槍の穂先3180m '13.8.2
  山歩紀行 2014
 人と交わり、草木と交わり、山気と交わり
それら一瞬の表情を写真で切り取る楽しみも広がって
単独行もいいし、仲間とならなおいい
そんな山歩きの楽しみを綴ってみました

飯豊・石転び沢雪渓 '13.6.16
 
 
 
    2014年4月24日  遠矢場城址と桂城址の探索
        遠矢場城址 200m 桂城址 140m   新潟県関川村
矢場城址遠景 標高200mの山城 関川歴史館館長Wさんとのタッグマッチ、山城探索第2弾。
   遠矢場城址
旧神林村(現村上市)と関川村との境界線が、山の尾根から荒川の流れに落込む、その縁に城跡があると聞いた。
遠矢場(とおやば)城と言う。その昔、この山城の麓の荒川右岸には街道があったともいわれているし、また、船での渡河も頻繁に行われていた場所という。
その交通の要衝を山上から睨む絶好の位置に設けられた城。
遠くから弓矢を射掛けるから遠矢場だという説も頷ける。
だが、地名と漢字はストレートには受け止めないほうがいい。
カヤバとかトヤバとか、そういった類の呼び名に後から適当に漢字を当た例は多い。漢字に引きずられて意味を当てる様な愚は避けなければならないと地名学の先達は説く。
事前に、横山勝栄先生からいただいた遠矢場城図面(縄張り図)には標高の数字がない。そこで地形図と見比べて、等高線の形が似ている標高240m辺りが城址の箇所かと見当をつけた。
この辺りの地理は、Wさんが詳しい。小川を渡渉してすぐに山肌に取付いた。登り付きは急斜面のヤブ。
いつもの如く、Wさんの敏捷な動き。両手で木の枝、笹にしがみついて必死で後を追う。
よく見ると先行者の足跡らしきものがある。木の枝には獣の毛がついている。Wさん曰く、これはカモシカが通った跡だ。人間も獣も同じ。藪の中で、通り易いルートは自然と決まるようだ。面白いものだ。
尾根筋へ出ると、藪は立木になってやや歩きやすくなる。標高160m地点で二重堀を発見した。そこから段切りが幾つも連なって200mの小ピークには、帯曲輪など城址の痕跡多数ある。
しかし、いただいた図面と比べると少々規模が小さすぎるような気がして、本丸はもっと先かも知れないと、223.3mの三角点まで進むが痕跡は途絶える。
さらにもう少しと、結局、市村境界線に沿って標高240mのピークまで進んでみたが、城址らしさはない。
やっぱり、本丸は先ほどの200mの小ピークだったと、そこまで戻る。山頂は段を付けて均されていて、山腹には曲輪もある。図面どおりを確認。
下りは、登りとは90度南側の尾根に進む。そこにも、図面どおりに平に均された尾根と空堀が出現。
かくして、遠矢場城址を確認し、往古の街道筋だったであろう荒川右岸の川縁をあるいて出発点に戻った。途中、猿の一団に出くわしたが、威嚇音はなく、意外と優しい声を立てていた。この辺りはWさんの土地もあるという。地主の顔を立てたのかもしれない。いずれにしろ、土地勘のあるWさんのお蔭で、何の不安もなく、山中のヤブを彷徨うことができた。
朝8時に行動開始して戻った時刻は11時半近く。Wさん、せっかくだから近くだし、桂城址も探索しましょうと言う。二人とも昼食は持ってきてないが、そんなに時間はかからないだろうと見込んで、二つ目の城址探索に向った。
   桂城址
関川村桂集落の裏手に、標高108.1mの三角点標示の山がある。Wさんはそこが桂城址だと思っていたらしい。そういう私も城図面を見るまでは、そう思っていた。
横山先生からの桂城図面には、遠矢場城と違って等高線に標高数字が入っている。それを見ると、本丸の標高は140mとなっていて、108mのその山ではなく、尾根を伝ったその先二つつ目のピークではないかと見当をつけた。
まずは、その108mの三角点を目指して入山。ここは、獣道よりは少しましな踏み分け道がついている。ただし、三角点は藪の中で、そこから先の尾根筋も獣道すらない完全なヤブこぎ。
やがて送電線の下に出ると、今度は、管理用の山道があって、昨秋薙ぎ払ったかの様相。しばらく行くと、下りとなるその道とは分かれて、またヤブの中に踏み入る。
やがて140mのピーク下に辿り着くと、帯曲輪の様相を呈した箇所が出現。山頂も確かに均されている。ただ、残念なことに、図面にある竪堀跡はヤブが濃くて見ることはできなかった。西側の先端まで進んで均された平らな本丸址を確認して引き返し、南側の細長い尾根を進む。尾根途中の段も確認できたし、最南端の大きな段差も確認し、下山。

