北越後関郷 上関城 四百年物語 補足 8
第6章(2) なぜ九州から? 三潴左衛門尉のなぞ 及び
(3) 九州の源平争乱 に関わって
1 三潴左衛門尉の来任の背景・事情について
補足7で取り上げた「村史」をはじめ各図書・資料では、左衛門尉は、和田義盛との関係で来任することになったのだろうと推測しています。それは、三潴荘の豪族左衛門尉を九州と北越後で結ぶ線は、三潴荘地頭に補任された義盛と奥山荘地頭に補任されたその弟義茂又は宗実の線しか浮上しないからだったと思われます。
しかし、この説には、補足7で述べたように疑問がつきまといます。
一番の疑問は、三潴荘の名族といわれた豪族であるならば、九州の源平争乱で幕府方についていれば、必ず三潴荘を本領安堵され、在地の地頭に補任されているはずだということです。そうでなかったということは、平氏方についたと考えるほうが自然ではないでしょうか。
物語にもふれたように、三潴荘の預所は四条隆季で、この人は、平氏政権の中枢にいた人です。三潴氏がその荘官を務めていたとすれば、当然忠を全うしたとみべきではないでしょうか。
物語は、この立場で綴ってあります。
2 中世の武士について
九州と北越後を結ぶ線を和田義盛一本に求める必要もないように思います。
この物語を綴るにあたって参考にしている図書に吉川弘文館発行「日本中世の歴史」全7巻(平成21~22年)がありますが、同書は、最新の中世史研究成果をもとに著述されており、筆者などが教科書で習い覚えてきた中世史の見方・考え方をずいぶん転換させてくれます。
この物語では全編を通して、同書を引き合いにさせてもらっています。九州での源平合戦の経緯についても、ほとんど同書から引いています。
とりわけ、この当時の武士のありようについて、同書から全く新しい視点を与えてもらいました。
武士は、在地の開発領主が自らの土地を守るために武装したことから発生したものという従来の考え方は間違っていると同書はいいます。武士は、元来が軍事を専門とする貴族で、京にいて地方の領地と頻繁に行き来する武士も多く、武士同士の交流も活発であったことを同書から学びました。
左衛門尉も、様々な武士と交流があったと考えられます。左衛門尉という官名も、この時代より後の世になれば、守護が家臣に与えて名乗らせていく時代になりますが、この時代はまだ朝廷からの正式な官職と考えられ、左衛門府の侍として京にいることも多かったと思われます。
このように考えれば、何も、和田義盛とのつながりだけで考える必要はないのではないかということになります。ただ、物語の中で、安田義資と交流があったとしたのは、まったくの想像です。しかし、ありえないことではないとも思っています。
なお、付け足せば、守護・地頭の設置権限について、文治元(1185)年の「文治勅許」によって頼朝に与えられたとする説も、実際にはそれ以前から存在しており、誤りだと同書は指摘しています。
補足7で述べたように、文治元年以前に、奥山荘地頭に和田義茂が補任されていたとしても、おかしくはないということになります。
3 高三潴の三潴氏について
その存在については、「三潴町史別冊」で知りました。
同書の説は、補説7で紹介したように、和田義盛が三潴左衛門尉を見込み、自らが三潴荘地頭になったとき、左衛門尉を荘官に任じたが、地頭職を停止された際、三潴氏の一部は高三潴に残り、一部が関郷に分かれたとしています。そして、高三潴の三潴氏はその後も三潴荘に残り、高三潴氏とも呼ばれたとして、戦国時代までにはその名は当地から消えたとしています。
この説によれば、三潴氏本流が三潴荘に残り、支流が義盛に請われて北越後へ赴いたとも考えられなくもありません。しかし、その説をとるとしても、北越後まで遥々やってくる必然性に説得力がないことは否めません。そもそも、本家が三潴荘にあって三潴氏を名乗る場合、別な土地を領してそこに居住した分家は、新しい土地の名を名字にするのが普通ですが、あくまでも「三潴の何某」と名乗り通したことを思うと、やはり、残ったのは分家の高三潴氏で、左衛門尉は父祖の地を名字にし通したと考えたいところです。
もちろん、九州の源平争乱で三潴氏が平氏方についた敗軍の流れというのは、あくまでも一つの可能性としての推測ですが、いまのところ、より妥当性や可能性は高いように思っています。ただし、父が断罪されたというのは全くの想像です。
それにしても、初代上関城主三潴左衛門尉は、なぞの人物です。おそらく永遠になぞの人物でしょう。それだけに、当時の時代状況から妥当性の高い仮説づくりに挑戦させられる、不思議な存在でもあるのです。
