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平田甲太郎家文書<享保年間 平太郎の新田開発 関係文書 五通>
① 享保12(1727)年 平太郎から御役所宛 願書 平田家文書№614
② 享保13(1728)年 三ヶ村百姓38名から平太郎宛 證文 平田家文書№502
③ 享保13(1728)年 三ヶ村三役から平太郎宛 證文書 平田家文書№557
④ 享保13(1728)年 三ヶ村三役から御役所宛 願書 平田家文書№526 
⑤ 享保17(1732)年 上野山村田主から平太郎宛 證文 平田家文書№532
 小見村の平太郎は、この当時、小見組の大庄屋です。小見組は、荒川右岸から女川流域一帯の地域(旧女川村域)。5通の文書は、平太郎が小見村・上野山村・滝原村の入会地(共同利用地)であった上野中野の野地を新田に開発した際の関係文書です。
 この三ヶ村は荒川右岸段丘上の高台に位置し、水の便の難しい土地です。平太郎は、北方の山地から流れる沢水を用水路に引いて新田を開発しようとしています。この4通の文書から、当時の新田開発の実際を知ることができます。
 平太郎の遠い祖先は会津芦名氏の家臣で、その後、会津を領した上杉景勝に仕えますが、会津において、配下の武士団を指揮して領地の開発に努めた典型的な中世地方武士です。ここに登場する平太郎の三代前の先祖は、米沢の上杉家を離れ、百姓身分となって小見村に土着しました。以来、代々、小見をはじめ周囲の村々の荒野を新田に開発しています。おそらく、ここに掲げる文書に書かれているようなやり方で新田開発をコツコツと続けてきたのでしょう。 平太郎には、開発領主の血脈としての強いリーダー性がうかがえます。
 大規模な干拓開田などは別にして、村々においては、この文書のようにして荒野を耕地に拡大していったものと思われます。役所との関係、村人との関係など細々としたことが分かって面白い文書です。

①の文書について
 三ヶ村入会地の上野中野に、沢から用水を引いて新田を開発したいとの願書。内容は概要次の通りです。なお、宛先の御役所は、この当時、現関川村一帯は館林藩の領地で、海老江に置かれた代官所になります。
・引ノ沢の大沢まで遡って、そこから取水すれば、一番高い上野まで水を引くことができる。
・そのため、大沢に堰を作り、そこから上野まで長さ545間(約1㎞)の用水路を掘る(内、122間は岩場で423間は土)。工事費用は自分が負担する。
・引ノ沢は三ヶ村の用水になっていて、長日照りで水不足になるので、溜池を作る。
・工事人足の報酬は自分が米を出して、受取を貰う。
・溜池にする場所には、上野山村の田があるので、自分の田と交換する。
・そこの年貢米は、新田ができるまでは自分が負担する。
・新田ができたら、溜池分の替地をいただきたい。
・新田開発について、御上の費用持出は一切ない。三ヶ村にも費用負担はさせない。
・新田開発が成ったら、先例の通り、三年間の年貢免除をお願いしたい。
・それだけでなく、自分負担の用水で開田するのだから、年貢十分の一は永代免除お願いしたい。
・新田の場所は三ヶ村の入会地で、他村の支障は全くない。
・三ヶ村からも、この新田開発については一札差出させる。
<裏書>
 代官所の役人三名による裏書。平太郎の願い通り、三年全額免除、十分の一永代免除が保証されています。

②の文書について
 平太郎が引いた用水路の水を使って新田を開発することになった三ヶ村の百姓38名から、平太郎にあてた念書。内容の概略は次のようです。農村は運命共同体、一人一人が自分勝手にしないことが宿命。細かいことまで平太郎が指示を出し、それに了解した旨書き込んであります。
・ 一人一人が用水に水口を作らず、順々に、水が田にかかるようにすること
・ 水口の田だけが水取りの負担をするのでなく、全員で負担すること
・ 全員一人一夜ずつ、毎日交代で必ず水見をすること
・ 昼夜に限らず雨が降って水が出たなら、堰を外して用水路に被害が出ないようにすること
・ もしそれが夜中だったら、翌日の番の者と二人で堰を外すこと(安全対策か)
・ 全ての新田の水を大事にして見回ること(自分の田だけを見るのでなくの意)
・ 少しのことは当番の者でやるが、当番だけでは難しい場所があったら、すぐに注進すること
・ 人足は、田作百姓一人ずつ順番、庄屋等が帳面につけて不公平にならないようにすること
・ 万一当番なのに動かないで不始末をするようなら、新田は取り上げること
・ 以上を三ヶ村中で申し合せ連判したので、取上げられても文句は言わないこと

③の文書について
 三ヶ村の村役人連名による、平太郎への證文です。平太郎が自費で新田開発したので、開発田のうち4町5反歩は自分持ちにしたいと三ヶ村に言い、それを了解したことが書いてあります。「どうぞ、その旨を平太郎から代官所へ願出てください、私たちに異存支障はありません」とありますが、④の文書では、結局、村役人連名で代官所へ願い出ています。平太郎が自分で願出るよりも村役人連名で願出た方が、形としてはいいのかもしれません。もしかしたら、事前に代官所とすり合わせて、そのようにしたのかもしれません。

④の文書について
 三ヶ村の村役人連名による、代官所への願書です。平太郎が用水路を作り新田開発したことは、御上様の為になり、自分たちの助けにもなるとした上で、「この工事で、平太郎は多額の自費を持ち出しているので、開発した田の内、4町5反歩を平太郎の持分にしていただきたい」と、願出ています。③の文書の項で述べたように、当然、平太郎と打ち合わせたうえでの願出でしょう。平太郎が自分から願出るのは憚られたのだと思います。裏書に、代官所の役人から、願いの通りにすると保証が出ています。
 時代は少し飛びますが、文化3(1806)年の「田麦堀割訴訟」の際、平太郎家の石高(米の生産量)は140石で、同居家人28人とあります。訴訟に同行した各村庄屋の石高はせいぜい2桁台で、家人も10人内外。平太郎家のは、並外れています。
 この文書のようにして、平太郎家は、代々新田を開発し、田を集積してきたのでしょう。そのための労働力も家内に抱えていたことになります。

⑤の文書について
 平太郎が開田の際、用水不足解消のため「はんのきやち」に溜池を作った。そこは元々田で、その持ち主の二人と平太郎とで取交した「替地を受け取ったので異存は全くない」という證文です。追い書きで、「全く必要ない」所だといいながら、「またもし田に戻るのなら、替地は返す」と付け足しています。「又候(またぞろ)」には、そんなことはないと思うがという意味が込められているようです。念のため申し添えたということでしょうか。
 松平源之進は、開田当時の館林藩藩主です。年次には1年ほどズレがあるようですが、この時代、あまり細かい間違いなどは気にしていないようです。

<関係地図> 引ノ沢は地図上の吹の沢川、ハンノキヤチの溜池は現存している。
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