、佐藤次が密に評定所係の辺りへ来られているというのでお目に掛ったら、評定の順番が1番になったと言う。藤吉が言うには、1番のことは、兵庫頭の勝手にもならない、三奉行から評定所へ出して、町奉行から帳方役人が出て、振合いをもって順番を決めるから、前後どうなるかは定めがたい、と。佐藤次は、何分よろしく頼むと言って、舟で帰った。
※⑩ 原文は「三宅佐藤次様密ニ御懸り辺江御出被遊候故」とある。藩が内々で動いていることは源蔵たちにも分かっている。それが分かっているから、割合のんきに過ごしていられる。藩の意図は、この件を何とか農業用水の問題でなく軍事(城)用水の問題として扱ってほしいといったところだろう。評定所としては、事実がそうでないから困っている。といって、元々が御城の用水だから、藩が悪いと単純には言えない。

2/13 藩屋敷で、先達て借りた下絵図や返答書を提出。

2/21 朝七ツ半時、評定所脇掛へ出頭。五ツ半時、白州へ、一同呼び出され、入り口で銘々名前を呼ばれ、一同揃ったところで、また一々名前を読み上げられ、半時ほどして松平右京(寺社奉行)御出座(以下、様々な役人による形式的吟味、省略)、つづいて松平兵庫頭(勘定奉行、以下、兵庫頭)の御吟味。
(以下、白州での応答をできるだけ分かりやすい形にして再現してみた。原文が、人物の会話をそのまま書いている部分(直接話法)と、書き手の説明で書いている部分(間接話法)があるので、そのまま原文に近い形で書き分けてある。「」は原文のまま)

兵庫頭; 平太郎、その方の願いは「どふいたしたとな」。
平太郎; 新規用水引き取られては、御料所(幕府領)の田地旱魃に遭い、甚だ迷惑しています。
兵庫頭; 新規というのはいつ頃の工事か。
平太郎が言うには、近年とも或いは去々年までにとも。
兵庫頭: 双方共、絵図を持参していたら差出すように。
被告側は女川絵図差上げる。平太郎は、古絵図持参と言う。
兵庫頭; 双方より一人ずつ出てきて、絵図を指す示すように。
被告・太右衛門、原告・平太郎の両人縁より上がり、絵図を指し、平太郎が言うには、藤沢川と言う川はないと。太右衛門は、藤沢川は絵図の通りでと説明して、両人白州へ下がる。
兵庫頭; 用水を引き取っていない村々が訴訟に組したのは、その意を得ない。
平太郎; 用水組なので訴訟を行った。
兵庫頭; ならば、用水林の証拠があるなら差出すように。
平太郎; 去々年大栗田村から取り置いたものが・・・
と、みなまで申し上げないうちに、
兵庫頭; 去々年の書き物はまかりならず。その方が多く書いたのであろう。
平太郎が、何分、用水を引き取られては、高所の水が不足して、先祖より所持してきた野地が(田地に)開発できなくなり、と話すも、それは聞き流されて
兵庫頭; 何分、見分していないので分かりかねる。追々吟味するので、先ずは引き下がるように。

白州を退出して、宿屋が係に聞くと、帰ってよいというので、直に藩屋敷へ行って、今日の事を一々報告した。
藩屋敷で、上野(平太郎が水を取られると開発できなくなると主張した高所のこと)のことについて話があった。そこは、元文2年(1737年)から天明5,6年(1785,6年)まで7度の(開発)願人があったが新田はできなかった。天明5年に堀割の工事をしたが、天明6年の願人からは、前年の工事で差障りがあったとは言われていない。勿論、用水不足等には決してならなかった。このことを(次の白州では)しっかり述べるようと言われた。それで、7度の検使(役人)と願人の名前を書き写した。

※⑪ 兵庫頭の平太郎への尋問は、具体的で鋭い。百姓同士の用水争いであれば、平太郎の側に訴える資格(水利権)があるのかどうかが核心になる。女川や藤沢川の用水に関係ない村々、つまり訴える資格のない村々が原告の大半だという主張は、村上藩の当初からの主張。それに対して、水源が自分たちの涵養した用水林であることが平太郎の主張の根拠。それらことを兵庫頭は事前によく承知している。大栗田の書き物についても、平太郎が下書きしたものだということまで知っている。そして、深層にあるのは村上藩の不届工事と偽証。当然兵庫頭配下の水原代官・前沢からはそれらの情報が上がってきている。あるいは既に、村上藩側も全容を密かに伝えているのかもしれない。それらを全部わかった上での尋問であれば、源蔵たち被告に問いただすことは、ほとんどないことになる。
※⑫ それにしても、冒頭の兵庫頭から平太郎への問い掛けは、親しみある口調に感じられる。源蔵が白州で尋問中に筆記できたとは思えないから、宿で仲間と一緒に想起復元した記録だろう。この部分だけを候文にせずに問い掛けのままの記録にしたというのは、意味がある。皆が、この口調を妙に感じたということだ。兵庫頭は、何かを含んでいる。領民である平太郎へ向けた含みと同僚である村上藩主へ向けた含みと。

2/22 朝五ツ時、評定所係へ出頭。九ツ時、一同白州へ呼出され着座。竜紋裏着上下(役装・上下は裃)の御留役井上三郎衛門(以下、井上)が、歳、家内人数、村高、自分高を尋ねた。
(原告側)
平太郎(小見)49才、家内28人、村高176974合、自分高140石 
仙右衛門(若山)49才、家内5人、村高116471合 自分高15
(被告側)
文平(村上町)35才、家内5人、自分高11石
太左衛門(大栗田)45才、家内7人、村高53石、自分高51
太右衛門(中束)56才、家内11人、村高276石、自分高30石余
甚兵衛(宮前)60才、家内5人、村高195石、自分高142
源蔵(山辺里)43才、家内9人、村高408石余、自分高13
幸吉(上助渕)35才、家内11人、村高500石余、自分高43

次に、指示により双方板縁に上がり絵図を指して説明。
堀切分水から水を引き入れた場所を尋ねられたので、門前谷の絵図を指してそれぞれ説明。浦の沢(堀切場の大栗田側の沢・現在名「後沢」のことか)はどれほどの川幅かと尋ねられ、川幅1間余乃至2間位と答えた。
次に、城と城内用水口三ヶ村用水の懸る村々を尋ねられて、絵図の方角通りに答えて、白州へ下りた。私共へ、6人惣代なら頼み状があるだろうと言われ、折悪しく宿屋へ忘れてきたと答えたらそれで済んだ。平太郎は国元に忘れてきたと答えたら、甚だ御叱りがあった。
次に、平太郎へ、その方の申し立ては一つも取り上げにはなり難いという趣で「種々御利害被仰付」、平太郎が外の事を申し上げれば、井上は、先ずはそのことは抜きにと言い、言い聞かせている内容が不承知ならば、その方では分からないので、訴訟に組した村々の役人を残らず呼出して吟味するので、早々に名前を書き認めて提出するようにと言って、双方引き取るように言われ、白州を出た。
すると、平太郎が、高田村与五兵衛の頼み状があるので今提出できると口走ったら、原告ばかりが呼び出された。その訳は知らないが、察するところ、尚又、御利害を聞かされたのだろうと思う。

