北越後関郷 上関城 四百年物語 補足 9
第7章 守護被官時代の三潴氏   に関わって


1 南北朝の動乱について


 この動乱は、元弘の乱(元弘の変とも)から始ります。吉川弘文館「日本中世史」と県版「県史」から、当時の動きを簡単に整理してみます。

 元弘元(1331)年5月、後醍醐天皇は、倒幕計画が発覚してしまい内裏を脱出し笠置山で挙兵したものの、幕府軍に包囲され陥落、捕らえられて翌元弘2(1332)年隠岐へ配流となってしまいます。しかし、楠正成や後醍醐天皇の皇子たち反幕府勢力が各地で挙兵し、幕府は、これらを討伐するため、関東から足利高氏(後に尊氏)らを派遣します。
 元弘3(1333)年閏2月、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、倒幕の綸旨を各地に発します。4月、足利高氏は丹波篠村で反北条を宣言し、5月京に乱入、幕府拠点の六波羅探題を攻撃します。同じ5月、新田義貞は鎌倉に突入し、これにより北条氏は全滅、鎌倉幕府は滅亡してしまいます。6月には後醍醐天皇が京に帰還し、「建武の新政」が始まったのです。

 新田義貞は、上野国新田荘の豪族ですが、その一族は越後国にも大きく勢力を張っていました。この関係もあって、元弘3(1333)年8月、新田義貞は越後守護となります。義貞は、国司守護兼帯、つまり越後守と越後守護の両方を兼ねます。これ以来、守護は、国司の権限と軍事・警察の権限を両方備えた強力な権力を持つことになります。
 建武2(1335)年11月になると、足利尊氏が鎌倉で後醍醐天皇に叛旗をひるがえします。後醍醐天皇は、直ちに新田義貞を尊氏討伐に向かわせますが、12月駿河の戦いで義貞は敗れてしまいます。
 翌建武3(1336)年、尊氏は、信濃の足利方に越後府中を襲撃させ、義貞の代官を追払います。義貞は、わずか3年で越後の支配力を失ってしまいます。

 尊氏は、翌延元元(1336)年1月京へ攻入りますが、一旦九州に逃れ、4月再度京へ攻め上り、5月後醍醐方の楠正成を敗死させ、義貞を敗走させます。京を占拠した尊氏は、新たに光明天皇を立て、後醍醐は引退します。ところが、12月後醍醐は京を脱走して吉野で南朝を立て、尊氏方の北朝と対立します。各地の武士は北朝方、南朝方に分かれて争い、越後でも以後30年間、合戦が止むことなく続けられることになります。
 
 新田義貞は、越前に逃れて勢いを盛り返していましたが、暦応元(1338)年、戦いの最中に敵の矢に当って戦死してしまいます。後醍醐天皇も翌年吉野で病死してしまいました。しかし、南北朝の争乱は止まりません。
 越後では、義貞の子義宗とそのいとこ脇屋義治を主将に新田一族が足利方と戦っていましたが、その勢いは増大しつつありました。
 この事態を重く見た尊氏は、暦応4(1341)年、鎌倉にいた尊氏の幼い長男義詮の補佐役だった上杉憲顕に、越後に討ち入って南朝方を討伐するよう命じます。上杉憲顕は、早速越後府中に入り、またたくまに南朝方の諸城を落とし、越後一国を平定します。
 上杉憲顕は、この後3年越後に留まり、越後守護として支配権を確立します。守護職の権力基盤は国衙領にあります。憲顕の時から、国衙領は越後守護上杉氏の直領となったのです。

 以上のような流れの中で、国衙領である荒川の流れ、及び国衙の出先機関である桂関は、守護が直接掌握する所となったのであり、そこの守将である三潴氏は、当然、守護の被官となったものと考えられます。


