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創作  短編 ・ 爪 ~A氏の場合~ 
 渡 辺 伸 栄 


 A氏は小指の爪を伸ばしている。といっても、人が驚くほどに長い爪というわけではなく、他の指よりも五ミリほど長くしているだけなのだが。いつからそうしてきたのか、どんな理由があったのか、そんなことを考えることもないほどに長い間自然にそのようにしてきた。
 だが、あのことがあってから、A氏は自分が小指の爪を伸ばすようになったいきさつやら始まりやらを考えるようになった。いや、考えないわけにはいかなくなったのだ。考え始めると、それほどの日数も要せずに、様々なことが記憶の霞の中から浮かんできた。

 子どもの頃、爪を切ってくれたのは父親だった。切った爪が土間に落ちるようにと上がり框に腰掛させられて大きな爪切りで挟み切られると、いつも深爪になって痛くて嫌だったが、なぜかそうしてもらうこと自体は嫌ではなかったような気がする。そういえば、風呂で頭を洗うのも父だった。頭に石鹸を塗られ、フケ落しのトゲトゲブラシでゴシゴシと頭を擦られ、その上最後はお湯をザブザブとかけられると息ができなくて、痛さと苦しさで嫌だったのだが、そうしてもらうこと自体はなぜか嬉しく思っていたような気が今はしているのだった。

 小指の爪のことを考えていたはずなのに、次々とそれとは別の父との思い出が甦ってくるから不思議だ。大きな単車の後ろに乗せられて必死でしがみついて父の仕事場へ連れて行かれたこと、大水が出た後の水が引き始めた頃を見計らって、大タモを持って岸の柳の根元に逃げ込んだカジカをすくいに連れて行かれたこと、小学生の頃は父との密度が意外と濃かったように今になって思い出していた。

 そうだ。小指の爪は、少し伸ばしておくと便利なのだとその頃父が教えてくれたのだ。その爪で耳の垢をほじくって、その指を口の先に当てフーフッと強く吹くと耳垢が四方八方に飛び散るそんな父の姿まで浮かんで来た。

 あのことがあってから、半世紀以上も昔の淡い記憶を辿って、A氏はときどきボワーとしていることが多かった。


 あのこと、それは秋も深まったある日、偶然のようにして起きた。A氏は、月に一度の定例ゴルフ会の帰路でB氏の車に乗せてもらっていた。乗車の前、小指の爪をどこかに引っ掛けたらしく伸ばした部分の半分くらいが欠けていた。それはよくあることで、そんな場合は爪切りで欠けた部分を切り取りヤスリで調整しておけば、爪は何日かたつと元の状態に戻るのだった。その日、B氏は高速道路のPAで休憩した。そこは金物で有名な町のPAで土産物店にも爪切が並んでいた。A氏は好都合だと思い、一丁数千円の有名なニッパー型ではなく千四百円の五徳ナイフ型の折りたたみ式爪切りを買った。爪切りのほかにヤスリやハサミ、ピンセットなどがコンパクトに納まっていたからだ。

 車に戻って助手席でA氏は買ったばかりの道具を使い、早速傷めた爪の修復にかかった。それを運転席のB氏が見咎めたのだった。A氏は爪が飛び散らないように袋の口を広げ、その上で作業をしていたから、B氏が咎めたのはそのことではない。

 小指の爪だけを伸ばすなんて、それはオネェのすることだろ、と驚くべき言葉がB氏の口から発せられたのだった。A氏はギョッとした。今の今まで大人はだれもが小指の爪を伸ばしているものと思ってきたからだ。もっともそんなふうに改めて思ってきたわけではなく、だれもが髪を伸ばしているのと同じように極普通のことと思ってきただけなのだ。B氏は、そんなことはしたことがないと言うし、そんな人を見たこともないと言う。A氏は、そんなバカなと、後ろの席のC氏にもD氏にも訊ねたが、皆首を横に振ってB氏に同調した。

