北越後関郷 上関城 四百年物語
 城主は三潴氏、鎌倉時代から戦国時代の終わりまで400年の物語      筆・綿野舞watanobu
 
7 守護被官時代の三潴氏

(5) 越後の戦国時代・永正の乱

 明応(めいおう)3年(1494年)、それまで46年間も守護として越後国を治めてきた上杉房定(うえすぎ・ふささだ)が死に、子の房能(ふさよし)が後を継ぎます。新守護の房能は何かと越後国内の武将たちを圧迫しますが、守護代の長尾能景(ながお・よしかげ)が何とか武将たちの反発を収めていました。
 その能景も永正3年(1506年)越中国(えっちゅうのくに・富山県)で戦いの最中に戦死してしまいます。後を継いだのが子の為景(ためかげ)です。

 新たに守護代になった長尾為景(ながお・ためかげ)は、守護上杉房能のやり方に反発しました。一触即発の空気の中、永正(えいしょう)4年(1507年)為景は先手を打って房能を急襲します。合戦に敗れた房能は関東へ逃れようとして、途中の山中で追手に包囲され、家臣共々切腹して果ててしまいました。
 為景は、房能の養子だった定実(さだざね)を新たな越後守護に担ぎます。

 それにしても、家臣が主人を討ったのですから、下克上そのものです。為景のやり方を是としない本庄氏や色部氏は反為景の兵を挙げますが、為景側についた中条氏などに鎮圧されてしまいます。

 そうこうするうちに、永正6年(1509年)、関東管領の上杉顕定(うえすぎ・あきさだ)が、為景を討伐するために越後に攻入ります。顕定は、討たれた房能の兄で関東管領家へ養子に入った人ですから、弟の復讐戦に出たわけです。一旦国外に逃れた為景定実は、翌永正7年(1510年)、反撃に出ます。為景定実は、中条氏や黒川氏などに応援を求めました。また、米沢の伊達氏にも協力を要請します。
 この関係が、後に、伊達氏から定実の養子を入れようとする動きにつながってきます。当時の武将たちが協力関係を結ぶには、婚姻関係を結ぶことが確かな方法の一つでした。定実が養子に貰おうとした伊達実元(だて・さねもと)が、定実の曾孫であり、中条藤資(なかしょう・ふじすけ)の孫であったのは、伊達氏との間に婚姻関係が結ばれていたからこそのことです。

 さて、為景定実の反撃は功を奏し、この年永正7年6月、関東管領上杉顕定は関東へ向けて逃走の途中、為景側の追撃を受け、戦死してしまいます。

 越後守護上杉定実は、越後国上条(柏崎市)に地盤をもっていた上条家から守護家に養子に入った人で、上杉氏の一族ではありますが、古くから越後に根を生やした家の出身です。
 ですから、この永正の乱によって、関東上杉氏の勢力は、越後から一掃されてしまったことになります。
 守護代長尾為景の力はいっそう強くなりました。しかし、そのことを快く思わない武将たちもたくさんいましたし、守護定実も、時には為景に反発して、それらの武将たちと談合することもありました。
 このような状態で、越後国はあちこちで戦いが起き、戦国時代に突入したのです。

 これよりずっと後の話になりますが、上杉謙信(うえすぎ・けんしん)が家臣に語った思い出話に、謙信の父・守護代長尾為景が死去した際には、甲冑を身に着けて戦支度で葬儀に臨んだものだと話したということです。それほど、越後国は不穏な状況であって、いっときも気を休めてはいられない時代だったということでしょう。


 
(6) 伊達養子騒動

 天文7年(1538年)、北越後で騒動が発生します。
 守護代長尾為景の死後のことで、後継守護代は、為景の子で謙信の兄、晴景(はるかげ)の時代です。越後は戦国時代のただ中でした。

 越後守護は上杉定実(うえすぎ・さだざね)でした。定実は、跡継ぎがないため出羽国(でわのくに)米沢の伊達稙宗(だて・たねむね)の二男実元(さねもと)を養子に迎えることにしたのです。
 伊達実元は、守護定実の曾孫(定実の娘の孫)に当るとともに、中条藤資(なかじょう・ふじすけ)にとっても孫に当る人でしたので、藤資はこの養子縁組を積極的に推進します。しかし、養子縁組が成立してしまうと中条氏が強大になることを嫌ったのでしょう、本庄氏や色部氏をはじめ阿賀北の武将は強く反対しました。それで、翌天文8年(1539年)、藤資は、伊達の援軍を得て本庄城を攻め、本庄房長(ほんじょう・ふさなが)を没落させてしまいます。

 天文9年(1540年)5月、伊達稙宗は、実元を越後に派遣しようとして、下関城主・下伊賀守重実(しも・いがのかみ・しげざね)に途中の警固を要請しています。このときの三潴氏の動きについては、何も記録は残っていません。しかし、米沢と越後の間の重要な問題ですし、三潴氏は、その境界に位置する上関城の城主ですから、当然、伊達側からも越後守護側からも、何らかの要請なり指示なりがあったことは間違いないでしょう。