※⑬ 依頼状については、簡便に作られる程度の文書で、平太郎だけが叱られるとも思えない。ここにもバイアスのかかった見方が出ている。「利害」は得失の意味で、「御」がついているので、平太郎たちにとっての得失ではなく、藩かあるいは幕府・幕府領にとっての得失を井上が言って聞かせたという意味。注目すべきは、原告だけが、改めて呼び出されたということ。一同が一旦引き下がった後で、平太郎が突然「口走り申候」とある。原告全員を呼び出すと言われて、平太郎も少々慌てた。評定所から平太郎へのプレッシャーだ。単独吟味の場を作って、そこで何らかのやり取りがあった。そのことについては、御利害の内容と共に、後で考えてみることにする。
※⑭ それにしても、平太郎の身代の大きいこと。家内28人は住込使用人を含めてだろうが、自作地140石は小見村の8割に当たる(小見村だけに所在するのではないかもしれないが)。恐らく、訴訟費用は自分出しだろう。なお、「村上市史」に被告の訴訟費用が50両で、原告も同額使っただろうとあるが(p388)、源蔵たちは多人数の長期滞在で無駄金を随分使っているから、平太郎の持出は村上藩のそれと比べたら少額だったと思われる。

2/23 藩屋敷で、昨日の報告。(こちらの)都合いいように油断なく平太郎を言い伏せるようにと指示。
2/25 藩屋敷で次の指示があった。堀切場の工事で、用水が懸る村々とはよく話し合うべきなのに、それをしないで工事したことについて、用水に関わりのある村々とは良く相談し、原告の村々は用水に関わりもないので話し合う必要がないのだと申述べるように、と。

※⑮ 藩の方針はここでもブレている。元々の藩の主張は、新規堀割はないということだったはず。それが、ここでは、工事の際に原告の村への説明がなかった理由を問われた場合の想定問答をしている。新規堀割の工事があったことを前提にしての話になっている。それについて誰も疑念を呈してない。もはや、新規堀割の有無が争点ではなくなっている。

2/28 藩屋敷で、昨日、白州の様子を述べたところ(2/27の記載は、なし)、首尾よろしき程、随分配慮があったことを受け止めるようにと言われた。それから、3/1には原告10ヶ村へ差紙(評定所からの呼出し状)が出されるようだと、藤吉が見てきたことを報告した。差紙の内容は左の通り。(市史資料編には、「以下欠」とある。)

※⑯ 太字の箇所、原文は「随分心付ヶ請留可致旨被仰渡候」、心付けは配慮。評定所への藩の配慮、つまり隠密工作、それを受け止めておくようにとの指示。評定所は藩に味方していると、これまでの工作に手ごたえを感じているふう。心付けに御の字がついてないということは、藩が、自分たちの配慮のことを言ったから。源蔵がそれを文章化する際には、本来は、御心付けと書くべきところ。もしかすると、源蔵は、自分たちの配慮によってことがうまく運んでいると思っていて、それを藩がよく受け止めておくと、褒められたと思っているのかもしれない。

(手記の末尾に、12/21~2/28の間の金銭出納簿、酒、煙草、薬等細々とあって、市史資料編の手記1冊目の掲載は終わっている。)

<手記2冊目>
3/4 藩屋敷で、佐藤次から倹約令。その後で、皆で見物、昼食、3/6には金子使い切り 3/8には 5両受領して浄瑠璃、以降、神社仏閣巡りなど。
(倹約令は効果がなかったようだ。この日以降、特にすることもなく、見物したり囲碁など娯楽で過ごしたり、暇の様子ありあり。それも、源蔵たちの置かれた状況からすれば当然の事)

3/20 藩屋敷で佐藤次からの指示内容。後から来る(原告の)者が間もなく着くようだ。(原告の数が増えるので)、被告は6人で相手になることを心得るように。それで、原告は(全員呼ばれたので)、被告の48人もこちらに来るようにする(主張する)はずだから、6人でよく相談して、そんなことにはならないように計ること。また、裁判では、畑を田に替えた場所や神納三ヶ村について、どう調べられるかはかり難いし、後から来る原告の者がどんなことを申し立てるかもはかり難い。だから、いろいろ油断なく心がけるように。裁判が始まってからこれまでの様子では、首尾はうまくいっているようで、これからしばらく間もありそうだから、一同、気のゆるみも出てくる頃、気を付けること。その上、後から来る(原告の)者たちは、初日の裁判に必至だろうから、そうなったら直ぐに反論するように。
(藩としては気の緩みが心配。あれこれ心配事を並べて、気を引き締めている様子。源蔵たちは長期滞在で費用の心配。)
3/24 費用のやりくり、冬着から春着への衣装替え
3/29 藩屋敷で、費用の相談

4/6 朝五ツ時、評定所へ。後から来た原告の者たちが平太郎と同道で来た。そのうちに呼出しがあって、一同白州へ。御留役井上が、まず、平太郎が出した絵図を広げ、それから、新着の者共に、銘々村高・自分高・家内人数を言わせた。(記載なし)
それから、弥三右衛門(朴坂)に、訴えの趣意を尋ねたが、弥三右衛門は、私は老人ですので、御免下されと言う。井上が、その方共は何か不都合があって訴訟を起こしたのではないか、その不都合を一つ一つ申し述べるべしと言えば、弥三右衛門は、それは惣代の平太郎と仙右衛門に聞いてくださいと言う。井上は、いや、惣代の者に尋ねても分かりかねたから、その方共を「遠路の処召し登らせ候ワイ」。弥三右衛門、「イヤホヤ恐れまして申し上げること出来かね申し候間、御免下さるべく」。それならと、井上は、「大嶋村惣八郎ここへ出れ」と言うと、「惣八郎、這々井上の前へ」。井上は言う、その方共願いの筋があるから訴訟を起こしたのだろう、この板縁にあがって絵図を指してそれを言ってみるべしと。惣八郎は、私も不筆ゆえ何も分かりません、御免下さいと。井上、たとえ不筆でも村名くらいは分かるだろうから、たって絵図を指せ。惣八郎、老眼ですので、それは御免ください。井上、「それならばおれがいふ、その方の村方はこれでないか」。惣八郎、畏る。井上、川を隔て、女川から用水を引く地縁もないのに、なぜ原告に加わったのか。惣八郎、それは、女川と荒川の間に飛び地3町程あるので加わりました。井上は、成程と言い、次に与五兵衛(高田)に尋ねた。与五兵衛は、聾故何も分かりません、御免下さいと言う。井上、それなら平左衛門、と呼んで尋ねたら、平左衛門は、私は用水にはかかわりないのですが、(同じ)山組なので加わりましたと言う。その次も聾に不筆に老眼にと種々申訳を言って一向に話が進まない。(市史資料編は「以下不記」とある。)

4/6(同日付の別人による記録か)
朝五ツ時、評定所係へ、四ツ半時分呼出し。原告被告一同、新着の(原告)9人も。
井上、新着9人に一人ずつ歳・自分高・村高・家内を尋ねる。
次に、其の9人に、原告から提出された絵図を見せて、この度の願い(訴え)の内容をこの絵図を指して述べるようにと。9人の者、恐れ入った様子で、目が不自由、無筆などと言って答えない。次に一人ずつ尋ねるが、どんな迷惑が掛かっているのか言えるものがなく、用水の差障り(不都合)はないことになった。
次に、仙右衛門へ尋ねたところ、これも同様の答え。
それで、平太郎へ、居村の用水の事を尋ねたら、どうしたことか、絵図を指すけども甚だ間違いばかりで、御叱り。
その上で、平太郎へ言ったことは、その方も聞いた通り、原告一同、願い(訴え)の内容は無いという。それでも、その方一人が押しての願いがあるのならば、先ずは、被告側と新着の原告側、仙右衛門(白州にいる全員が)引き下がり、平太郎だけ一人白州に居るように、と。
それで、私共は引き下がった。その時、平太郎も、どのような御吟味があるのかとはかり難い気持ちでいたのだろう。