2 康永3(1344)年の三潴氏初出文書について

 上関城主三潴氏が史料に初めて登場するこの文書については、県版「県史資料編」にも掲載されています。

資料№1255 「室町幕府引付頭人石橋和義奉書」
 (張紙)「六、管領斯波貞将施行状」
 「 尼玄法申、越後国〔 不明 〕沢三ヶ村事、重訴状〔 不明 〕代長尾左衛門尉(添書「景忠」)押領〔 不明 〕三〔不明〕左衛門大夫相共莅彼所、〔 不明 〕玄法之由、先日雖仰遣、〔不明〕(添書「不」)事行云々、招其咎歟、急速遂遵〔不明〕可被(添書「行」)、申左右之状、依仰施達如件、 康永三年閏二月四日  左衛門佐(添書「石橋和義」)(花押) 平賀左衛門蔵人殿 」

 その内容について「上関城発掘報告書」で横山氏は、次のように述べています。
 「三潴左衛門大夫なるものが、和田茂長女子玄法と三浦下野守道祐との土地争の証人として取調べるよう命ぜられたのである。」
 しかし、史料の文面には、どこにも三浦下野守道祐の名は出ていません。不思議です。

 これについては、横山氏は次のように説明しています。
① 「建武元年9月29日付の雑訴決断所の牒を以て、越後奥山庄内の鍬柄、塩谷、塩沢の三箇村をば、和田左衛門四郎茂長の女子平玄法に対し、知行相違あるべからずという牒が下された。」
② 「これに対し足利尊氏は、康永2年12月26日の下文を以て三浦下野守法師法名道祐に対し、越後国奥山庄関郷、鍬江村、堰沢条、金山郷を勲功のため宛行をなし、重ねて武蔵守は上杉民部大輔にあてて、三浦下野入道道祐の代官に沙汰すべき執達状を出したことにより、同族の和田氏の中に、土地争に端を発し、和田茂長の女子玄法が室町幕府に訴出た。」
 横山氏は、①②を受けての康永3年閏2月4日の文書であり、これによって玄法と三浦下野守との土地争いであるとしています。 「村史」も、この横山氏の説をそのまま引いています。

 ところが、県版「県史」では、資料№1255の康永3年のこの文書の意味について次のように記しています。
 「長尾景忠は、黒川茂長女子尼玄法の所領の奥山荘内三か村に侵入してこれを押領し、康永3年に幕府から咎められ(1255号)」
 斎藤秀平氏もその著「県史」で、「閏2月4日 足利尊氏は、黒川茂長の女である尼玄法の訴によって、守護代長尾景忠が塩沢(黒川村大字塩沢)等三カ村の地頭職を押妨するを止め、平賀左衛門蔵人(実名欠く)等に命じ、之を玄法に交付せしめた。」と記しています。
 両「県史」によれば、茂長女子玄法が争った相手は、三浦下野守ではなく、守護代の長尾景忠だったことになります。

 どちらにしても、三潴左衛門大夫が、「相共に彼所に臨み」と書かれていることから、証人として実地検証するように言われていることには変りないわけで、当時の三潴氏の役割を示す貴重な史料であることは間違いありません。

 元弘3(1333)年、鎌倉幕府が滅亡し後醍醐天皇が建武の新政を敷いたとき、幕府方だった武士の所領は没収されました。源平の合戦で敗者平氏方の所領が没収され、源氏方の武士に与えられたように、後醍醐側の武士に入替わったのです。越後では、その後、新田氏から足利方上杉氏へと権力が移動します。
 その間の混乱は、頻発する土地争いを生んだのでした。一所懸命の武士たちは、所領を増やすため、あるいは失った所領を回復するため、少しでも有利な方へと必死の動きでした。
 尊氏が多くの武士から支持されて政権を握ることが出来たのは、武士たちの一所懸命をより公平に保障してくれるからです。康永3年といえば、越後守護上杉氏と守護代長尾氏が越後に入部して、まだ3年しか経ってないときです。ここで、守護代長尾景忠の押領を許しては、越後各武士の反発を招きかねないとの尊氏の判断があったのではないでしょうか。


