北越後関郷 上関城 四百年物語 補足 7
第6章 初代城主は、いつ、どこから?  に関わって


1 三潴左衛門尉の来任時期について


「関川村史」(平成4年発行)には


「横山貞裕によれば、(中略)源平合戦に際し、関西・九州の地へは関東武士の侵攻するところとなり、鎌倉幕府成立の際、文治元(1185)年11月29日、源頼朝は全国の公領荘園を問わず、守護地頭を設置することを願い出た。そして和田義盛がこの三潴荘の地頭職に補任された。その在地荘官として、三潴荘の豪族三潴氏が就任したことは十分に考えられるとしている。」
と、横山先生の見解を紹介し、それをもとに、「村史」(執筆担当・高橋重右エ門先生)の見解として、
「このように三潴氏と和田氏の関係ができたのは、義盛のときであり、義盛の弟宗実が建久3(1192)年10月21日、奥山荘地頭職に補任されたので、三潴氏の来任は偶然のことではないのである。しかしいつここに来任したかは明確ではない。」
と述べて、来任時期について、これ以上の言及はしていません。


「上関城発掘報告書」(昭和44年刊)には
 「上関城発掘報告書」の「五、三潴氏の活動について」に、「村史」に引用された横山貞裕先生の見解が記載されています。
 横山先生は、和田義盛が三潴荘地頭となった際、三潴氏はその在地荘官だったと推測し、筑後の名族三潴氏が和田氏と関係が出来たのは和田義盛の時であると述べています。そして、その義盛の弟和田義茂が、木曽義仲追討の恩賞地として越後国中条の地頭となっていて、文治5(1189)年、義盛が三潴荘地頭を停止された際、三潴氏は、その奥山荘に招致されたと推察されるとしています。

 しかし、横山先生は、また別の頁では次のようにも述べています。
 三潴氏が、和田義茂から続く和田氏のいつの代に上関郷に居住するに至ったかは明らかでないとして、強いて想像すれば、次のいくつかの場合であろうと、3点あげています。
① 義盛が三潴荘地頭に補任されたとき、義盛の弟兼茂(*義茂の誤植か)と三潴氏との間に関係が結ばれた
② 元寇の際に和田氏の九州進駐の際
③ 承久の変の乱に際し、関西の多くの地は幕府によって没収されたが、この時に、一旦は義盛が停止された荘園ではあるが、三潴荘が和田氏領として再び認められたか


「三潴町史別冊」(平成9年発行)には
 同書の三潴氏の記録は、ほとんど「村史」と「発掘報告書」に拠ったものですが、三潴氏来任の経緯について、上で述べた横山先生の①に則り大胆に推測しています。その記述を年次別に整理すると次のようになります。

文治元(1185)年2月 源氏軍九州上陸、和田義盛は大宰府に進駐し平氏掃討
 その際、三潴荘の豪族三潴左衛門尉の存在を知り、幾度か相見えるうちに、希に見る剛直で信頼置くべき人物と映ったこと疑うべきもないと推測

文治2(1186)年10月 和田義盛、侍所別当のまま三潴荘地頭に補任(平家没官領・謀反人領に地頭職配置)
 このとき、義盛は、以前、九州出陣の際信頼関係にあった三潴左衛門尉を在地荘官に任命したものと推測

文治5(1189)年3月 義盛の三潴荘地頭停止

建久3(1192)年10月 和田宗実、奥山荘地頭補任
 三潴左衛門尉は、奥山荘地頭和田宗実に招致され、侍所別当義盛の請で、幕府は、奥山荘桂関の関吏(関口惣取締役)に任命
 こうして、三潴左衛門尉は、筑後国三潴荘を引払い、越後国奥山荘桂関に居館を構えるようになったものと推測
 ここに、三潴氏は筑後国三潴荘に残ったものと、越後国奥山荘に行ったものに別れ、三潴荘の三潴氏は戦国時代までにその姓を絶ち、その存在すら明らかでない


「村勢要覧せきかわ 年表」(平成9年版)には
 この年表には、1185年(文治1)の項に、「この年三潴左衛門尉が桂関(上関)の関史(*吏の誤植か)として赴任した。」と記されています。
 村の歴史年表は、高橋先生の監修なくしては作成できないものでしょうから、先生は、「村史」では史料がなく明示出来なかったものの、三潴氏の赴任時期は文治元(1185)年としていたと思われます。残念なことに、その時期とされた理由は、筆者の寡聞でしょうが明らかではありません。


