古城址物語 ~関川村に残る古い城跡の話~              筆・Watanabe Nobuei
    垂水城址(たるみじょうし)  別名:垂水館址(たるみだてあと)
<どこにあるの?>
 垂水城址は、湯沢集落の西側の高くなった崖の上にあります。

 湯沢集落から見ると少し高くなっていますが、県道の坂道を上がると、松平集落・滝原集落へ続く平らな土地が広がっています。
 垂水城址は、その平らな土地の東の端に作られた城です。
 上関集落や下関集落とは、荒川をはさんだ対岸にあります。
<遠くから見ると?>  温泉橋の中央から荒川の下流を見ると、正面に杉林が見えます。
 その杉林の中に、垂水城址があります。
 温泉橋からの荒川の水流は、正面の林の見える崖にぶつかって左に流れを変えます。今は草や木で覆われた、その崖の上に、垂水城址があります。
<城の図面>  本丸へ入る道は、民家の敷地の中にあります。
 ほぼ四角形をした本丸の南側2面には、深い空堀と土手が残っています。北側2面は、荒川と支流湯蔵川に削られた崖を利用して城を守っています。
 本丸の南西方向の県道沿いには、自然の地形を利用して折り曲がった深い堀が見られます。

 垂水城は、城造りの居館という意味で、垂水館(たるみだて)とも呼ばれています。
1 垂水城の始まりは、いつ頃から?

 今から500年前頃、垂水左衛門尉(たるみ・さえもんのじょう)という人が垂水城を本拠地にしていました。

 垂水左衛門尉の先祖は河村氏といって、鎌倉時代、荒川下流の荒河保(あらかわのほ=旧荒川町)の地頭でした。しかし、南北朝争乱の時代に、河村氏は南朝側として北朝側と戦ったものの敗北し、一族の大半は滅亡してしまいました。
 その後、河村氏の一部は、女川流域の桂城を本拠地にしていましたが、その地も隣の黒川氏のものとなったため、荒川上流の垂水の地に移動して垂水城を本拠地にし、垂水氏を名乗りました。

 桂城から垂水城へ移ったのは、左衛門尉のときか、それとも、それより少し前の父か祖父のときだと思われます。


2 今残っている城の形になったのは、いつ頃のこと?

 上で述べたように、垂水左衛門尉は、南北朝の戦いの末に移動してきた河村氏の一部ですから、垂水に住んだときから、空堀と土手で囲まれた城を作ってその中に館を構えたものと考えられます。それで、垂水城のことを垂水館(たるみだて)とも呼びます。
 館は、「やかた」とも「たて」とも読みますが、堀や土手で囲まれた城造りの屋敷を「館(たて)」といいます。

 本丸には、鉄砲を構えて戦うときのための低い土手もあることから、戦国時代の鉄砲戦にも耐えられるように、時代の動きに合わせてその都度改造を進めてきて、今残っている形になったものと考えられます。

 垂水城も、下関城や上関城と同じに、今から420年前の上杉景勝の会津国替えに伴って廃止されました。


3 特に活躍した城主には、どんな人がいるの?

 今から460年前、第4回目の川中島合戦で、垂水城主・垂水源二郎(たるみ・げんじろう)は、軍勢を率いて勇敢に戦い、上杉謙信から、その戦いぶりを誉められて、血染めの感状とよばれる賞状を与えられました。その感状が子孫に大事に受け継がれ、今も「せきかわ歴史とみちの館」に展示されています。

 川中島合戦は、西暦1553年から1564年までの11年間に5回も行われました。(上関城主・三潴掃部介利宣が活躍したのは第1回合戦です。)

※ 垂水城主・垂水源二郎が活躍した第4回の合戦では、上杉謙信と武田信玄が一騎打ちをしたことで有名です。


 今から440年ほど前の「御館の乱」(上杉謙信死後の跡継ぎ争いで、景勝と景虎が争い、景勝が勝利した戦い)では、垂水城主・垂水源太左衛門(たるみ・げんたざえもん)とその弟・右近丞(うこんのじょう)は景虎側について活躍し、景虎から感状を与えられました。
 垂水源太左衛門は、景虎が敗北を覚悟して切腹したとき、最後まで付き添ったと言われています。それだけ、景虎に信頼された忠臣だったに違いありません。