槍の穂先3180m '13.8.2
  山歩紀行 2014
 人と交わり、草木と交わり、山気と交わり
それら一瞬の表情を写真で切り取る楽しみも広がって
単独行もいいし、仲間とならなおいい
そんな山歩きの楽しみを綴ってみました

飯豊・石転び沢雪渓 '13.6.16
 
 
 
    2014年11月16日  土沢山城 標高400mの要害 
     土沢山城址 331m 奥城址 396m 土沢城址 65m   新潟県関川村

13:58 奥城址から、荒川流域の旧荒川町を眺めると、眼の前の尾根中央に貝附城址

高田橋袂から 右端・大島集落 左端・下土沢集落(13.12.26)

関川歴史館のW館長さんから、
「木の葉も散ったし、そろっと、どうでしょう?」と、声がかかった。
待ってました状態の当方、もちろん二つ返事のOK。
Sさんにも声をかけて、4月の沢城(垂水山城)の探索メンバーが揃った。

土沢山城には、Sさんも私も、09年6月17日の歴史館主催「山城探索会」で登っている。講師は横山勝栄先生。その探索会は、Wさんが館長に就任する以前のことで、だから、Wさんはまだ土沢山城に行ったことがない。
私にしても、5年前の記憶は大分朧気になっていて、当時はGPSなども持っていなく、途中のルートは確かでない。
地元のSさんの土地勘を頼りに、土沢山城を目指すことにした。
この日の正午、下土沢集落の雲仙寺境内から、探索隊のスタート。門前の林道を西に進むと、沢(「関川村山岳渓流地図」でジョウヒラ沢)に出る。
2万5千分の1地図を見ると、その沢筋の奥に331mの標高点がある。そこが土沢山城の本丸址。
本丸址のピークから、ジョウヒラ沢の北側に、大きく弧を描くようにして沢に向って下る尾根が一本ある。その尾根を辿って進むことにした。
登り始めは杉林になっていて、見通しがよい。が、斜面は急で、肌寒い日ではあったが、早くも汗ばんでくる。
杉林の中で、尾根が蛇行したり幅が広がったりすると、進路は分かりにくくなる。
そんなときはGPSが頼り。
杉林を抜け、雑木の尾根筋に出ると眺望が効いて、紅葉の名残の木々を通して、荒川が見えた。対岸には春に探索した遠矢場城址のある山も見える。

先月、石鎚山に登って以来の山歩きで、曇天だが気分は爽快。
標高250m付近で尾根はずいぶん細くなる。
そろそろ堀切で尾根を断ち切りたくなるところだがなどと思っていると、案の定、先頭を行くWさんが空堀を発見した。GPSで標高280m地点。横山勝栄先生からいただいた縄張図にも合致している。
間もなく、本丸直下の大きな曲輪が広がり、切岸を登りあがると、そこが本丸址だ。5年前と比べると細い雑木のヤブが密生していた。
あの時は確か、本丸址のブナの木に「御城山」と書かれた木の看板がかかっていたのだが、そのブナの木も倒木となり、看板も見当たらなかった。
地表に生茂る木々は5年で変化しても、地面に刻まれた城址の様相は5年前と変らずにあった。
本丸址から西側に城址は続いている。
不思議なことに、西側の尾根は二筋並行していて、その二筋の尾根の間は、細長く掘られたようにえぐられている。
西端の最低部を堰き止めれば、大きな貯水池になりそうな按配だ。二筋の尾根上にはそれぞれ段切が連なっている。その二つの尾根の西端は、深く掘り切られていて、西に続く尾根と分断されている。
そこの深い堀切を下りて、反対面の急崖を登り、細い尾根に上がる。すると、細い尾根上は濃いヤブになっているのだが、足元をよく見ると、何段も段切りが連なっている。ヤブをかき分けて、段切りを越えていくと、やがて標高390mを越えるピークに出る。ここが土沢山城の奥に位置するもう一つの山城の本丸部分だ。