下山後、Wさんの案内で、村史跡になっている「桂の五輪塔群」を参観した。
一番大きいのが後鳥羽上皇供養塔、次に大きいのが慈覚大師供養塔、そして、荒河保地頭河村氏の墓標、近辺の山中に散在していたものを地元民がここにまとめたという。
桂城は、その河村氏の根拠地。
荒河保地頭河村氏は南北朝争乱のとき、南朝新田方について戦ったものの時に利あらず、北朝足利方に攻められ、桂城落城、滅亡の淵に追い込まれた。
桂城址が山中奥の、周囲から目立たない位置に置かれているのも、あるいは、そういった攻防戦の経緯を物語っているかのように思えた。
それに比べて、遠矢場城址は、どこから見ても目立つ位置に置かれている。
要衝最前線を守るための城であることが歴然としているように感じられた。ここからなら、渡河してくる敵、麓を通過する軍隊を効果的に攻撃し、その奥の桂城本城を守ることができる。
おそらく、遠矢場城と桂城はそれぞれ独立した城ではなく、一連の役割を持った関連のある城だっただろうし、この二城以外にも、付近の尾根の峰々には、出城、砦が築かれて厚く防衛線が敷かれていたことは、まず間違いないだろうと見た。
桂の隣には朴坂城址があるし、さらに女川を遡れば蕨野城址がある。それらの城は、河村氏の敷いた防衛線上の拠点となる城だったのではないだろうか。
阿賀北の名族河村氏最後の4大拠点城のうち、朴坂城と蕨野城は、以前探索したことがあった。今回、未踏査の遠矢場城と桂城を探索できたことは、大きな収穫だった。
やはり、現地に立って初めて実感、体感できることがある。

河村氏関連の城址についての考察は、晴耕雨読の雨の日の暇なときに、追々、「城跡物語」に書き加えて行きたいと思っています。何しろ、今は晴が続いて、晴耕・山行が忙しく、思うに任せません。

下山して解散したのは午後1時半過ぎくらい。帰宅して遅い昼食をとったのが2時半頃。ぐったりと疲れて、残りの午後の時間は昼寝で過ごしました。
一定のテンポでコツコツと山道を歩く登山と違って、藪こぎは意外と体力を使います。あの鷲ヶ巣登山よりも疲れたような気がしています。
それでも懲りずにWさんとのタッグマッチを楽しみにしています。
さて、次はどこの山城を攻めようか。
桂城址遠景 標高140mの山城

遠矢場城址と桂城址の位置

遠矢場城址探索ルート

桂城址探索ルート

遠矢場城址探索  標高160m地点で二重堀発見、記録するWさん

遠矢場城址本丸下の帯曲輪 図面どおりに段切りや曲輪が見られた

遠矢場城本丸を越えて三角点223.3mの辺りから見た対岸の土沢山城

市村境界線に沿って標高140mの尾根を進んで振り返えると、
越えてきた二つのピーク 左200mの遠矢場城本丸 右223mの三角点

遠矢場城址探索ルートで今季初めて出会ったイワカガミ

ヤブ道に、今盛りのタムシバの花

ヤブの中に、桂城本丸址  尾根に沿って細く長い城址 

桂城址の麓に荒河保地頭河村氏に関係する五輪塔群
    遠矢場城址探索中の山中で、私の安いゴム長靴が切り株に引っかかって、30センチほどのかぎ裂きができ、大破損。さてどうしたものかと思案していると、すかさずWさん、ザックから荷造り用のビニルテープを取り出して、これで長靴をぐるぐると巻けばよいと教えてくださった。
言われたとおりにしてみると、これがすこぶる快適で、ゲートルを巻いたような按配。かえって、不都合のない方の足が歩きにくいくらい。
お蔭で難なく桂城址のヤブこぎもできました。さすが、ヤブ屋の山知恵です。これからは、私もこれくらいの長さのロープをいつも持ち歩くことにします。
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