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硝石製造の土集め大庄屋所廻状 幕末 津野庄衛氏所蔵
福岡代官所承認の下、岩船郡役所から出され大庄屋所から各村へ回された通達文書で、硝石製造のための協力要請です。
福岡代官所は、文久2年(1862年)から慶応3年(1867年)まで現阿賀野市(旧水原町)に置かれた会津藩の代官所です。(位置は分田の辺りで、幕府領を管轄した「水原代官所」とは別です。)
幕末、動乱の京都守護職を勤める会津藩の財政を支えるため、越後国内の多くの村が会津藩領とされ、関川村内の約半数の村も会津藩領となりました。文中の「御新領」とは、このことを指しています。硝石は火薬の原料で、幕末戦乱に備えてのことだろうかと推測されます。

文書に発行年はありませんが、上のことから、福岡代官所が置かれた期間・幕末ということになります。
包紙に、湯沢村から回すとあるので、小見組大庄屋所からの文書とわかります。ちなみに、この時代の小見組大庄屋は、(平田)平太郎(昌平)で、平田甲太郎家文書にもたびたび登場します。


(文書の内容)
  新発田藩(溝口)領の山内宿の謙者(意味不明、宿場の仕事をしていたか?)で、
  黒川藩(柳沢)領の小戸村住民・儀左衛門と申す者が

  今般、御新領の村々より土を集めて硝石を製造したいと願い出があった。
  吟味の上(で、この文書を出した・・・という意味か?)
  組頭〇〇〇〇(判読不能、郡役所の役人か)
  両人が、土取り集めのために村々を回り話をする。
  もっとも、この節、重要な時期(幕末動乱のことか)であるので
  故障(不都合)等、いささかも申さずにあたるよう
  必ず触れ渡しをするように。
    但し、本文にある硝石製造には
       灰残ごと(囲炉裏の残り灰のことか)必要ということなので
       (灰は)右の両人だけに売り払い、他へは決して売り払わないよう
        このことも触れ渡すように     以上
     十月二十一日    郡役所
  右の内容を承知した。
  小前(百姓=住民)へも洩れなく申し聞かせるように
     十月二十三日    福岡代官所
  右の通り仰せ出があったので、
  その意を受けて この廻状を早々順達し
  留村(最後の村)から(大庄屋所へ)戻すように
     十月二十五日  大庄屋所
 
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