鍬柄村と鍬江村
 それでは、尊氏が三浦下野守に関郷、鍬江村、堰沢条、金山郷の所領を認めたことは、どうなるのでしょうか。
 県版「県史」によって、そのあたりの事情を探ってみたいと思います。

 元弘の乱では、中条茂継は鎌倉幕府の側で動きます。これに対し、黒川茂実は後醍醐天皇側につきました。中条家と黒川家は、奥山荘地頭和田時茂が建治3(1277)年に荘を三分して孫たちに譲渡したことから始った家ですが、鎌倉末期以来両家の所領争いが起こっていました。その争いが、元弘の乱で一層拡大します。

 元弘3(1333)年、もともと中条家の領地であった金山郷を、黒川茂実が、鎌倉幕府方の土地を没収する動きに乗じて、自分のものにしようとします。これに対して、中条近隣に住む三浦和田氏一族の庶家が猛烈に抵抗して擾乱状態となりました。黒川茂実の強大化をきらったことが理由と考えられています。
 康永元(1342)年には、黒川茂実は、和田茂長女子尼玄法から、奥山荘鍬柄・塩谷・塩沢三ヶ村地頭職を「非分押領」していると訴えられています。
 茂実は、茂長の孫で玄法は叔母に当ります。「県史」は黒川氏の強引な所領集積と見ています。

 このような動きの中で、康永2(1343)年の三浦下野守道祐への尊氏の文書が出されます。
 金山郷については、貞和2(1346)年の室町幕府下知状に、金山郷は、三浦貞宗入道道祐の代官頼円と武蔵金沢称名寺雑掌持円との相論の係争地として現れてくると「県史」にありますから、康永2年には三浦下野守に認められたものと思われます。ただしこの土地は、康永3年の玄法の争いとは関係がありません。
 堰沢条は、その後どうなったかよくわかりませんが、これも玄法とは関係がありません。
 関郷は、その後、貞治2(1363)年、黒川茂実の子時実が証文をたてにとって押し入り、関胤清が実力で阻止するという事件が起きていますが、ここも玄法には無関係です。

 ところで、この黒川時実は、三浦和田下野四郎時実と文書に表されていますから、三浦下野守はこの時実かもしれません。また、「発掘報告書」に横山氏が載せた資料には、享徳3(1454)年付ですから氏実の代ですが、黒川下野殿宛ての文書もあります。ただ、1380年ごろとされる本庄輔長からの文書には黒川駿河宛のもありますが、これは時実かその後の代でしょうか。
 康永2年と貞和2年の三浦下野守、入道名道祐はいったい誰なのか、実のところよく分かりません。

 それはそれとして、問題は、鍬柄村です。県版「県史資料編」には、玄法が所領として訴えている康永元(1342)年の文書では、「鍬柄村」と書かれています。しかし、尊氏が三浦下野守に認めた康永2(1343)年の文書では「鍬江村」となっています。横山氏も書き分けています。この二つの村が同じ村であれば、玄法と三浦下野守が争うこともありえますが、もし、異なる村であれば、両者の争いは成り立たないことになります。現在でも、関川村「鍬江沢」と旧黒川村「鍬江」が別にあるくらいですから。
 
 ま、遥か昔のこと。細かくほじくれば、いくらでもミステリーは出てくるということでしょう。


3 享徳3(1454)年の三潴氏に関わる文書について

 黒川氏実の所領回復運動に関わって、三潴氏が登場するこの年の文書は都合6通あります。

① 飯沼頼景宛 5月20日付 正教保運
② 黒川氏実宛 10月2日付 飯沼頼泰
③ 黒川氏実宛 10月2日付 平子政重
④ 黒川氏実宛 10月2日付 平子政重
⑤ 三潴弾正宛 10月9日付 三潴道珍
⑥ 黒川氏実宛 10月9日付 三潴道珍