 大体、そんなことをして、何のいいことがあるというのだ、とB氏が追い討ちをかける。どんないいことがあるかといわれても、う~ん、耳の穴をほじくられるし~、小鼻が痒いときは爪の先でちょっと擦ると気持ちがいいし~、鼻糞も取れるし~、そうだ、歯に引っかかった食べカスだって取れるんだ。A氏は内心、髪を伸ばして何かいいことがあるかと問われても即座に名答を出せはしないだろうとブツクサ思いながら、ボソボソ答えたものの、車中の他の三人は無表情で聞いてか聞かずかの風。

 一体、いつからそんなふうにしていたのか、とB氏は無遠慮に追い討ちをかける。いかにも、そんなバカな事をし始めたのはいつからかと言外に匂わせて。いつからだろ~。問われたA氏の方はまたまた考え込んだ。子どもの頃からのようでもあり、大人になってからのようでもあり、途中で何度か短くしてまた長くしたようでもあり。いつから髪を伸ばしたかと聞かれてもな~、そんなしどろもどろの状態で車中の話題はゴルフのスコアに切り替わった。何故か場違いなほどに三人は笑い声を立ててその話題に興じていたのだが、A氏は内心まったく穏やかではなかった。

 その日はそれで終ったが、翌日からA氏の心穏やかならぬ探索がはじまった。


 まずは、小指の爪の思い出探し。A氏が休憩時間など時々ボワーとしていたのは、大体がそのためだった。懐かしさに溢れた思い出が記憶の底から次々と湧き出してくる副産物があって止め処もなかったのだが、小指の爪を伸ばしたいきさつや始まりは割合簡単に解明することができた。

 もう一つの大きな問題が残った。それは、大人は誰も小指の爪を伸ばしてはいないのかということだ。A氏は、通勤の行き帰りの駅のホーム、電車の中、バスの中、交差点の信号待ち、様々な場面で人混みの中、男の大人の指先を見つめ続けた。

 しかし、よく見ようとしても小指というのは普段内側に少し折り込まれたようになっていて、爪が長いか短いかというのは案外見えにくいものだった。むしろ小指以外の指の爪の方がよく目に付いた。

 あるとき、右手の親指だけ爪を伸ばしている人に出会って後をつけたらギター教室に入った。どうもギターを弾くために伸ばした爪のようだった。薬指の爪を伸ばした人を見付けて同じようにつけたら皮膚科医院に入っていった。待合室に並んで座ってそれとなく親しくなって話を聞いたところ、カユカユ症候群とやらで薬指の爪の先で痒いところをソーッと掻くと実に気持ちがいいのだと言う。なるほど、小指よりも少し幅広い分気持ちがいいのかもしれない。人差し指の爪だけ伸ばした男は、電車の人ごみの中でその指を他人のポケットに伸ばし何やら怪しい動きをしていたが、目つきの鋭い屈強な二人組の男に両手を掴まれて電車から連行されていった。

 小指の爪だけ長い人は見つけられなかったし、それに、B氏の言うオネェらしき人も見当たらなかった。これ見よがしにオネェぶるのはテレビの中だけなのかもしれない。そうこうするうち、いつしか手袋の季節になっていた。A氏は意を決した。すみません、つかぬことをお伺いしますが、こんなふうに小指の爪だけ伸ばした人をご存じないですか。尋ねられた人は誰も、怪訝な顔をして手袋から手を出し自分の小指を見せてくれた。なんと、皆、小指の爪はA氏と同じくらいの長さに伸ばしてあった。


 一ヵ月後のゴルフ行、先月と同じメンバーが車に乗り合わせた。A氏は早速この一ヶ月間の探索結果を切り出し、変なのは自分ではなく君たちだとさも得意然として言い渡した。どうだ、参ったかと溜飲を大いに下げたつもりのA氏の目の前に、三人の小指が突き出された。やられたー、か、かつがれてたのかー。A氏の踏む地団駄でB氏の車の床が抜けかったのが、幸いと言えば言えた。


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