槍の穂先3180m '13.8.2
  山歩紀行 2014
 人と交わり、草木と交わり、山気と交わり
それら一瞬の表情を写真で切り取る楽しみも広がって
単独行もいいし、仲間とならなおいい
そんな山歩きの楽しみを綴ってみました

飯豊・石転び沢雪渓 '13.6.16
 
    2014年7月14日  伝説の城・小戸城址探索  
        小戸城址 230m  新潟県新発田市

小戸城と扉山の尾根を遮断する大堀切(空堀)、深さ15m幅25m、その底へ下りて手を振るS氏

小戸城址関連の探索コース

山内集落から見た小戸城址と扉山

関川歴史館主催・史跡巡り第4弾、講師は引き続き小林弘氏。
今回は、新発田市の加治川上流赤谷方面の史跡探訪。

小戸城は、小戸集落の南方羽黒山に築かれた山城。
よく整備された扉山への登山道に入ると、本丸(主郭)に直登する。
本丸の周囲をざっと見ただけでも曲輪(くるわ)や堀切の跡を見て取ることができた。
講師の説明では、山中には畝形の竪堀(阻塞)もあり、このことから、16世紀半ば頃には使われていた城と見られるが、史料は何も無く、城主については詳細不明とのこと。
山城については、史料の裏付けがないのは極普通のことだが、それにしても、これだけの規模の城があるというのに、戦乱の15,6世紀の地域史に位置付かないものだろうか。
歴史マニアの私などには、何か、もったいない気がしてならない。
小戸館は、小戸城のある羽黒山の尾根が北に伸びた先の段丘上にあった城館址とのこと。
とすれば、小戸城は詰めの山城ということになるだろうか。
関川村の垂水館と沢城(垂水山城)もそうなのだが、戦国時代の城は、武田信玄の躑躅ヶ崎館と要害山城に代表されるように、平地の城館と山地の詰めの城がセットの場合が多いといわれている。(小和田哲男)

さて、小戸城の山麓には岩谷経塚という史跡があった。
角の取れた川原石が多数積み上げられてあって、小林講師によると、川原石を使うのは、流れによって浄化された石は清らかという意味があるとのこと。
そういえば、我家の辺りの共同墓地の墓は、昔はみな川原の石を立てたり囲ったりしていたものだったが、あれにもそういう意味があったのかと、目から鱗の思いだった。
これも講師の話だが、この経塚、現在地よりも少し下方にあったものを昭和50年代に道路拡幅のため移転、その際の発掘調査で、人骨、古銭等が出土したとのこと。
塚から古銭が出たらそこは墓の証、三途の川の渡し賃、とのこと。
敷衍して、上関城址からも古銭が出ているが、もしかしたら墓かも、とおっしゃっる。
それはさておき、この経塚のある地、地元では禅南寺跡と伝わっているという。
さらには、山城への登山道の入口付近は、平地になっていて、根小屋跡と見られるとのこと。ここに家臣団が居を構えて、非常時に備えたところ。
城館、山城、根小屋、寺院、これだけ揃えば、ここは間違いなく、それなりの領地をもった武将が住み、治めた場所。
赤谷に住み着いた平家の落武者の築城とか、一向一揆に敗れた加賀守護富樫氏の子孫が流れ着いた場所とか、伝説はいろいろありとのことだが、16世紀前半といえば、越後国人領主達と会津との緊張関係の最前線の場所。旧三川村を拠点にした小田切氏との関係などは見出せないものか、不思議な気がしている。
ま、いつの場合も、山城は何も語らずということか。

その小田切氏が構えた城が赤谷城。別名、関ヶ峰城。
赤谷城は、残念ながら、今回探索できなかった。
ただ、城長茂が築いたといわれる大壇塚を見学した際、城山だけは確認できた。
赤谷城は、天正15(1587)年、上杉景勝が新発田重家を攻め滅ぼした新発田合戦の際、対岸の滝谷新田にあった笠菅城(要害山にあったのではとのこと)では規模小とみて、現在地に移転新築し、上杉勢の来襲に備えたものという。
城主小田切三河守は、上杉勢に包囲され、勇敢に防戦これ努めたものの、あえなく落城したと、当日配布の資料にあった。
ところで、天正10(1582)年、新発田重家が景勝への叛旗を顕わにした際、景勝は、上関城主三潴氏から取り上げた土地を、小田切弾正忠に与えている。
この小田切弾正忠は、小川荘石間(旧東蒲原郡三川村)の領主で、景勝から新発田勢の守る五十公野攻撃を命じられていて、その見返りの土地給与であろう。
赤谷城の小田切三河守は、多分、石間の弾正忠と縁者であろうが、景勝に攻め滅ぼされている。そこにどのような経緯があったのか。
小田切氏は会津芦名氏の家臣。
天正15年、会津の芦名義広は新発田重家救援の動きに出た。
つまり、天正10年の弾正忠への土地給与は芦名対策でもあったことになる。
それから5年、景勝の芦名対策は結局功を奏せず、芦名は反景勝に回り、小田切氏は景勝と対戦ということになったのだろう。
とすれば、弾正忠への旧三潴分の土地給与も、口約束だけで終った可能性は高い。

それはともあれ、当方は、この日巡検した赤谷地域の地理にも歴史にも、まったく暗い身。
東蒲原郡が会津藩領だったことは知っていたが、赤谷地域は新発田藩領だとばかり思っていた。
ところが、そうではなかった。
赤谷は会津領で、それより下流の山内までが新発田藩領、その境で、戊辰戦争の激戦が行われた。
そもそも、新発田から津川へ抜けるこの赤谷の道は、よく通っているが、通り抜けるだけで寄り道をしたことはほとんどない。
先日、蒜場山の帰りに赤谷の街でアイスクリーム屋に寄ったのが初めての寄り道ではないだろうか。
今回、対岸の小戸集落にも初めて足を踏み入れ、思わぬ大きな集落があって驚いた。
これからは、もっともっと寄り道人生を楽しみたいものと思った次第。
それもこれも含めて、歴史館の史跡巡りは、収穫の多い行事です。
特に、博学の小林講師の話と資料には、毎回、敬服傾聴です。
私にはよく理解できないので、報告を省いているのですが、石仏、石碑、板碑など詳しい現地説明があって、チンプンカンプンながら、楽しく聞いています。

小戸館といわれる場所、城館址とのこと 

岩谷経塚、川原石が高く積み上げられてある  伝・禅南寺跡

小戸城址への道は、扉(戸開)山への登山道として
整備されている

本丸址への急傾斜を登る探索隊

羽黒山山頂、小戸城の本丸址

本丸からの眺め  足元の小戸集落

加治川の流れの先は米倉地区
 その遙か先に新発田市街がある 

本丸址から扉山に向う尾根、堀切(空堀)を越える

わざわざ大堀切の底へ下りてくれて這い上がってきたS氏

小戸城址の麓は平らな林地、根小屋の跡と思われる
   
上赤谷地区の大壇塚へ、その西方に赤谷城、北東に要害山
   
大壇塚の前で
   
上赤谷集落入口付近にある会藩戦死碑
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