人と交わり、草木と交わり、山気と交わる、そんな山歩きの楽しみを綴ってみた
 (リンクメニューの
Sは、スキー)
2012年5月23日 山城探索・上関城

「せきかわ歴史とみちの館」主催の山城探索会、第2回目、上関城址と長峰山の探索
今回も、近いということで午後からの開催、ペットボトルの水を腰にプラリプラリと山道を歩く、のどかな探索会


 「関川村上関城跡緊急発掘調査報告書」(昭和44年)より
上関城は、標高約45Mの小山の上に立つ平城式丘城で、左図のように、本丸、二の丸、三の丸、馬場(矢場ともいわれる)を備えた本格的で堅固な縄張りをもち、小形ながら枡形跡なども明瞭に残り、戦国時代末期の築城技術を示しているとされている (参考・発掘調査報告書) 
                    詳しくは、「上関城四百年物語」

戦国時代末期といえば、上杉謙信の時代
この時代上関城の主は三潴出羽守政長(みつまでわのかみまさなが)
この政長、謙信の信頼厚く、様々な活躍の記録を残している
中でも、永禄4年(1561年)、謙信の使者として、時の将軍足利義輝に謁見し、返礼(ご褒美)に刀を賜ったことは特筆すべき事跡といえよう

そもそも、三潴氏は、鎌倉幕府の命により、上関の地にあった桂の関の関吏(役人)として来任したといわれている
来任の時期ははっきりしてないが、日本の一大変革期であり、北越後の大混乱期でもあった文治元年(1185年)の可能性が一番大きい

とすると、三潴氏による上関の地での360年ほどの治世の後、
最も勢力を伸ばした三潴政長が、その地位にふさわしい城として築いたのが、今に残る上関城址ということになる

今回の山城探索会は、まず、草生すこの城址に分け入った
城内は、鬱蒼とした杉林になっている
その木立の中、下草藪を掻き分けて、探索隊は進む
写真は、本丸を取り囲む土塁を登る探索隊

現地に立つと、図面に示された土塁、空堀、土橋などが明瞭に分かるのだが、写真には、なかなか表しにくい

先に土塁に登った人と、これから登ろうとする人のいる位置で、今でもかなりの高低差のある土塁が残っていることが分かるだろうか

上杉氏会津移封で廃城となってから415年、
それでも、保存の度合いは、相当良好な城址である
頭の中で杉木立を消し去ると、415年前の城の様子がリアルに浮かび上がる、それだけの遺構が現存する城址である 
写真は、三の丸から馬場(矢場とも)への土橋を渡る探索隊
本丸、二の丸、三の丸、馬場などの各郭は深い空堀とそれを掘り上げた土塁で区切られている
その各郭をつなぐ唯一の道が土橋、
橋とはいうものの下を水は流れない
空堀に土を盛り上げた細い一本道、それが土橋

この図面からは、大手口(城の入り口)ははっきりしないが、
発掘報告書掲載の別の図面からは、馬場の南側(図面の右端、国道113号線沿いの民家のある辺り)が大手口と思われる

つまり、図面でいえば、右端の民家のあるあたりからお城に入り、馬場に上がり、枡形に入って土橋を通って三の丸へ、また土橋を通って二の丸の前郭へ、また土橋を通って二の丸の後郭へ進み、枡形に入って土橋を渡って、ようやく本丸に入れる、そして、本丸の二辺(南と東)は、荒川の断崖であって、相当堅固な造りであることが分かる
 
上関城址を探索した後、探索隊は長峰山に登った
ここは、上関城とは尾根続き(現在は国道と鉄道で分断されているが)の山で、平城上関城の山城があったと推定されている

しかし、何回か登ってみたが、山城らしき痕跡が見当たらない
名前の如く、長い尾根が続く山なのだが、山城ならどこかでその尾根筋を断ち切らなければならないはずなのだが、どこにも掘り切りの跡が見当たらない
また、比較的緩やかな斜面は人工的に切り落として急斜面にする段切りの跡も見当たらない
ただ、長峰山196Mも、その先の杉王山197Mも、山頂は平に均されていて、これが人工的に削った跡のようには見えるのだが
今回の探索会でも、これが山城だという明瞭な痕跡は見出せなかった

地理的には、最も山城を構えそうな位置にある山なのだが
地形的には、緊急避難用の山城にするには、どうも山自体がなだらか過ぎるような気がする

さて、上関城の山城は何処? なぞは深まる
   ― ページのTOPへ ―

山歩紀行