楽書の記TOPへ  綿野舞の記TOPへ
 
安久昭男著 『悲しいことなどないけれど さもしいことならどっこいあるさ』 を読む
 渡 辺 伸 栄 


 予期せぬ出来事から、元来の大衆小説派が身の程知らずにも純文学に挑戦するという難事態となった。

 この春、我が畏友安久昭男さんの作品が単行本になって一冊恵贈にあずかったのだがその半年後の山行中のこと、「文芸せきかわ」が廃刊の危機にあり是非に寄稿をと強い要請があって、ならばあの本の感想文を寄稿していいかと尋ねたら一瞬困惑の態。自分が担当する文芸誌に自分の本を宣伝してもらうようで、それは困ると顔に出ていた。暫しの躊躇の後、拒否権はないことに気付いたか渋々顔で頷いた。日頃褒め上手で通っている私から歯の浮くような文章で持ち上げられてもちっとも嬉しくないことくらいは、普段の付き合いで十分わかっている。もしこの本の作中人物・月見剣子さんにそんなことをしようものなら、忽ち股間を蹴られ全治四週間即入院の破目に陥ること請け合いだ。剣子さん程のことにはならないとしても、今後の山行中多分口を利いてはもらえないだろうからそんな失礼なことをするつもりはない。


 はっきり言って、この本を最後まで丁寧に読み通す人はそうはいないと思う。難解なのではない。ナンセンスな会話が延々と続き、話の展開は奇妙奇天烈、奇想天外、支離滅裂。非純文学派の私など正直面食らうばかり。そして思った。これは現代アートの類かと。昔その手の美術展に誘われてベニヤ板に矢鱈釘を打付けた作品やらそのほか珍紛漢紛の陳列で辟易の私に、自らもその類の作品を創る友人が囁いたものだ。「分かろうとしないことさ。サーッと見てまわって、お、面白い、と思う作品に一つ出合えればそれでいいのだよ」。確か、感性と感性の出合いの場だからみたいなことを言っていた。その伝で言えば、この本の特にナンセンスな長い会話の箇所などは、「分かろうとしないことさ、そこは単純に言葉遊びを楽しめばいいのだよ」。しかめ面で公民館のデスクに向う彼の人の頭の中でこんな支離滅裂な話が今も蠢いているのかと愉快な気分になってきて思わずニタリ。

 主な登場人物は、大学の天文学サークルの部員で私こと野辺順一君とその添役の神山正一君。この二人を中心に木下、高村、降旗ら学生たちが破茶滅茶でナンセンスな言動を展開する。只管望遠鏡を覗き続けるのが砂田直夫君、屋上の部室からほとんど動かないものの物語の最重要人物であることが最後に分かる。砂田君は正真正銘天文部員だが、他の者は部員なのかどうか単に部室に寄生している存在のようにも見える。可笑しいのは月見剣子さん、美人ながら極暴力派、破茶滅茶な詩を創り男子どもに批評させる。下手に貶しても褒めても入院の破目、だから必死で批評の言葉を探す。脂汗をたらして言葉を探しているのは実は作者なのであって、その言葉たるやナンセンスの連続で常人には思いもつかない。言葉が湧いてこない者はどうするか。神山君など「う―ん、ブルブル」と神の前で震えるしかないのだが、案外にそれが災難から逃れる最上の手。剣子さんの次に愉快なのは彼らの回想の中でしか登場しない柿本均一君。御尋ね者の旅がらすよろしく各地を放浪して時々寄こす便りが面白い。そのナンセンスぶりも作者の腕のみせどころ。人一倍ストイックな顔で関川どーむを走っている彼の人の頭の中を想って、ついニタリニタリ。多分作者は脂汗など流してはおらず、泉の如く湧き出る言葉で遊び楽しんでいるのに違いない。

 二百十頁を超えるこの長い物語は実はたったの四日間の出来事を綴ったもので、話は二月の夜の屋上プレハブの部室から始まり、一日目、野辺君たちはそこで眠り、翌二日目朝、野辺君と神山君は女子大校門前へ出かけ、また部室に戻って眠り、三日目朝、今度は野辺君一人また同じ場所へ出向き鉛筆1本マンこと降旗旗一君に出会い次いで近くの喫茶店でさっちゃんと出会い、部室に戻って眠る。四日目朝、野辺君一人同じ喫茶店へ行き店の主人と会い部室に戻って昼寝、そこまでで話の流れはほぼ終る。この四日の間に起こる出来事と挿入される回想はあまりにも支離滅裂、奇想天外、奇妙奇天烈の連続、ここで紹介することは不可能に近い。喫茶店のさっちゃんは剣子さんほどではないにしてもかなりの暴力派だし、女子大の受験生も相当の極暴力派だ。そのことと、鉛筆1本持って女子受験生を追いかける降旗君の長い科白の中で本作品の題名「悲しいことなどないけれど」「さもしいことならどっこあるさ」が発せられることに、何か深い哲学的思索が織り込まれているのではなどと詮索してはならない。「分かろうとしないことさ。単純にピエロのペーソスを楽しむだけでいいのさ。サーカスを哲学の場にしてしまってはかえってつまらない」。