願潰と相成候処へ」私共はじめ、一同呼び出されて、井上が言う。
平太郎始め新着の者共、願の筋はないか、あるのなら申し立てるべし、と。
平太郎が、「不残願之儀無之由」申したので、私も
迷惑ながらお願いすることはありませんと言い切った。
次に私共へ井上が言った。その方共聞いた通り、平太郎始め願いは無いと言ったので、平太郎も人情として外聞もあるはずだから、その方共も心違いないようにして掛合い(交渉)を行い、片付けるように。それでも済まないことがあったら、尚又申し出るべし、と。

原告の訴訟取り下げになり、腰掛で両方の宿屋が相談し、済口證文はすぐにはできないので、日延べ願いを提出した。
尚又、呼出しがあり、日延べの願いは聞き入れられた。
宿へ帰って、済口證文を早々に作成するよう宿屋に頼んだ。相手(の名前)違いの訳も聞きたいので、そのことも書いてほしいと頼んだ。その上、評定所へ行き、私共御叱り等あっても苦しくない旨を申し聞き、その上、去年の冬現地熟談のとき、主意書一通、返答書一通渡し、この夜五ツ頃藩屋敷へ行くと、佐藤次と留守居役酒井に呼ばれて、これまでの事を報告したらお悦びの様子に見え、佐藤次から、済口證文は余程手強くすべきだと言われた。

※⑰ 4/6の白州がこの訴訟の山場。そのためだろうか、記録が2通になっていて、両方読み合せるとこの日の白州の様子がリアルに浮かぶ。裁判の前段は、新たに呼んだ原告の尋問。誰も答えられない。芝居じみた言い訳でわざと答えないようにしている。そして、2/22と同様に平太郎一人だけを残す。当然、井上による平太郎の説得が行われたはず。2月の御利害に関わる事項で、このことについては後で考察を加えることにする。後段、再び一同が白州へ。源蔵は「願潰と相成候所へ」と書く。平太郎一人の場で願潰しがなされたと分かるはずがないから、この文言は結果論として後付けで書いたものだろう。井上が改めて皆に、願の筋はないかと問うと、平太郎がないと言ったので、源蔵もないと言ったという記録になって、結果的に願潰しとなったということになっている。しかし、平太郎が言ったという箇所の記録は「不残願之儀無之由申候」。この記録が平太郎の言った通りなのであれば、平太郎は願いはないとは言っていないことになる。願いが残っていないことはない、あるいは、残らない願いはない、分かりにくいが二重否定は肯定。だから、願いは残っていると平太郎は言ったことになる。それを無視して、源蔵は平太郎がないなら自分もないと言い、井上も皆がないと言ったのだからこの後は交渉で片付けるようにと。強引な進行。平太郎にしても、ちょっと待った、まだ終わってはいないとは言わない。単独場面での井上との約束がそうさせたのだ。しかし、源蔵たちに対しては、まだ残っているぞと、中々、微妙な場面になっている。いずれにしろ、井上としては、予定通り強引に原告被告同士の内済へ持ち込んだ。後は、済口證文にどう書き込むか、その伏線が平太郎の「不残願之儀無之」だったのではないだろうか。井上は最後に被告に対して、平太郎に配慮するように説いている。かなり無理なことを承知してくれたのだから、そのことを忘れないようにしてこの後の交渉を行うように、と。2/21の兵庫頭といいこの日の井上といい、同じ含みを込めている。つまり、村上藩向けには平太郎の側に相当厳しい顔を見せていながら、その実、平太郎に向けてはかなりの配慮というか温情というか理解者というか、そんな含みのあることが感じられる。一旦帰宿の後、再度評定所へ書類提出に行った際、被告の側へ御叱りがあっても構わなかったのだと言われたというのも、そのことを指してことだろう。つまり、本来は被告がもっと叱られる筈なのだぞ、と。それは、真の被告である藩のことだ。井上は、自分の言動すべて、源蔵たちの口を通して藩に伝わることを意識して、意図的に硬軟を使い分けている。

4/7
 藩屋敷へ。済口證文下書きができたので持参。佐藤次が留守で、しかたなく、下書きはまだ手弱だと添え書きを残して、置いてきた。
4/8 一同藩屋敷へ。昨日置いてきた下書きに加筆された上で、今日の交渉では、外の事を申し懸けられても相手にならないように心掛けるように言い聞かされた。昼から一同、中橋寿野字屋で交渉に及んだ。原告側は、平太郎・朴坂弥三右衛門・桂市郎右衛門・高田与五兵衛・平内新五兵衛の5人。済口證文の下書きをこちらより差出した。その文言は次の通り。
(記載なし)
この内容へ、原告から挨拶(意見)があり、藤吉がそれを書面にした。その趣意は次の通り。
(記載なし)
その言い分には甚だ食い違いがあり、矢張り訴訟通りなので、そのことは明後日10日に評定所係へ届けるべき旨申しかわして引き分けた。
※⑱ やはり、井上が強引に和解交渉へ持ち込んだとしても、両者の交渉はすんなりとは行かない。

4/9 一同藩屋敷へ。昨日のことを報告したら、佐藤次が言った。やむを得ないので、ならば評定所で交渉するほかないと。
4/10 朝五ツ半時分、評定所係へ破談届を双方で出した。そこで原告宿屋が私共宿屋へ懸け合い、今一応思慮したいので、3日日延べしてほしいと。それで、13日まで日延べにして、そのお願いの連印文書は次の通り。
(記載なし)
そのことを藩屋敷に報告したら、それはまあいいだろう、済口證文を書き直しておいたから、仲間と篤と相談してくるように、とのことだった。
4/11 藩屋敷へ、昨日の済口證文を一同で拝見したことを言い、中束村山子の仕訳を確かにしたいと太右衛門が言い、尚又書き直された。次に、(明日打合せしたいが、明日は都合悪いという意味の内容かと思うが、意味をよく読み取れず)、とにかく、先方の趣意をしっかりと聞いて、破談にはしないで帰ってくるように。これまでの箇条は「窮置候事故」(窮め置き候こと故=済口證文原案は突き詰めた内容になっているという意味か)、明日一刻も早く(用が済み次第)帰るので、13日に会合を持つと言われた。
(肝心の13日の記載がない)
4/14 朝五ツ半時評定所へ。原告被告一同呼び出され、井上が、双方で交渉した済口證文と破談の内容を尋ねた。原告は、中束村地元というのは訴外(訴訟外)だと言い、私共は訴外ではないと言った。双方から主意書を出すように言われ、私共から昨日13日の交渉の文書を出したが、原告側はそれは認めてないと言い、井上は、主意書がなくては分からないから、ひとまず下がって早々に提出するようにと言った。
腰掛で私共の主意書の写しへ張札して書き加え。その後呼出しあり、原告が書面を提出、その上追い追い御吟味の文言を書き加え、(この後の文章は入り組んでいて意味がよくくみ取れないが、中束村地元のことについてのやり取りのように読める。様々な証拠文書が提出されて)井上の言。地元であることには相違ない。しかし、原告が訴外のことだと言っているので差し除くようにと。しかし、その村の古法を破るのであれば、その時に出訴すべし、其の節きっと裁きを申しつけるので、この度は地元の訳を差除くべきだと説明された。用水林のことも文面から差し除くよう、これは説明もなく一口で言われた。私共は、用水林のことは不承知で、差し控えていた。その外の文面は、被告側の言う通り、これに差略あるまじき旨、双方へ言い。ひとまず、原告被告承知の体で引き下がった。
腰掛で、用水林の事は難しく、除くことに相談し、これは藩屋敷の意見も分からないので、今一両日日延べしたいと宿屋にお願いさせた。原告は、堀切場水引取りの文言は承知できないということで、これも日延べの理由に願上げた。
私共が不承知の事は言わず、それは後日申し立ててもいいことなので、そのように駆け引きした。
次に、原告を呼び出して、(井上からか)原告不承知の事は心得違いであることを言われたが、それでは収まらず、18日に来るように言われて一同下がった。

