綿野舞 watanobu 山歩紀行 2010.4.21 菅谷城址
 標高290m付近  新潟県新発田市    
  関川歴史館主催「山城探索会」
今回も講師は、横山勝栄先生

新発田市菅谷に、御不動様と親しまれ敬われている寺院がある。
その寺の裏手の山は、日本一小さい山脈として有名な櫛形山脈だが、その山中に山城跡があるということで、講師横山先生の案内で探索会に出かけた。
県道の箱岩峠から山道に入り、大峰山に続く登山道らしい尾根道を登ると展望台、4等三角点248.3m、ここが三の丸。
登山道は尾根筋の横腹を辿る。
尾根のピーク下辺りから、藪の中を直登し、本丸背後の二重堀に出る。
山城探索は、いつも藪こぎで、それがいかにも山城探索らしい。
本丸291mに登り、二の丸283mへ。
各所に堀切、曲輪あり、二の丸前面に土塁跡、これは鉄砲戦用の胸壁とのこと。
その下の平地に畝型空堀、戦国終期を示すという。
途中、要所要所に大きな堀切が現れて、登りつくのに苦労するが、これもまたいかにも山城探索らしくて、いい。

ただ、山城探索で困るのは、堀切や切岸といった山城特有の施設を写真に撮っても、その写真では、ほとんど現場の様子や雰囲気が伝わらないこと。
今回も、左に堀切の写真を2枚掲げたが、おそらくその形、規模などはよくわからないだろう。
尾根筋を断ち切って急な断崖をつくり、敵を容易に寄せ付けないようにしたのが堀切。
当時は、木で橋を組んで渡っていたのだろうと言う。いざというときは、その木橋を撤去して城を敵から隔絶する。
木橋などとっくに失せてしまった現代、この堀切の急崖を登るのに難儀する。
幾百年を経て土が崩れてしまった現代でもそうだから、この城が使われていた当時はいかほどかと想像される。
この山を削り取ったエネルギーは何だったのか、このことを山城を見るときいつも考えさせられる。

講師先生に、当時の山城の景観について質問してみた。
答えは、当時は、山城の木々をすべて切り払い、麓からも遠方からも、丸見えの状態にしてあった、ということだった。
いざとなったら、あそこに逃げ込むぞ、あそこに逃げ込まれたら、もう攻め上ることなどできない、と敵にアピールして諦めさせることが大きな目的だという。
つまりは、抑止力としての堅固な山城が必要だったということになる。
ちょうど下山時、造林のためだろうか山が切り払われていて、こんな感じだったのだろうと当時の山城の様相が彷彿された。

多くの山城は、持ち主の武将が比定されている。
この菅谷山城は、城の主が定かではないが、おそらく、麓のお不動様の寺、つまり菅谷寺のものではないかという。
戦国の世、城を造ったのは武士だけではない。村人も造ったし、寺院も造ったといわれている。
もちろん武装もしていただろう。
寺院の領域を守り、領民を守るためにいざというときの山城が必要だったということ。
いただいた図面を見ると、何重にも堀切で防御された堅固な造りなことが分かる。
ただ、山城に逃げ籠もったとしたら、寺院は焼かれるか荒されるか、それは避けられなかったのではないだろうか。
櫛形山脈中に、20箇所を越える山城があるというから、このあたりは、関川村以上に厳しい状況に置かれていたということだろうか。
仏の城、南無三としかいいようがない。
もっとも、講師先生の話では、当時の戦は山城に逃げ籠もって、攻めるに攻められない麓の敵勢と対峙しつつ、適当に交渉を進めて互いに折り合いのついたところで撤兵すると、信長、秀吉以前の戦は、そのようなものだったとのことだから、どうやら、物語のような凄惨極めるようなものではなかったようだ。
山城ファンとしては、やや救われる思いがする。
 
 
 
 
 
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