 私はふと昔見た映画「汚れなき悪戯」を思い出していた。修道院の孤児マルセリーノの、数々の悪戯の果てに満ち足りて眠りにつく寝顔、そこに被さって「♪おやすみ マルセリーノ♪」と流れる主題歌。学生たちの破茶滅茶な言動は、聖なる世界に生きるマルセリーノの奔放さと同種同根のように思えてくる。学生時代を含め子どもは聖なる世界に生きることを暗黙に許されていたから、思い切りデフォルメされた作中人物ほどではもちろんないが、ある程度皆破茶滅茶なことをしてきたものだし、そこには何がしかの満ち足りた眠りが日々用意されていたと思う。精神も肉体も飢餓の状態で常に何物かを追い求め、クタクタになるまで起きて騒いで果ては布団にもぐり込み正気なく眠りに落ちる日々、あれは充足していたとノスタルジックに想ってしまう。読後、日が経つにつれて野辺君神山君等作中人物を懐かしく愛おしく思うようになるのは、長く世俗にまみれるなかで忘れかけていたあの頃と重ねて想うからだろうか。


 作中に帰ろう。ピエロたちの憂いを隠した生真面目なおどけを楽しんでいると、「ある日、最も悲しいことが起こった。」という一文で突然この物語は終末を迎える。砂田直夫君が屋上から飛び降りて望遠鏡ともどもこっぱみじんになってしまうという衝撃の結末が用意されていたのだ。がしかし、砂田君の死をいかにも悲劇の顛末と受け止めてはならない。新しい星を発見するために目の廻りに黒い輪を作るほどに毎夜望遠鏡を覗き込んできた砂田君は、時に正気を失い雨の日でもそこを探していたくらい夜空に「僕の場所」を追い続けていた。そしてついに彼はそこを見つけ星になった。実はそれは真の天文部員たちにとって宿命の帰着であり、砂田君もその一員であることを表白しているのだったが、作者の密かな隠し技によって、サッと一読したくらいではなかなかそのことに気付けない仕掛けになっているのだ。突然の砂田君の死に出合って面食らい、えっ、何故、と砂田君を死なせた作者の作為を疑い、いきさつを辿り必然性を探るべく前に戻る。話の急展開に戸惑いながら頁を前後するうちに作者の隠し技に気づく、とまあそういう憎い仕掛けだ。何が隠されていたのか、推理小説正統派としては今ここでそれは明かせない。

 砂田君の死は物語上大きな出来事に違いないがそれは宿命の完結というべきのものであって、作者の意図はどうあれ私には大きな問題ではない。大問題はその後、結末の最結末、砂田君の葬儀から戻る帰途のホームで悲しみにくれる私こと野辺順一君と神山正一君から提起される。

  見上げれば満天の星。
  「やあ星だ僕はあっぱれな人生を送りたい」
  「やあ星だ僕もあっぱれな人生を送りたい」

 この三行で、作者はこの物語を終らせる。先の発言は野辺君、後のは神山君のものと読んだ。第一の問題は、僕はの「は」。当然その意味は、僕は(砂田君とちがって)あっぱれな人生を送りたいということになる。なぜ作者は、僕も(砂田君のように)あっぱれな人生を送りたいと言わせなかったのか。なぜ砂田君をここであえて否定させてこの物語を終らせなければならなかったのか。名曲「「いちご白書」をもう一度」の歌詞が想いに浮かぶ。無精ヒゲと伸ばした髪で奔放に送った学生時代は就職が決まって終る。髪を切って、もう若くないと自分にも恋人にも言い訳する寂しさと照れ。そう、いつまでも聖なる世界で遊んでいることは許されない。行け行けまっこう鯨よ世俗の中に突入だ。野辺君の「は」は、聖なる世界との決別宣言。砂田君の否定ではなかった。むしろ羨ましいのだ。野辺君は常識的な人間が辿るべき道を常識的に選択するほかなかったのだ。悲しいことに。

 第二の問題は、神山君の僕もの「も」。野辺君の添役を割り振られた神山君は、いつも野辺君の科白を復唱させられてきた。にもかかわらず、「も」だ。野辺君に追従した「も」だとはとても思われない。そんなつまらない終末を用意する作者なはずがない。もしかしたら二人同時に発した言葉なのかもしれない。いやそうに違いない。神山正一君こそ、四人目の正統な天文部員だったのだ。だから「も」なのだ。宿命への憧れの「も」。その伏線も思い返せば随所に隠されていた。ウ―ン、にくい仕掛けだ。

 これ以上書くと蛇足になるのだが、この本には表題の作品の外に短編が二編収録されていて、一編は安久さんの処女作でプロの人から早くもその非凡さに着目された作品。
 もう一編は極最新作で、私の率直な感想は、まるでピカソがモネの絵を描いたような。この間約三十年、これをどう考えたらよいか実はそちらの方が私には大問題なのだが、とても手に負えそうもないので、う―んブルブルブル。
<表題作は、安久昭男氏27歳の作品で第一回早稲田文学新人賞授賞作品>
 
   楽書の記TOPへ  綿野舞の記TOPへ