※⑲ 藩の思惑とは別に、被告の村にも思惑がある。とりわけ、中束村は水源の山が地元で、それを認めさせたい。しかし、それはもはやこの訴訟決着の主筋からは外れてしまった。だから、紛糾を恐れた井上は、それは除外だと一決した。そもそも、用水林云々は平太郎の謀(はかりごと)だった可能性が高い。そこにも触れないことにして、井上は平太郎に花を持たせた。平太郎は堀切場水引取りの文言にこだわった。井上は、そこが村上藩の防塁だと承知しているから、平太郎を一人にして説得した。これまで何度も平太郎を一人にして説得してきたのは、その一点だった。前段、平太郎に花を持たせた意味もそこにある。まさに、村上藩の御利害にかかわる部分だ。最終決着は18日に持ち越された。

4/15 藩屋敷へ。昨日の始末報告。佐藤次は、何分堀切場は彼是ないように申し立てるべきと言う。私共から、今一応、地元の訳と用水林の事を押して申し立てたいと詰めた。佐藤次は、それはそうだ、堀切場の文言と引き換えになってもよいので、申し立てるべきだと言い、何分、堀切場が専一で、その外の事は無くても、今後、構わないのだと心得るようにと言われた。

※⑳ 被告、特に中束村が地元にこだわっている。それで、佐藤次が、そのことと堀切場のこととを差引交換条件にしてもよいと言っている。つまり、両方打ち消し合わせて、堀切場の件も消す。ここが村上藩の最初から守りたい一線。そのために、中束村の主張を利用しようと言う。被告たちは、初めから終わりまで、藩の都合でいいように使われている。

4/17 藩屋敷へ。明日、評定所へ出る際の主意を聞かされた。
14日の御利解(井上の説明)を承知したことを述べた。そして、中束村分から大栗田村地内へのことは去年の訴訟にも無いことを申立て、(済口證文に)書き載せたい。それについては原告の全くの心得違い等の文言を引き換えにいたすべきだと申し上げた。(それに対して)中束村分からの文言を書き載せる筋もあるけれども、そのことで破談にしない様、そうであれば、全く心得違いの文言等は除かないようにするよう、尚又、先日から言ってあるように堀切場用水引取りの文言は、何れに御利害等があっても承知しないで、幾度も破談になろうとも構わないので、きっとこの旨心得るべきと、言われた。
14日の済口證文は、此度御前(藩主)に差し上げたが、まだ御披見遊ばされてない。今日は紅葉山へ御成りで、七ツ時までには御披見下さるよう申し上げてあるので、七ツ過ぎには返される。その後、来るように。その外、帰国の時の様子など物語っていただいて帰った。
(市史資料編は「以下略」となって、ここで手記の掲載を終えている)

※㉑ 中束村としては、堀切場は自分の村の分だと認めさせたい。用水林だというのは全くの心得違い、間違いだと。最後までそこにこだわっている。藩としては、そのことで破談になっては困る。専一なのは堀切場用水引取りには触れさせないこと。それに触れるようなら何度破談になってもいいと、防塁第一線を強調。それに触れないのであれば、心得違いの文言は入れていもいいと。身代わり被告の村々と藩とは最後まで思惑がズレたままだった。結局、済口證文には、心得違いの文言が微妙な形で入ることになった。手記の掲載はここで終わっている。4/14の書きぶりからすると、恐らく18日が最終交渉日で、その結果が4/21の済口證文となったのだ。

ウ 手記から見えた済口證文の謎

 平太郎の訴えは真実だった。それなのに、それを真っ向から否定するかのような済口證文が出来上がっている。真実とそれの否定、その間をつなぐのが、源蔵の残した手記。それをつぶさに読み込んでみると、済口證文があのような内容になった経緯と理由が判明した。そして、登場する4者の思惑も透けて見えてきた。それぞれの思惑が互いに交差し合う構造の中で、あの證文が出来上がったのだ。

(ア) 評定所による説得と強制和解
 4月18日の手記が、市史資料編には掲載されていないが、今に残る済口證文の内容はそこで最終決定されたものとみられる。この日までに、評定所での井上の吟味は、2月22日、4月6日、4月14日と3回行われた。そして、その都度、被告抜きで平太郎と井上が対面する場を作っている。そこでの説得の積み重ねが18日の決着となった。
 では、どのような説得がなされたのか。そのキーワードが2月22日の「御利害」である。手記には、この日、井上は、平太郎の申し立ては一つも御取用いになり難い様子で「種々御利害を仰せ付けられ」とある。そして、その後で、平太郎単独の場となった場面でも、「察するところ尚又御利害仰せ聞かされ候と相見」と記録している。だから、源蔵は、御利害の内容を理解していた。しかし、その内容は書かなかった。書かない方がよいと判断した。それはなぜか。

(イ) 井上の説いた「御利害」の内容
 源蔵は、平太郎たちに対して「御」などの敬語を使うことは無い。井上が「利害」と言ったとしても、それが「御」をつけるべき対象の利害であれば「御利害」と書く。だから、手記のこの御利害は、幕府か藩の利害である。
 幕府の利害であれば、まさか井上が自分たちの利害について話すわけがないから、幕府領、つまり平太郎の言う御田地にとっての利害になる。この点については、被告が既に10月反論で主張している通りで、藤沢川の水は、もっと水量の多い女川と合流するから、それより下流域の幕府領の利害にはほとんど関わらない。平太郎が兵庫頭に言った、後の水田開発のためといっても、具体的な計画があるわけではない。
 そもそも、平太郎の訴状には誇張表現が多い。藤沢川が枯渇すれば干害で御田地養育ままならず我ら退転などと。用水林のこともその一つだろう。だから、被告からそこを突かれ反論されている。井上が、一つも御取用いになり難いと言ったのは、そのことも含んでいる。しかし、それだけなら被告の言い分を井上が代弁してくれたのだから、源蔵が書かないわけがない。
 源蔵が書かなかったのは、藩の御利害が含まれていたからだ。井上は、皆の前でそれを少し匂わして、詳しくは、平太郎一人の時にそれを語った。それでも、源蔵には薄々何のことかが理解できた。御利害と書いてあるが、有体に言えば、村上藩の裏事情である。これを抜きにして平太郎を納得させることはできない。そのために、井上が説かなければならない藩の裏事情とは、どのような内容が考えられるだろうか、以下に箇条書きで上げてみる。

