綿野舞(watanobu)風物記2017
 
 10月23日 脚疼き石見銀山駆け巡り
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台風一過、雨は上がり時々日も射し始めた。当初の計画では三瓶山登山日。しかし、余波で風は残り、三瓶山山頂は強風予報。もう一日待つことにして計画を逆にし、この日は石見銀山見学。谷間の土地で駐車スペースがないことと、環境保全を目的に、中心部からかなり離れた世界遺産センターに車を置き、パークアンドライド方式でバスで移動し、中心部は歩くか自転車で回ることになっていた。3日走っていなかったので、そろそろ足が疼きだしていた。大会前に4日も走らない日が続くと、これまでの走り込みを台無しにしてしまう不安がある。それで、軽ザックを背負い走って回ることにした。勿論、シューズにウェアに一通りは用意して持ってきた。
渡辺伸栄watanobu
羅漢寺近くのバス停まで来たら、いかにも田舎風な絵葉書にでもなりそうな風景があった。スマホを取り出して撮影していたら、路線バスが来た。中に客が一人、なんとそれが我がOkkaa。後から聞いた話では、運転手さんが、走っている人がいると言って、あれはうちの人ですとOkkaaが言って、バスの中で笑い合ったとか。Okkaaは、ここでバスを降りて歩いて大森地内を回った。
世界遺産石見銀山駆け巡りコース。GPS腕時計で13㎞あった。月曜の午前、人出は疎らだったので、走って通ってもそう迷惑にはならなかったと思う。ただ、たまにすれ違う観光客やボランティアガイドらしき人々の眼差しは心なし冷たいように感じたのは気のせいだろうか。近年は、山でも街でもどこでも、やたら走り抜ける人が増えて、クレージーランニングなどと言う言葉もあるらしい。当方は、大会前で已むに已まれずなのです。どうかご容赦を。
大森代官所前。ここから南へ約1㎞ほどが大森の町の中で、古い商家風の家が軒を並べ江戸時代の雰囲気を出している。往時の繁栄が偲ばれる風情。その町通りを過ぎて、さらに南へ1㎞くらい、今度は銀山役人の役宅などが並ぶ。だから、ほぼ2㎞くらいにわたって、銀山で栄えた江戸時代の街並みで、谷間の町のせいか、敷地は狭く建物はみな低く小さい。江戸時代の雰囲気をよく醸し出しながら残されていて、へんに現代的に観光化されなかったのが世界遺産に選ばれた理由だろうかなどと、思いを巡らせながら駈けて通った。
大森の町の中で、Okkaaと再びバッタリ会った。あら、じゃあ、などと一言二言交わして、すれ違い、Okkaaは北へ、小生は南へ。
 
遺産センターでもらったガイドマップに、山吹城址が載っていた。大森小学校の実に昔風の懐かしい感じの瓦校舎を眺めてから、大森の家並も途絶え、龍源寺間歩へ向かう山道を走っていたら、その山城への登山口看板があった。ランニングスタイルで山に入る不安はあったが、登山道がよく整備されているようなので軽ランで登り始めた。途中からは急坂、さらに進むと今にも崩れそうなコンクリ階段の顎がつかえるような急登。山頂本丸(主郭)跡に上がれば、丁寧な説明看板があって、銀山防御のための厳重に構築された山城であることが分かった。足下には通ってきた大森の家並、いかにも狭い谷間の町。
 
本丸跡からは遠く三瓶山がいい形で見れたし、目の前には、石見銀山の本体である仙ノ山があった。あの山のどこにどんなふうに鉱脈が走っていたのかは、遺産センターの展示で実によく分かるようになっていた。地球の奥深くから上がってきた銀が熱水に溶けて岩の割れ目に染み上がり鉱脈になったのだという。すべては偶然の産物か。 
 
見学コースの最北端、龍源寺間歩。付近には小さな採掘穴が各所にいくつもある。中には、個人経営の穴もあるのだとか。龍源寺間歩は観光客用に通り抜けできるようになっていて、山の反対側へ出る。ガイドマップには、そこから仙ノ山に登り鉱山集落跡を見学して遺産センターに戻る道がかいてある。間歩入り口の案内所で、その道を通れるか聞いてみたら、係の小父さん、ランニング姿の小生を訝しんだのか余り親切でもない対応で、行ったことがないと言う。君子危うきに近寄らず、素直に来た道を戻ることにした。 
 
帰り道、清水谷の精錬所跡を見学。ここは大森の町並みと異なって、明治になってからの遺産。佐渡もそうだが、鉱山は特に近世の遺跡と近代の遺跡が混在しているところも多い。その辺りをしっかりと仕分けして説明されていれば分かりやすいのだが、センター内には灰吹き法など江戸時代の説明はよくしてあるが、近代の精錬法などは少ないように感じた。 
 
キャンプ場へ戻る途中、三瓶山麓の埋没林遺跡を見学した。三瓶山の山体崩壊と火砕流とが偶然に作用しあって生じた埋没林とのこと。火砕流で埋まれば燃えてしまうはずだがと不審だったが、その辺りの成因は丁寧に説明されていた。10mを超す巨木が4000年もの間地中に埋もれていたとは思えないほどの肌触りで立っていて、圧巻だった。これもまた、1983年の圃場整備で偶然見つかったのだとか。奇しくも、荒神谷遺跡発見と同じ年。それもまた偶然か。地中には何かが埋まっている。見つけることができるのは正直爺さんだけ。それでも、裏の畑でポチが鳴いてくれなければ分からない。ここ掘れワンワン。
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