以上のことから、筆者なりに三潴氏の来任時期を推測すると

 まず、横山先生の②、③の説をとるとすると、それまで関吏を務めていた者と三潴氏との交代の理由が分からなくなります。仮に、三潴氏は和田氏との関係で上関の地にくることになったものとしても、奥山荘地頭は、鎌倉幕府草創以降変わることなく和田氏です。にもかかわらず、その荘内の桂関関吏をなぜ途中で交代しなければならないのか、まして、遠く九州の武士を途中交代で派遣する、あるいは招致する必然性はないように思えます。
 むしろ、鎌倉政権草創の大動乱の時期だからこそ、関吏の交代、しかも遠隔地からの派遣ということが行われたのではないだろうか、このように考えるのが妥当のように思えます。

 そのように考えたとしても、「三潴町史別冊」の記述には大きな疑問がわきます。それを箇条書きであげてみます。

① 三潴氏の関吏来任が建久3(1192)年となると
   文治元(1185)年の越後大政変(城氏一掃)から7年もの空白期間をどう説明するか

② 桂関の所管は越後国衙(主要道路、河川は国衙の所管)、長官は国司越後守
   侍所別当(長官)の和田義盛が、越後北端の一関の主を推薦(口出し)するか

③ 三潴左衛門尉の人物力量を見込んだら、和田義盛は、手元に置き活躍の場を用意するはず
     謀反人・城助職は梶原景時に見込まれ、保護されて御家人となり奥州征伐に従軍している

④ 地頭は徴税と農地開発の私領経営が主任務、貴重な人材を国衙側に渡すか

⑤ 筑後の名族、三潴氏の一部が分離して北越後の関吏に来る理由をどう説明するか
     むしろ、一族挙げて三潴荘の確保拡大に努めるべきはず


 文治元年のころは、越後国にとって大変革の年でした。

 治承4年(西暦1180年)の頼朝挙兵以来、平氏は負い込まれ、翌治承5年(1181年)には平氏方の越後守城助職(じょう・すけもと、後に長茂)が、信濃で木曽義仲に大敗して越後国の支配権は義仲に移ります。その義仲は京に乱入して人心を失い、寿永3年(1184年)1月には頼朝軍に討伐され討死します。
 この間、越後国はじめ東国各国は支配者空白となり、頼朝は、寿永2(1183)朝廷から有名な「十月宣旨」を許可され、それにより、東海・東山・北陸三道の国衙在庁官人の指揮権を獲得します。そして、翌寿永3年、義仲討伐の後直ちに北陸道勧農使を派遣します。名目上は荒れた農地を復興させ税収を回復させることで朝廷の許可を受けていますが、実質は、国衙指揮権に裏付けられた強力な軍事力をもって、平氏方・義仲方の所領を没収することが目的でした。
 このときに、和田義盛の弟義茂が、義仲追討の恩賞として奥山荘地頭に補任されたといわれています。
 和田氏の奥山荘地頭職は、建久3年の宗実補任が史料として残っていて確実ですが、それ以前の義茂補任は後代の土地争い訴訟で根拠に出された史料に残っているのみで疑問視する向きもあります。県版「県史」も斎藤「県史」も、ある箇所では疑問視し、ある箇所では妥当視するなど、評価が定まっていないようです。
 ただ、「黒川村史」も「中条町史」も、奥山荘地頭和田氏の始りは和田義茂においています。
 また、宗実は、義茂の子重茂に自分の娘津村尼を娶わせ、地頭職をその重茂に譲っているところをみると、義茂から宗実、宗実からまた義茂の子へと地頭職を戻したとも考えられ、奥山荘地頭の始まりを義茂とするのは妥当のようにも思えます。

 この頃、奥山荘だけでなく、小泉荘の秩父氏(本庄氏や色部氏の祖)、荒河保の河村氏はじめ、越後国内の荘園には、続々と関東武士が地頭として補任され、その代官たちが赴任してきます。そして、その翌年文治元年には、越後国は頼朝の知行国となり、鎌倉幕府直轄の東国に位置づけられ、安田義資が国司として国衙を支配・指揮します。このようにして、越後の旧勢力は一掃されます。
 県版「県史」は、「平安後期以来この国(*越後国のこと)に成長を遂げた武士が本領安堵の地頭職に補任された明証は、見出すことができない。多くの武士団が滅び空白地帯に支配者が入れ替った被征服地である」と当時の越後国の状況を説明しています。

 このような時でしたから、桂関の関吏も代わって当然、むしろ、代わらなければならなかったと見なければならないと思います。
 この物語では、そのように考えて、三潴氏の来任を文治元年としました。

 ただ、この時に、なぜ、九州の名族三潴氏が、上関の地に赴任することになったのか、このことについは、状況証拠を集めて妥当性のある推論を組み立てなければなりません。それを、このあと、6章の(2)、(3)で述べてみたいと思います。