a 藩の新規堀割は事実で、しかも、無届工事、明らかな失策である。それを咎めることができるのは幕府であって、平太郎ではない。よって、今回の訴訟で、藩の無届工事については触れることはできないし、その必要もない。咎めは別途、幕府と藩との間で行う。そもそも、天明の工事では届が出て幕府代官所は許可している。今回も、届が出れば許可になるはずのもの。届を怠ったのは手落ちだから、藩にはその始末をつけてもらうことになる。
b 藩が何故、新規堀割の存在を認めなかったか。それは、百姓から不法を指摘されたからで、藩の面子である。武士は面目を何よりも大事にする。これは分かって貰わなければならない。藩が何故、届け出を怠ったか。それは、村上藩役人の思い上がりである。藩主が幕閣の重要人物であることを笠に着て、幕府の代官所を軽く見た。それと、藩の役人たちのいい加減さも原因している。いずれにしても、村上藩内部の問題であって、平太郎の訴訟でどうこう言えるものでもない。それはそうとして、藩の不法行為を告発したのは、幕府領々民としての平太郎の手柄ではある。勘定奉行兵庫頭もそれを認めている。
c 田麦堀割の水は、古来より村上城の用水として認められている。藤沢川本流と掘割分水へ流す割合は、7分3分で4月1日から8月30日まで、それでも藤沢川下流域が渇水の際はそちらを優先する。このことは、藩では文化元年の工事の時から、現地に堰番をつけて実施している(「町年行事所日記」文化元年3月18日と7月27日の項・参照)。そして、この内容は、すでに平太郎がそれでよいと認めた11月現地仲裁案そのものである。扱人は現状を承知して、それを妥協点に据えた。それなのに、何故、11月仲裁案を藩が蹴ったのか。それは、ここで、無届工事を認めるわけにはいかないと頑なになっていた。それが、bで言った藩の面子。藩の面目は藩主の面目。それを守るためであれば、武士はどんなことでもするものだ。
d そもそも論で言えば、田麦堀割から引いた水は御城の用水であって、これは誰も口出しできない水(軍事用水)である。その余分を神納をはじめとした農業用水に使っていることになっている。たとえ茶畑を水田にして御城用水の余分を回したとしても、たとえ大関村辺で開田して門前川の水を引いたとしても、その決定権は藩にあって、平太郎が口出しできるものではない。
e 平太郎の訴えは、19町村を被告にして、掘割を埋めさせろというもの。19町村にその権限はないし、c、dのことからして、幕府が藩に対してそれを言えるものでもない。よって、済口證文の内容に平太郎の言い分はほとんど載せられない。ただし、本来の姿である11月仲裁案の内容を確保できたという点で、平太郎の願いは実質的に実現できたことになる。用水林のこと、直接の用水に無関係のこと、平太郎一存のこと等々は、この際不問に付すことにする。新規堀割工事のことについては、双方心得違いだったと読める文言を入れて、玉虫色にする。

 平太郎を説得するとすれば、以上の内容になるはずである。何回も重ねて、しかもここまで、腹を割られれば、平太郎も黙って引き下がらざるを得なかったはず。もっとも、これ以上長引けば、証人たちの滞在費用はかさむし、何よりも農耕の季節に既に入っているから仲間にこれ以上迷惑はかけられない、早々に決着を着けなければという平太郎の側の事情もあったことは想像できる。もちろん、それは被告側も同じである。
 ついでに想像をたくましくすれば、どこかの時点で、平太郎は兵庫頭に会ったのではないだろうか。「平太郎、ようやった。村上藩に一泡吹かせたのう。内藤豊前守(村上藩主)が困った顔をしておったぞ」と、もしかしたら「平太郎の名を出したら、内藤豊前が憮然としておったぞ」などと、そこまで言ったかどうかは別として、2月21日白州での兵庫頭の口ぶりからすれば、平太郎に会って何か一声掛けたような気はしている。(平太郎と勘定奉行の関係については、後述する。)

(ウ) 願い潰し
 4月6日の白州場面を源蔵は「願潰とあい成りそうろう処」と記している。井上は、改めて江戸まで呼び出した原告全員に訴訟目的を問うた。が、だれもまともに答えられない。井上は、平太郎を一人にして説得した後、全員を白州に戻させ、「願いの筋はないか、あったら申し立ててみよ」と言い、平太郎が「ないことはない」言ったのを「ない」と言ったことにして、すかさず源蔵は「平太郎たちがないのなら自分たちもない」と応じた。得たりとばかりに、井上は、ならば訴訟を取下げ、済口證文作成の交渉に移るようにと、一件落着へ走った。これまでの説得を受けて、平太郎としては、受入れざるを得なかったということだろう。

(エ) 「堀切場水引取り」と「用水林」の相殺
 4月6日以降、原告被告は公事宿主人を扱人にして済口證文の交渉に入る。しかし、すんなりとは行かず、破談届を出すしかないという寸前までもめた。その理由は、二つ。
 一つは、平太郎が、「堀切場水引取り」の文言を入れることにこだわったこと。それが事実だからだ。しかし、村上藩はこの文言を絶対に入れたくなかった。4月14日、村上藩の意を受けた井上は、またまた平太郎を一人にして強く説得した。これが3度目の説得。(藩がなぜこの文言を入れたくなかったのかについての考察は後述する。)
 もう一つは、中束村庄屋が、平太郎の言った15村入会の用水林は虚偽で、中束村地元の山であることを合意事項に書き入れるよう強く主張したこと。それは訴訟外のことだと、平太郎は強く抵抗した。方便だったからさすがの平太郎もそこを突かれたくなかったのだ。
 村上藩はこの二件を相殺することで思惑通りに運びたいと考えた。その意向を受けて、4月18日、井上は中束村の主張を削るよう介入した。

 以上のような経緯でようやく「済口證文」が出来上がり、4月21日、評定所へ提出された。そこには、訴訟に関わった四者の思惑が複雑に絡んでいた。

エ 四者の思惑と関係構造
(ア) 平太郎
 平太郎は、村上藩の無法工事に憤った。代官所へ訴えても、埒が明かず、それなら、自分で訴えるしかない。オレがやらずはダレがやる。真の相手は藩、しかし、百姓が藩を訴えて通るわけがない。ましてや、平太郎は他領の者、それに平太郎が藩から無法な被害を受けたわけでもない。どうしたら無法に取られた水を取り戻せるか、考えに考え抜いた。
 ここはひとつ、百姓同士の水争いにして訴え出るのが良策。こちらは幕府の御田地の耕作者、その水が取られたとなれば、むげにはできないはず。そのためには、藤沢川の水が自分たちのものだと主張できる根拠が必要。大栗田村が藤沢川上流の木を無断で切った。これは好機だ。もともと光兎権現の神域として氏子15村で守ってきた山林。これを用水林だとすれば、そこから流れ出る水は用水組合の水ということになる。これで訴訟の根拠はできた。
 まずは、新規堀割を大栗田の仕業にして、村上藩に訴え出てみた。案の定、関係者ではないと門前払い。それならば、予定通り幕府へ訴訟だ。被告は多い方がいい。名前や地理が多少違っていても構わない。幕府領の水が無法に取られたのは事実だ。騒ぎが大きくなれば、幕府も握りつぶすことはできないだろう。
 村上藩が裏でどう動くか、見ものだ。一泡ふかしてやりたい。こちらとしては、藤沢川の水が無ければ今すぐ困るというものではないが、本来、藤沢川も含めて女川の水は流域の我ら仲間のもの。それを一部とはいえやすやすと他地域へ引き取られたのでは、この地を開発した我らの先祖たちに申し訳が立たない。藤沢川の水を不法に引き取るのを止めさせなければならない。地元民が黙っていないということを知らしめておかなければ、今後のこの地域の将来に関わる。
 (実は、平太郎にはまだ構想も具体化されてないが、夢に描いた大願があった。2月21日の御白州で勘定奉行に訴訟目的を問い詰められ、それを吐露した。このことについては、改めて項を設けて考察する。)

