正面の平らな小山が下関城址 標高84.5M 右端の平らな三角山は内須川城 |
城址から見下ろす下関の家並 標高差で約50M 正面遠くの山は、先日登った大平山の山塊 |
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少し登るとすぐ目に入る沼地 馬洗い池か 籠城の際には貴重な水源 |
下関城の城主は下(しも)氏といい、下氏の祖は、関胤氏(たねうじ)という。 建治3年(1277年)に、奥山荘地頭、和田重茂(しげもち)は中条を中心に領内の主要部を3分して孫3人に分割相続させた。その際に、周辺部に当たる関郷の地は、娘の子である胤氏に分与した。 その後、胤氏の子孫は下氏を名のり、下関城に寄って戦乱の中世を生き抜いた。 当日配布の資料をごくかいつまむと、以上のようになる。 で、以下に、城址から見下ろしながらの私見・想像を加えてみる。 下関城の隣に内須川城がある。ここの城主内須川氏の歴史は、下(関)氏より古い。 建仁元年(1201年)、城氏一族が、鎌倉幕府に反抗して鳥坂山で挙兵した。板額御前の奮闘で名高い戦いだが、その際、内須川氏は城氏討伐のため出兵している。 内須川氏は、関郷の古くからの土豪で、周囲の山の麓の比較的高くて水利のよい土地を農地に開発し領していたものと思われる。 後から来た胤氏は、一分地頭として領内の各土豪層からの徴税とともに、未開発地の開拓農地化に力を入れたことと思う。 城址眼下の平野部は、元々は荒川の氾濫原である。 この日も、城山の上で、荒川の流れはずっとこちらの方だったはずなどと会話がはずんでいた。 堤防などなかった時代、荒川は増水時自在に流れ、各所に水溜りの湿地を作っていたに違いない。 胤氏の三男は落合の地に居住し落合氏を名のった。この落合氏もその後の戦乱の中世で活躍した武士である。落合の地は、上関と下関の中間で、地名の通り川が落合う所で、開発の遅れた低湿地だったと思われる。そこを落合氏が開発を進めたということであろう。 落合のすぐ上手には、三潴氏の居城上関城があり、そこから先は地頭といえども侵入禁止地域。(このことは「北越後上関城四百年物語」で) ところで、以上の話の中で、本日の主人公である山城はどのような役割を果たしていたのだろうか。 おそらく、鎌倉時代の開発期には何の役割もなかったのではないかと思われる。山城が必要になったのは南北朝の動乱期以降といわれている。 胤氏の時代は、蒙古襲来の真っ盛り、鎌倉時代のこと。 地頭として派遣された胤氏たち農地開発者は、山の麓や平地の微高地などの比較的安全な場所に居を定め、利水・治水の技術を駆使して開拓に努めたことであろう。 現在の下関集落の中心部に、下氏の居館と伝わる「下屋敷」地名があるという。あるいは、そこが胤氏を初めとする下関開拓集団の拠点だったのではないだろうか。いわゆる鎌倉時代の武士の館と見なせるような気がする。 その後の動乱の時代に、必要に迫られて背後の山に山城を築いた。それが、今立っているこの場所ということになろう。 それにしても、下関城の上は広い、しかも、平坦だ。 戦の場合の臨時の逃げ城、立て籠もり場所ではなく、戦国の時代には、ここが居城だったのではないかと思える。 この下関城の南後方標高160Mの山に山城跡があるという。そこがいざというときの逃げ城、立て籠もり用の城だったであろう。 もはや、平地の「下屋敷」では危険性が高まり、いわゆる鎌倉時代の武士の館では守りきれないほどの戦乱の世となって、胤氏の子孫たちは、先祖が切り拓いた土地を守るため、本格的な丘陵型の山城を築き、そこを居城としたのではないだろうか。 これまで探索した周辺の山城は、戦時の立て籠もり用で、臨時の掘立小屋などを建ててしのいだと聞いた。が、下関城の上、広い平面に立ってみると臨時の掘立小屋は似合わない。山の下から上まで、平時の居館群があったように想像されてならない。 小型ながら、坂戸城址や春日山城址を髣髴させるものがある。 とすると、麓の登り口のあたりが根小屋ということになる。もしそうなら、人家で賑わっていたはずの場所だが、現在は、その片鱗さえうかがえない。廃城となった山城の常ではあるが。 城址に、紫がかった大ぶりのキクザキイチゲが咲いていた。そして、カタクリの群れ。まさに、兵どもの夢の跡 か。 それにしても、穏やかな春の日の午後、のんびりと田圃道を、山道を歩き、おやつをご馳走になり、いにしえのことなどに思いを馳せる、なんとも贅沢なひと時であったことか。 |
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そこかしこに目に付くのは、掘り切りのあと 山城を探す際の第一ポイント |
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空堀 幾星霜で相当埋まったであろうに 現在でもかなりの深さがある |
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掘り切りらしき跡に湧水 先ほどの馬洗い池に流れ落ちる 水利の跡か |
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