 そして6月、伊達稙宗色部氏討伐のため自ら軍を率いて米沢を出陣しようとしました。ところが、稙宗の長男晴宗(はるむね)が父に叛旗をひるがえし、伊達氏はお家騒動となってしまったのです。
 これで、養子問題は吹き飛んでしまいました。中条藤資の立場は全く苦しいものとなり、阿賀北の武将は一致して中条氏の城を包囲攻撃しました。伊達晴宗は、中条攻撃側と連携をとって養子縁組をつぶそうとしています。

 この騒動の後、定実は気落ちしたのでしょう、引退を表明します。その後、中条氏は反対派と和議を結び、この騒動は終ったようです。


 ところで、この騒動の最中、伊達稙宗が下関城主・氏に途中警固を要請したことは、どのような意味があるのでしょうか。

 少し時代は戻りますが、応永30年(1423年)の応永の越後大乱で、守護側と守護代側が争ったときのことです。この乱では、黒川氏は守護代側について一時没落しますが、その後最終的には守護代側が勝利し、黒川氏実(くろかわ・うじざね)は守護代側の援助で復活しました。その乱で、関下氏は、中条氏とともに守護側についたのですが、黒川氏実の復活の際、関下氏は没落し、下関の領地は黒川氏のものになってしまいます。
 その後、文明12年(1480年)には、関下実儀(せきしも・さねのり)という人物が黒川氏の家臣となっていますので、元々は黒川氏の親戚で同格だった関下氏は、氏実の時代以降、黒川氏の家臣扱いになっていたのです。
 伊達養子騒動では、黒川氏は反対派でしたから、その家臣の関下氏に伊達稙宗が警固を要請するのはおかしな話です。この頃には、下関城主・下伊賀守重実という人は守護の被官になっていて、黒川氏の家臣ではなかったので、伊達稙宗から要請を受けたのだと見られています。
 この当時、元々同格であった家が家臣扱いにされるのを嫌い、主家から独立して勢力を保つために、守護の被官になる家はたくさんありました。黒川氏と下氏の関係もそうだったのではないかと考えられます。
 もちろん、そのような在地勢力の守護被官化と三潴氏が守護被官になった経緯とは全く異なるものであることは、これまでの話で分かってもらえると思います。

 さて、三潴氏にしろ氏にしろ、守護の被官だからといって、伊達稙宗の要請を諾々と受けるわけにはいかなかったと思います。守護の定実には力がなく、実権は守護代長尾氏が握っていて、守護の養子縁組には表立って反対はできないものの、消極的だったと思われるからです。しかも、阿賀北の武将たちは、中条氏以外みな反対派です。守護被官としては、表立って反対の行動をとるわけにはいかないでしょうが、慎重な判断と行動が必要だったことと思います。このような状況の中で、伊達稙宗からの要請を受けたという事実が伝わっていくということは、決して良い結果は生まないのではないでしょうか。

 この後、天文18年(1549年)、長尾景虎(ながお・かげとら、後の謙信けんしん)が兄晴景(はるかげ)の後を継いで守護代となった後、三潴氏が謙信に信頼されたのは、このときの慎重適切な行動が背景にあったように思われてなりません。それに反して、下伊賀守重実は天文21年(1552年)謙信の命で切腹という悲惨な結果になっています。伊達養子騒動の対応が伏線になっていたと想像するのはうがちすぎでしょうか。

 それはそうとして、伊達養子騒動のそもそもの要因は、越後守護上杉氏が力を失ってしまい、守護代長尾氏が実権を握ったことにあります。
 守護と守護代が争い、各地の武将同士が戦う時代、守護被官として府中に勤め、また上関城主として国境を守る三潴氏にとっても、なんとも悩ましい時代だったと思います。永正の乱の時代の三潴氏の記録は何も残っていませんが、おそらく、守護と守護代の争いなどには引き込まれることのないよう細心の注意を払いながら、上関城主としての務めを粛々と果たしていたことだろうと思われます。そして、一刻も早く、越後に強力な主人が誕生し国内を安定させてくれることを願っていたことでしょう。

 その願いは、やがて、上杉謙信(このときは、長尾景虎ながお・かげとら)が兄晴景の後を受けて守護代となり、さらには越後国主としてその力を朝廷からも幕府からも認められることによって達成されていきます。越後国は、謙信の下で統一されたのです。
 三潴氏は、国主謙信の忠実な家臣として活躍できる時代がやってきたのです。

 「上関城四百年物語」は、ようやく、物語のはじめに紹介した三潴掃部介利宣(みつま・かもんのすけ・としのぶ)や出羽守政長(でわのかみ・まさなが)の時代まで戻ってきたことになります。


 このあと、物語は、いっきに謙信の時代を通り越して、戦国時代の終わりへと進むことになります。三潴氏にとっては、掃部介出羽守の栄光の後の悲話が待っていることになります。







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