(イ) 村上藩
 平太郎に指摘された新規堀割工事は、やっていた。茶畑を水田に切り替えるために水が必要だった。その水は、元来は御城の用水であって、単純な農業用水ではない。だから、百姓の平太郎にとやかく言わせておくわけにはいかない。
 しかし、今回の工事は、幕府への届け出を怠っていた。それで、うろたえた。うろたえればうろたえるほど、面子にかけても、百姓の指摘で、工事をしたことも無届だったことも、今更認めるわけにはいかない。ましてや、掘割を埋めたり閉切り堰を取り払ったり、できるものではない。ここは、何としてでも、工事はなかったことにして、平太郎の訴えをはねつけなければ、藩の面目が立たない。
 なぜ無届だったのか。それは多分、慢心から来るうっかりミスだろう。もともと取水していた農業用水を少し増やすくらいの工事だから、大丈夫とたかをくくっていた。藩主は将軍間近に仕える幕府高級官僚。これくらいで、だれも文句は言わないだろうと。
 平太郎にしても、関係のない者にとやかく言われる筋合いではないとはねつければ、引っ込むと思っていた。ところが、平太郎は幕府に訴え出た。
 幕府へ訴えられて、慌てた。自藩の致命的な失態に気付いたからだ。田麦堀割は御城用水、お城の堀を通過して、町の中の農業用水路に流す。それを増水させるために、御堀の堤にも手を加えて補強した。このことが表沙汰になれば、面倒なことになる。何しろ武家諸法度違反、いかに将軍側近といえども、御家の浮沈にかかわる。
 この失態は何としても隠蔽しなければならない。そのためには、大元の田麦堀割拡張による分水増をなかったことにするしかない。
 藩を相手に訴えたのなら、平太郎一人、押しつぶすこともできなくはない。が、門前川流域の町村を全て被告にして、百姓同士の水争いで訴訟を起こされた。突然被告にさせられた町村はどうしたらよいか分からず、藩の出方を窺う。藩はますますうろたえた。
 平太郎は、新規拡張だけは元に戻せとしつっこい。それは平太郎の虚偽だと言ってはみたものの、誰が見ても藩の主張には無理がある。平太郎を黙らせるには、評定所に頼るしかない。内々、堀割無届はうっかりミスであることを伝え、些細なことにする。城の堀工事の件には一切触れない。
 評定所の扱いとなれば、担当トップの勘定奉行は、藩主と同じ中央官僚。武士は相身互い身、持ちつ持たれつ忖度の世界。まさか、百姓の肩を持つはずもなく、些細なミスであればと忖度して、藩の面子を保った決着へ運んでくれるはず。いや、ぜひそうしてもらわなければならない。

 だれもが事実として、藩が掘割拡張したことは承知している。しかし、それをないと言い張る藩、それに口裏合わせる領民。滑稽ですらある。が、藩は必至。幕府にも、藩の面子の問題だと思わせて、新規拡張だけは認めたくない姿勢をみせる。すべての眼を田麦堀割に向けさせる。武士の面目だと思わせておけば、陰で笑われても傷は浅い。城内の堀の工事がなされたことに気付かれなければ。このことが、村上藩が必要以上にうろたえた原因ではないだろうか。

(工事の届について・・・高橋重右エ門著「先人からの贈りもの」に、「天明2年(1782)7月、水原代官所は、上助渕・下助渕・山屋三村の本田用水のため、新規堀割りを認めている」(p.166)とある。出典は明示されてないが、高橋氏がどこかでこの元史料を見ているのかもしれない。それに対して、今回の工事が無届であったことは、事の顛末からして間違いない。ただし、「町行事所日記」には、天明の工事は5年8月に記録されていて、3年のズレがある。高橋氏の記録違いか、あるいは、許可と工事着手との間の測量・準備等による時間差かは、今のところ不明である。)

(ウ) 被告の町村
 訳が分からないまま被告にされて、迷惑至極。おまけに、藩からはあれこれの指示。それもこれも、平太郎が訳の分からない訴訟を起こしたせい。平太郎憎し。とはいえ、門前川の水が増えるのは自分たちにとっても利のあること。ここは一つ、藩と一緒になって平太郎をつぶすに限る。評定所は、藩の味方らしく、こちらに難しい問い掛けや厳しい尋問は一つもなかった。藩が、裏でいろいろ動いてくれたお蔭だ。それだって、本当は藩の問題なのだから、当然の事。ここはひとつ、折角藩費で江戸へ来れたのだし、江戸見物、訴訟の交渉、白州の吟味等々、滅多に出来ないことを良く見聞きして帰ろう。

(エ) 勘定奉行と評定所

 事実関係は全て把握した。平太郎の訴えに間違いはない。村上藩の失態だ。そもそも、幕府領の農業用水を無断で引き取るなどもってのほか。幕府領支配の大元は勘定奉行、それをないがしろにするものだ。これが外様大名であれば、領地没収あるいは減封にできるほどの事。しかし、村上藩内藤家は、始祖が家康にまでつながる幕府の主要な譜代大名で、なおかつ藩主は幕閣の重要人物、それはできない。むしろ、我らの身内。配慮をしてやれば貸しを作れるいいチャンス。身内をかばうはムラ社会の当然の習わし。それが、武士は相身互い身の意味。
 とはいえ、平太郎をむげにはできない。幕府の領民であるし、正統な納税者であるし、訴えが正しいことは関係者皆知っている。威に任せて偏った判決をしたのでは、幕府への信頼にかかわる。それに、この訴訟、表面的には百姓対百姓。評定所が被告百姓たちの肩を持つ理由は全くない。藩が困っていることを内々平太郎に、情理を尽くして説得し、自分から訴えを下げるように運ばなければならない。それには、平太郎にも、花も持たせなければならない。さて、それをどうするか。藩にも譲ってもらわなければならない。しかし、表立って譲らしたのでは、藩の面目がつぶれる。陰で譲らして、それを平太郎に受け入れさせる。平太郎の男気に頼るしかない。

オ 平太郎と勘定奉行の関係
 2月21日 初めての白州、勘定奉行が出座して、平太郎に尋問した際の源蔵の記録。
 「平太郎 その方 願いの儀は どふいたしたとな」
 「ことに その方 多くかひたのであろう」
 「何分、見分していないので分かりかねる」

 平太郎へのこの口調、どこか親しみあるように感じられる。源蔵が白州で尋問中に筆記できたとは思えないから、宿にもどってから仲間と一緒に想起復元した記録だろう。源蔵の記録は基本的に候文である。この部分を候文にせずに話し掛けたとおりの記録にしたというのは、皆が、この口調を妙に感じたということだ。
 筆者は、平太郎と勘定奉行は初対面ではないと推測している。
 平太郎は、年貢廻米の責任庄屋の一人である。水原代官所管内蒲原郡岩船郡の代表庄屋たちは納税組合を組織し、年貢米を江戸の幕府御蔵に納入するまでの実務を担当している。具体的には、海老江湊、新潟湊、江戸表、さらには廻船乗組みと、当番で長期出張滞在して、納税の任務に当っていた。
 「関川村史」に、この時代より少し後のことになるが、赤谷村庄屋三助がやはり責任庄屋の一人として江戸に長期出張滞在した際の記録が載っている。三助は、滞在中、当時の勘定奉行に挨拶に伺っている。
 平太郎が、海老江に滞在して任務に当たった史料は残っているが、江戸に出張した記録はない。しかし、順当番であるから、三助同様江戸に出張した可能性は高い。そもそも、勘定奉行所に出訴する発想自体、そうした経験からなされたものだろう。勘定奉行と面識があることは十分考えられる。裁判の過程でも、挨拶に伺っているのではないかと想像している。
 考えてみれば、幕府領の農業用水を無断で引き取ったということは、そこを所管するトップの勘定奉行の顔をつぶしている。江戸城内では幕閣の同僚の立場で、忖度しなければならない間柄。さりながら、うっかりミスとはいえ所管を無視された苦々しさもある。平太郎、よくぞやったりという思いを持っても不思議ではない。

