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平田甲太郎家文書<田麦堀割訴訟関係> | |||||
⑤ 文化4年(1807年)1月・4月 再出訴の訴状と裏書 (文書№732) | |||||
《解説》 〈文書の内容について〉 この訴状(文書№734)は、表裏共に写しです。表の訴状には、末尾の差出人名に「若山村庄屋仙右衛門」を書き落としています。読下し分には、( )で付け加えておきました。 訴えの内容は、当然ですが、文化3年9月に提出したものと、ほぼ同じです。若干の違いは、大栗田村の無断伐採の件と、被告の村が談合して自分たちを見下したことについては、削除。村上町の助左衛門・助右衛門を大庄屋・庄屋としていたのを大年寄・年寄に訂正したくらいです。 なお、9月の訴状には、後書きに、水原代官所宛の進達願がありましたが、今回は再提出なので、それは不要ということでしょう。直接、評定所へ提出しています。 〈破談から再提出までの経緯〉 村上市史や神林村誌によれば、次のような経緯です。 文化3年 11月13日 扱人の破談届(村上藩と水原代官所の担当役人宛) 12月17日 被告、江戸出府 12月26日 原告被告、評定所へ破談届提出(原告は仙右衛門) 文化4年 1月21日 原告、評定所へ訴状提出(平太郎出府) 1月25日 訴状に裏書裏判 訴状が受理された証しが、この裏書裏判ということになります。 通常は、原告がこの裏書裏判を持ち帰り、被告に見せて裁判開始となります。 しかし、村上藩の指示で被告は早々に江戸にいて、その場で裏書裏判を見せてほしいと要望しています。原告・被告、それぞれの公事宿の主人が扱人です。この二人が原告・被告・評定所の間に入っていろいろ交渉したことが、被告の一人山辺里村庄屋源蔵の日誌で分かります。 源蔵の日誌は、江戸滞在中の出来事を詳細に知ることができて興味深いものです。村上市史資料編掲載の釈文を意訳したものをHPの「文化三年田麦掘割訴訟顛末記」に載せてあります。目次のページから見てもらえれば分かりやすいと思います。 源蔵の日誌は、江戸時代の民事訴訟の様子がよくわかります。 〈裏書について〉 今回の訴状には、二通の裏書があります。 1月25日付けのものが、裏書裏判です。「目安」とは、訴状のことです。 ネットで「歴代江戸町奉行」を検索すると、文化3、4年当時の町奉行に根岸肥前守鎮衛とあり、裏書の「肥前」。同様に、寺社奉行は松平右京亮輝延で「右京」。勘定奉行は松平兵庫頭信行で「兵庫」。 源蔵の日記とも合致しています。 2月21日のお白州には、三奉行が順々に出座し、形式的な尋問を行ったことが書いてあります。但し、勘定奉行は、平太郎に対して突っ込んだ尋問をしています。しかも、ずいぶんくだけた口調です。これについてもHP「文化三年田麦掘割訴訟顛末記」に詳しく載せてあります。 もう一通、4月21日付。この日付は、原告・被告の合意書「済口證文」と同じ日付です。つまり、合意ができたので訴訟は取下げになったということです。調べてみると、判形を消すとは、そういう意味のことで、合意がなった際には、訴状に被告からの返答書を継ぎ合わせて返すのが、当時のやり方だったとのことです。 村上市史資料編の源蔵の日記は4月17日までで、「以下略」となっているため、この日以降の出来事は不明です。 「初判に持参すべし」とあるので、4月21日以後に合意成立による最終決着判決の場があったのかもしれません。それが初判だとすると、それ以前のはすべて調停に当たるのかもしれません。 村広報誌1月号に掲載の本文には、「御留役(調査官兼裁判官)」と書きました。源蔵の日誌からそのような役割に読めたのですが、現代の民事裁判に置き換えれば、御留役は調停官に当たるのかもしれません。ただし、実際の言動はとても調停官のイメージではなく、尋問官です。 |
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原文 | |||||
釈文 | |||||
読下し | |||||
(読下しは略) | |||||
(読下しは略) | |||||
訴状の裏書1 | |||||
訴状の裏書2 | |||||
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