槍の穂先3180m '13.8.2
  山歩紀行 2014
 人と交わり、草木と交わり、山気と交わり
それら一瞬の表情を写真で切り取る楽しみも広がって
単独行もいいし、仲間とならなおいい
そんな山歩きの楽しみを綴ってみました

飯豊・石転び沢雪渓 '13.6.16
 
    2014年6月30日 県北の大規模山城・大葉沢城址探索  
 大葉沢城址 94m  新潟県村上市 

大葉沢城本丸(宮山の主郭)の切立った崖下を歩く探索隊
その右側、緩斜面に畝状の縦の列が構築されている、これが畝形阻塞(うねがたそさい)

<本日の探索コース>  大葉沢城址は中央の普済寺を挟んで向って右側標高94mの寺山と左側標高86mの宮山に渡って構築された大城塞で、この日は、宮山側のみの探索だった

宮山の主郭部(大葉沢城本丸址か)には、雷神社

関川歴史館主催の史跡めぐり第3弾、前回に続いて講師は小林弘氏。
新潟県村上市(旧朝日村)大場沢集落にある大葉沢城址を探索しました。

この城は大変大規模な城塞で、特に50条を超すという畝形阻塞は目を惹きます。

本丸(主郭)は、斜面を切落としたと思われる急な崖の上にあります。南側の崖の下は緩やかな斜面になっていて、そのままでは、この城最大の弱点だったでしょう。その弱点を補うために構築されたのが、畝形阻塞です。
本丸の崖に向って畑の畝状の溝を何本も掘っています。しかも、溝の列は2段になっていたようです。

敵兵が緩斜面に自在に展開するのを防ぐのが目的とのことです。つまり、畝状の溝に沿って敵兵は縦列にならざるを得なく、守備側は、各列の先頭の兵だけを次々に狙って倒していけばいいという作戦らしいです。
しかし、50列も作られたら、50人ずつ倒すことになり、散兵戦とそう違わない状況になるのではないかと思うのですが、どうなのでしょうか。

もっとも、畝の溝部分は杭などで通行不能にしておいて、土手状になった畝の上だけを通行せざるを得ないようにしておけば、攻撃側は、守備側に完全に身を曝すことになり、防御効果は高まるのかもしれません。
しかし、溝の部分の杭などは、竹を束ねて作った盾などを使って防御しながら何としても撤去するでしょうし、そうなれば、むしろその盾を頭上にかざして、溝を逆に有効に使って侵入するでしょうから、結局50を超す列の一つ一つを防御するのは、容易なことではないでしょう。

そんな疑問をブツブツとつぶやきながら現地を歩きました。多くの人は、ただただ当時の土木工事の難儀さを思っていたようです。

普済寺に下って、お寺の方から親切丁寧なお茶の歓待を受けました。
その普済寺に掲げられていた大葉沢城の復元絵図を見て思ったのですが、もしかしたら、この畝形阻塞は、城の威容を誇ることに意味があるのかもしれません。

敵に城を攻める気を起こさせない、それが山城の最大の目的だと以前聞いたことがあるからです。
確かにこの威容を見たら、攻撃の損害と得る利益を天秤にかけ、むやみな攻撃は控えるのではないでしょうか。
今話題の抑止力ですね。戦わずして勝つ、それが上の上策。

本丸から西に続く尾根にある堀切

その尾根から下を見ると、木立の間に斜面が段々に刻まれ
ている様子が見える  これが畝形阻塞

畝形阻塞の説明看板

宮山を下りて普済寺へ向う途中の大堀切

普済寺に掲げてあった大葉沢城の復元絵図
手前山裾の縦縞が畝形阻塞で、その数は50条を超すという

    ところで、ずっと以前に読んだ、星亮一著「越後風雲録」は、全4冊の長編時代活劇で、この大葉沢城が舞台、その城主鮎川摂津守清長が主人公です。
今から24年も前の発行本で、本棚からようやく探し出して、1冊目をパラパラとめくり、なかなか痛快なドラマだったことを思い出しています。
その本の効果もあってのことでしょうか、地元大場沢集落の皆さんはこの城址を大切にされていて、毎年、催し物も大々的に行われているようです。

歴史は、単に過去の出来事ということではなく、現在に生きる人々にこそ意味があると、そう思います。温かい接待をいただいた普済寺も、1527(大永7)年その鮎川清長候の開基、と説明されていました。
越後の各山城で畝形阻塞が盛んに作られたのは16世紀前半から中葉と小林講師の説明でしたので、大葉沢城のそれは、ちょうど鮎川清長の構築ということになるのでしょう。
鮎川氏が史上に現われるのは、上杉氏が越後守護として入国して以来とのことで、それ以前の出自は諸説ありとのことです。越後国は、源平の争乱で支配層が全面的に入替わり、鎌倉御家人が入国します。
その後の南北朝動乱での上杉氏守護入国の際にも、それに従って多数の新支配層が入り、入替わりがあったようです。
上杉謙信の長尾氏などもそうです。
推測ですが、もしかしたら鮎川氏もそうなのかもしれません。
守護上杉氏は越後国衙領を押さえます。国衙領荒河保の地頭河村氏も滅亡します。
三面川も国衙領、鮎川氏は上杉の時代、その三面川流域を領地として活躍します。
鮎川清長の時代には、本庄城(村上城)をしのぐ規模の城が構築されるほどの有力武将だったことは違いありません。

小林講師の資料には、慶長絵図には、これだけの規模を誇る大葉沢城が記されていないとのことです。
以前、渡辺三省氏の説を紹介したように、軍事機密を絵図等に公表することはありえないということですので、上杉景勝会津移封直前まで、大葉沢城は、越後北方にとって最重要の城塞ということだったのでしょう。
ところで、小林講師は中世に限らず古代から近世まで多方面に渡る博識の先生で、この日も、大葉沢城址だけでなく様々な史跡に案内していただきました。
その一つ一つは省略しますが、山元遺跡でニホンカモシカに出合ったことだけは特筆しておきます。
山岳地域とはかなり離れている市街地に近い、車が行き交うような丘陵地にもニホンカモシカが生息していたのです。
もはや珍しい動物ではなくなったような感がするのですが、それでも、まだ天然記念物なのですね。
実は、我が家の山林を荒らしているのは猿公だけでなくカモ君もらしいのです。困ったもんです。
    弥生時代後期後半の高地性環濠集落が発見された山元遺跡
高速道路が通る神納平野を見下ろす一行
下をトンネルが通っている
    その山元遺跡で悠然と草を食べていた天然記念物のニホンカモシカ
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