 そういった関係が背景にあるとすれば、平太郎の訴えを全くむげにして済口證文が成り立っているとは考えられない。

カ 済口證文の再吟味

以上の検討をもとに、再度、済口證文の内容を読み直してみた。

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a 藤沢川は、中束・蛇喰・中・宮前4村の用水で、女川南岸の新保、北岸の中束・蛇喰の3村地先で落合う。よくよく調べたら、原告12村中、この用水を引き取る地縁のない村もある。
b 大栗田地内へ用水路堀切の場所は、堀丹後守が領主のとき御城用水不足で寛永年中に分水を仰せ付け、その後、山屋・上助渕・下助渕3村本田が用水不足で、御城用水を掛けるのに堀切を仰せ付けた。
c 以後、次第に埋まったので、天明年中に村上の領主が浚い普請等を行ったもので、古来よりの証拠は顕然としてある。
d 今般、10年以来、新規用水路掘割と原告が言っていることで、御吟味を受けるのは全く心得違いで、この上、お願い申し上げるべきことはなく、恐れ入ります。
e 然る上は、この堀切場の用水を引き取ることは、これまでの通りと心得、今から以後、原告からいささかも異議のない旨、原告が言い、合意決定した上は、被告においても言うことはない。
f もちろん、拘わり合いのない村々も、その通りで、被告にされた申し分も、証拠のない言い争いも、扱人がもらい受ける。
g このことについて、双方、いささかも申し分なく、熟談内済いたしました。これはひとえに、幕府の御威光と有難き仕合せに存じ奉ります。然る上は、この一件について、双方より重ねてお願いがましきことは申し上げません。後の証拠のため、訴えと返答に連印した済口證文を差上げます。この通りです。
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 aで、被告の町村は満足。bとcで、藩と神納3村は満足。dで、「新規用水路堀割」と、平太郎の主張した文言を入れ、なおかつその有無をぼかした。その上で、心得違いの主語をどちらにもとれるようにした。平太郎からすれば、新規に掘割りを掘って評定所の吟味を受けることになったのは、藩又は被告たちの心得違いだったと書いてある、と。被告又は藩からすれば、新規に掘割りを掘ったなど原告に指摘されて吟味を受けることになったのは、平太郎たちの心得違いだった、と。
 そして、eで、堀切場の取水はこれまで通りと、ここでも新規かどうかはぼかした。新規がないとすれば、これまで通りとは、拡張以前の状態のこと。つまりは、この文言で、無分別な新規取水増を禁じたことになる。
 文面そのものは、随分と村上藩の顔を立てたようになっている。武士は相身互い身、しかも同じ幕府の官僚同士、そこは色濃いムラ社会、ある意味当然のことともいえる。平太郎の抵抗も、この辺りが限界だったということになる。内々、新規堀割以前の状態に戻すということであれば、実はとったから、これ以上の望みは最初からなかったということだ。
 最後のfで、平太郎の側の問題点、つまり被告から様々に指摘された、名前違い地名違い、用水林の虚偽等々については一切不問に付すと、平太郎へも配慮を見せている。細かいことはごちゃごちゃ言うな、というわけだ。
 井上としても、ヤレヤレと言ったところだったのではないだろうか。

キ 平太郎の訴訟目的
 結局、平太郎は何のためにこの訴訟を起こしたのだろうか。それを窺い知ることのできる場面が、源蔵の記録にあった。
 2月21日、勘定奉行の尋問の場面。関係ない村がなぜ訴訟を起こしたのかと問われて、平太郎は、初め、用水組合だからと答えたが、奉行は即座に、それは平太郎の作りごとだと一蹴した。すると平太郎は、こう答えた。
 何分、用水を引き取られては、高所の水が不足して、先祖より所持してきた野地が(田地に)開発できなくなる

 源蔵は、この場面のやり取りを藩屋敷に戻って、報告した。すると、藩役人はこう言ったと記録している。
 平太郎が言ったのは上野のことで、これまで願人が7人あったが、田にはならなかったところだ

 平太郎がどこか高台の開発のために藤沢川の水が必要だったということは読み取れるが、藤沢川の水を引き取るような高台は見当たらず、筆者には、具体的な理解が不可能だった。
 ところが、それからしばらく後のこと、「関川村史」の近代史の記述の中に女川左岸段丘の開発史が載っていて、そこに、延文~貞享年間(1673~88)、小見村大庄屋平田氏を中心に上野新田が開発されたと書いてあることに気づいた。それで、平太郎が奉行に答えた内容の意味が理解できた。
 女川左岸段丘上には、広大な平地がある。沢水を引いて開発できた一部を除き、大部分は高所で水の便が悪いため手つかずの野地が広がっていた。ここを開発するには、光兎山南側を流れる女川の上流から水を引かなければならない。光兎山北側を流れる藤沢川の水は使えない。しかし、女川の水を上流で高台へ引き取れば、下流の水が不足する。それをカバーするのが藤沢川の水。
 そこまでの大構想を持っていての、平太郎の訴訟だったのだ。
 何しろ、平太郎は、中世会津地方の開発領主だった武士の末裔。米沢藩上杉家の禄を離れて小見村に土着した先祖も、荒川右岸段丘の開発を天職のようにして、営々と新田開発に努めてきた。その血脈からすれば、女川左岸段丘の開発は平太郎の大願だったのだろう。

5 平太郎という人について

 以上で、新規堀割の謎と、済口證文の謎を解明した。
 最後に、中心人物・平太郎とはどのように人であったのか、検討しておきたい。それによって、この訴訟の本質が見えてくるような気がする。

ア 平田家系図(写し・平田大六氏所持)から見えた平太郎
 平太郎の祖先は、会津芦名氏の重臣平田氏。芦名氏滅亡後、上杉景勝の家臣となった平田常範は、「慶長4年(1599年)秋、関ヶ原会戦を前に起った越後一揆を指揮して下越後に進駐、小見村に屯す」とある。
 越後一揆とは、会津領主となっていた景勝が豊臣秀吉死後徳川家康と対立し、家康配下の堀氏所領となった旧領越後国内を撹乱する目的で行ったゲリラ戦で、越後遺民一揆とも言われている。越後各方面へ景勝配下の諸将が本格的に進入したのは慶長5年春からとされているが、平田常範はそれより早く、関川口から越後に進入していたことになる。同年9月に関ケ原合戦で景勝同盟者石田三成が破れ、12月には景勝も家康に降伏し、米沢藩主となった。常範の子は米沢で上杉家に仕えた。
 ところが、その子(常範の孫)・平内が、「無給となり祖父縁故の土地下越後小見村に土着、墾田に専念、平内新村及滝原村を開く」とあり、ここから小見村の平田家が始まっている。もっとも、常範の進駐時同行した者たちの中で、すでに、近辺に土着した者もいたようで、平内の帰農土着もそれらの縁からなされたもののようである。
 平内の次の平太郎も父の跡を継いで滝原・辰田新田・上野山を墾田して、小見組大庄屋を勤め、以後、平田家の当主は代々平太郎を名乗っている。田麦堀割訴訟の平太郎は12代平太郎ということになる。なお、9代平太郎は、蒲原郡48ヶ組惣代を勤め、平田家文書のリストを見ると、この人の期間だけ文書には平田平太郎となっていて、名字帯刀を許されていたことが分かる。
 小見組の村は、その時々の領主行政の都合で変化しているが、基本は、荒川右岸の女川と川北地域を含む旧女川村の範囲である。つまり、この訴訟の原告の村々が小見組であり、平太郎はそこの代々の大庄屋ということになる。
 ただし、「関川村史」によれば、小見組の大部分が村上藩領から幕府領になった宝永6年(1777年)から、幕府領では大庄屋と称することはなくなった(p280)とある。これは、幕府領の行政組織として組制度がなくなったことによるものであって、代々の平太郎は、実質的には小見組の大庄屋と目されていたのであろう、系図も13代平太郎までずっと小見組大庄屋となっている。