 正教保運は幕府の役人、飯沼頼景・頼泰、平子政重は越後守護の役人。黒川氏実による根岸の地回復運動に、幕府―守護―三潴と許可が下りてくる過程が分かる貴重な史料です。

 この一連文書について、横山氏は黒川氏実の失地回復運動として見ていますが、斎藤秀平氏は、氏実は外様にもかかわらず上杉家臣らと結託して主家相伝の地を自分のものにしようとしていると見ていて、家臣たちの腐敗にまで言及する辛らつさです。斎藤氏は、黒川氏の度重なる土地争いや訴訟には、かなり批判的な目を向けていて、そのような評価になったものと思われます。
 ただ、氏実の幼少からの苦労を思えば、少々辛らつすぎるような気もしますし、また、玄法の訴訟にも出ているように、所領を子や孫に分割して譲渡し、一代限りとはいえ女子にまで細分する当時の武士の相続の仕方では、同族内での土地争いが絶えず、弱体化は進む一方でしたから、茂実や時実、それに氏実の行動は、土地を惣領家の下へ集約しようとする時代の動きの一つだったと見ることもできるように思われます。

 それとは別に、筆者などは、北越後の出先機関の長である三潴氏と越後府中の守護家臣たちとの連携が実に巧くいっていることの方に、興味があります。幕府-守護-出先の間の官僚機構がスムースに働いていたことを表しているのではないでしょうか。ここにも、武士たちのネットワークの存在を感じています。

 また、南北朝動乱のころから山城が設営されていくといわれています。関郷に今も残る多くの山城もこのに頃作られたのでしょう。そして、争いが続いた応永の大乱を期に一層堅固なものになったのではないでしょうか。それに連動して、桂関も上関城として整えられていったのではないかと思っています。

<これまでの誤り>
 ところで、③④の平子政重の書状の読み取りについて、最近(平成27年)になって新たに判明したことがあります。二通の書状の関係箇所を極簡略にすると、
③に「三潴道珍が言うには伊賀は脚気だし、そのほか事情で出て行けない、所帯は孫二郎に渡すのでその初仕事にしたい」
④に「根岸のことは三潴によく言っておいた、伊賀方所帯を愚息孫二郎に渡す」
と書いてあって、従来次のように読まれてきました。
斎藤秀平氏・・・孫二郎は、文書⑤⑥の三潴弾正と同一人物
横山貞裕氏・・・三潴伊賀守が父、出雲守道珍はその子で兄、孫二郎はその弟で孫二郎弾正
このように、両氏とも孫二郎を三潴氏の人物としてきました。
 しかし、両氏の後に発行された「新潟県史資料編4」では、孫二郎の箇所に注記が添えられ、孫二郎は平子朝政のことだとされています。平子政重が孫二郎を愚息と言っていることからも、自分の子のことを言っていると読み取れます。
 ところが、「関川村史」は、「新潟県史資料編4」に基づきながら三潴孫二郎朝政だとしてしまっています。
 この混乱を整理すると次のようになります。
① 斎藤・横山両氏は、書状に出てくる人物・孫二郎を三潴氏の人・三潴孫二郎弾正としてきた
② その後の県史編纂の段階で、孫二郎は平子氏の人・平子朝政のこととされた
③ 更にその後の村史編纂の段階で、①と②が混合されて、三潴孫二郎朝政とされた

 筆者が村史の誤りに気づいたのは最近で、奥山庄郷土研究会の高橋範行氏からのご指摘によります。その経緯については、別添の資料をご覧ください。
 「上関城四百年物語」では、これまで三潴出雲守道珍の次の代をを三潴弾正孫二郎朝政としてきましたが、上記のことから三潴弾正と訂正します。

 別添資料は、→こちら (「歴史探求・上関城主三潴氏の謎を追って」)
 なお、この資料には、孫二郎朝政の問題とは別に、これまで物語に登場しなかった三潴飛騨守についても取り上げています。そのことについては、少し後代のことになるので、別に項を設けて取り上げることにします。