 系図から見えた平太郎は、原告村々の代々の指導的立場にあった。その立場は、先祖から200年、この地域の村々の開墾開田を主導してきたぶ厚い積み重ねの中で築かれたものである。おそらく絶対的な信頼の下で絶対的な指導力を発揮してきた家であろう。平太郎が、直接自分の或いは自分の村の水利に関係しないとしても、この地域内から無断で水を引き取られることを黙って見ているわけにはいかない事情は、この系図から見ることができる。
 その上、平太郎が女川左岸段丘の開発という大構想を抱いていたとすれば、藤沢川の水を一滴たりとも他所へやるわけにはいかないという想いも、理解できる。

イ 訴状から見えた平太郎
 訴状からいえば、知略と大胆さを兼ね備えているように見える。村上藩の所業とは分かっているが、そこを直接の対象から外して、誰をどう訴えるか。それによって、最終的にどこで手を打つか。それらをよくよく考えてのことなのか、それとも行き当たりばったりで進めたことなのか。どうにも判別しがたい。
 大栗田村の無断伐採を好機として、この村が勝手に堀割ったから埋め戻させてほしいと訴える。中束村等がそれを知っていて黙っていたから叱ってほしいと訴える。次に、藩に訴えてもやってくれないからと、幕府へ訴える。その時には、勝手に掘った水路の水を使ったからと流域全部の村を訴える。直接、村上藩が悪いとは決して言わない。
 現実に自分たちがどんな被害を受けているかも言わない。訴えの根拠に、用水林を持ち出す。簡単に否定されることが分かっているだろうに。相手の村名や人名の違いには頓着しない。始め幅2,3間と言った新規堀割幅が次の段階では、幅3間と言い切っても多少の違いは気にしない。このままでは、御田地養育ままらなず、土地を荒らして離村するほかないなどと、大袈裟に言ってみたり。と言って、現地仲裁の7分3分案で手を打つ。最初から水は目的ではなく、黙って手を出した藩に一矢報いて一泡吹かせるつもりの迂回大作戦。知略と大胆さがなければ、普通の小人には、思いつかないのではないだろうか。現に、被告たちは、平太郎の意図を理解できず、訳が分からないと憤慨している。大胆さは、大雑把さにも通じる。常人には理解し難い思考法の人のように思える。

ウ 白州の記録から見えた平太郎
 源蔵の手記に記述された白州での平太郎は、何とも頼りない。叱られてばかり、何を言ってもまともに相手にされない。お前では分からないから外の者を呼べとまで言われている。説明は間違いだらけで、しどろもどろ。源蔵も具体的には記録しかねるほどだったようだ。この程度の人物のこの程度の内容で、どうしてここまで大仰な訴訟事件になったのか、首をひねりたくなるほど。不受理か棄却かでもよかっただろうにと思いたくなる。
 そもそも、村上藩が何故にここまで、過剰反応する必要があったのか。代官所にでも事情を話して、内々の内に7分3分の条件を示して、さっさと取り下げさせてもよかったものをと、思ってしまう。
 昭和の時代、外見もっさりとして、あーとか、うーとかしか言わない政治家がいた。それでも、主要大臣を務め最後は内閣総理大臣になった。多分、外見とは違った大力量の持ち主だったに違いない。50年近く時代が下れば、世に通用する資質能力は現代とは全く違う。ましてや、200年も昔の江戸時代。平太郎は、理論的でも弁舌爽やかでもなかったが、人々に何かを感じさせる大人物だったのではないだろうか。
 手記を読む限り、村上藩はこざかしすぎた。あれこれ差略して密かにあちこち動いて、被告たちにはああでもないこうでもないと。それに対して平太郎は、一見、理解し難い言動。何を考えているか分からない。しかし、鋭く相手の痛いところを的確についてくる。こざかしい人間にとっては最も恐るべきタイプ。そういう人物がいるものである。おそらくだが、平太郎とはそのような人だったのではないだろうか。そうでなければ、これだけの人々を巻きこんでこれだけの騒ぎは起こせない。

6 真のターゲット

 平太郎の訴訟意図を探ってきて、残してきた問題が一つある。これまでの検証から、田麦堀割新規拡張の真因は村上藩による田地切替だった。それの首謀者として平太郎は、村上町大年寄・助左衛門と年寄・助右衛門をあげた。(9月訴状では、大庄屋・庄屋になっているが、再出訴の訴状では、大年寄・年寄に替えてある。) 町行事所日記には、同時期の大年寄に助左衛門の名はないが、通称なのかもしれない。ともあれ、町の代表者として大年寄1名あげた。
 問題は、助右衛門である。年寄は、村上町の各町内に1名ずついる。その中から、助右衛門1人を選んだというのは、何か意図があるように思われる。平太郎は、藩の陰で田地切替に関わっているのはこの人物だと情報を得ていたのではないだろうか。
 村上町年行事所日記には、この時代の各町内商人への酒造割り当てが一覧になって記載されていて、その中で、多くの割り当てを受けている人物に助右衛門がいる。訴状と同一人物がどうかの確証はない。よって、以下は筆者の推測である。

 酒造は余剰米を現金化するのに適した方法である。藩への税金も大きい。ところが、当時、米が不足で割り当ての酒造量を達成できないという記事もある。茶畑は値段下落で衰退している。ならばそこを田に替えて、採れた米を酒造に回す。それで最も利を得るのは藩と助右衛門。真犯人は、最も利を得る者の中にいる。これは推理の鉄則。
 平太郎の狙いは、その権益構造に揺さぶりをかけることにあった。直接揺さぶったところでびくともしそうにない。それで、敢えて関係のない村々も訴訟の対象にして騒ぎを大きくすることで、本体も揺れざるを得ないように仕掛けた。
 被告にされた村々からすれば、平太郎憎しとなっただろうが、それと合わせてこの騒動の真の要因が藩と結託した一部商人にあることも見えただろう。村上町の11月反論に、一部真実が書きこまれたのも、年行事所日記に辛うじて新規堀割の記事が残されたのも、町大年寄たちの、それ(藩と一部商人の結託)への反感だったのではないだろうか。
 平太郎の冷徹な目がそこまで見通していたと、筆者は思いたい。


あとがき

 「村上町年行事所日記」「田麦堀割訴訟の記録」 どれも、読み進めていると、江戸時代の実相が垣間見えてきた。社会が発達し人々の意識が進んでいるというのに、政治・行政のシステムがそれに追い付いていない。平太郎の訴訟は、当時の武家行政の理不尽さを浮き彫りにした。行政には、藩も代官所も含まれる。皆々が、御上のすることに黙って従う時代ではなくなっている。平太郎のような人たちが出始めている。ところが、それを受け付ける地方政府はない。わざわざ江戸まで行き来して、その結果はといえば、身内のかばい合い。
 平太郎は、この国の根底を支えている中堅営農者。源蔵にしてもそう。今回の訴訟の原告・被告みなそう。意識無意識は別にして、この人たちに、脆弱な政治・行政システムの正体が薄々と見え始めていたのではないだろうか。
 最も大切にしなければならない中堅営農者層からの支持が徐々に離れていった結果が、明治維新だったのではと、そんなふうに思えてならない。
 歴史は名もない多数の人々のニーズによって動く。郷土の人々の歴史が、我が国の歴史である。じっくりと足下の史・資料に当たれば、歴史を動かした人々のニーズが見えてくる。郷土史は面白い。