山城の本丸が二つで、紛らわしいので、便宜上、二つ目の山城を「奥城」と呼ぶことにする。
このピークには、北方から伸びてきた市村境界線が通っている。境界線は、奥城本丸址で南西方向へ屈曲し、高坪山へと続く。高坪山への尾根と奥城本丸とは、深い大堀切で分断されていた。前回の探索で、横山先生は深さ5m80㎝もあると説明されたのをメモしてあった。
その大堀切を崖の端から覗き込んで、大急ぎで引き返した。
晩秋の日暮れは早く、下山を急いでいた。
土沢山城本丸址まで引き返し、その先の下山ルートは、来たときとは別に、ジョウヒラ沢の南側の尾根を辿ることにした。この南側のルートは、5年前の探索会では往復したコースだ。だから、今回は、ジョウヒラ沢の北側尾根と南側尾根を周回することになる。
南側の尾根に、前回も確認した堀切があった。なにせ気が急いているので、急斜面をどんどん下る。
標高100mまで下ると、斜面は俄に緩やかになる。杉林の中の、小沢に挟まれた低く平らな斜面が、段々になっている。よく見ると、沢地に作られた棚田の跡だ。杉の太さからみると、耕地から林地に戻されたのは、せいぜい50年未満だろうか。
山城址が、「兵どもが夢の跡」なら、この棚田跡を、芭蕉はどう表現するだろうか。
木の根を掘り起こし、地面を平に削り、段を築き、上流の沢を堰き止め、水路を作り、水を引いてきて・・・凄まじい労力だ。その労力が、ときに城を築き、ときには田を切り拓いた。そして、用が終れば、址だけが残る。
感無量、言葉も無く、棚田跡に立ち尽くす。

どうにか雲仙寺に戻って、日暮れまでもう少し間があった。
大急ぎで、上土沢集落にある土沢城址へ向った。
土沢城の規模は大きい。関川村内で最大規模の城址といっていいだろう。
戦国時代、ここの城主・土沢氏は関郷有数の勢力だったらしく、中世末の土沢村は郷内最大の村だったという。
5年前の探索会では、ここの城址も探索したのだったが、今回は、すでに日暮れ。これだけの規模の城址を探索するには、全く時間がたりない。三人で、薄暗くなった本丸址で白山神社に拝礼し、下山した。
麓で解散したとたん、雨粒が落ちてきた。
前日まで時雨模様の日が続き、この日以後も時雨。時雨の合間の幸運な曇天日だった。

さて、土沢山城に関して。
土沢氏は、荒河保地頭河村氏の分地頭として鍬江沢流域を領有したといわれる。南北朝の争乱では1336(建武3)年、土沢城は、桂城などとともに落城したと「関川村史」にある。
土沢氏は、一門の主家・河村氏とともに南朝方に与して、敗戦の憂目に遭ったのだろう。
山城は、南北朝争乱の時代に全国的に発達したといわれている。
土沢山城も、南北朝の攻防戦に使われたものだろう。その中で、奥城の存在が気にかかる。
奥城側から眺めた山城本丸は、目の下に見え、本丸を攻撃するには絶好の位置に見えた。もしかしたら、土沢山城を攻撃するために造られた敵方の城ではないかなどと、想像を駆り立てられた。あるいはまた、土沢山城の側が、高坪山方面からの敵の攻撃に備えて、山城本丸の弱点を補強するために、急遽造り加えたのかもしれない。
絶対堅固に見える土沢山城が落城したということは、奥城を敵に乗っ取られ、逆に攻撃の拠点にされたとも考えられる。などと、現地に立って見ると、いろいろと想像がふくらむ。

南北朝の争乱で、本家の河村氏はその後滅亡の淵に立たされるのだが、土沢氏はしぶとく生き残って、戦国時代には上記のように郷内の一大勢力にまでなっている。
栄枯盛衰は世の習いか。

上の写真の左から続く  中央・上土沢集落 左端・谷地林集落

三つの城址の位置関係     赤い線は今回の探索ルート

上記の平面図

土沢山城   地理院1/2万5千地図に331mの標高点がある所

奥城 331mの地点から西尾根を伝って市村境界線上396m地点

土沢城  規模は村内最大クラスで、縄張りも複雑 

12:25 鬱蒼とした杉林の急斜面を登る

13:08 ようやく尾根上に出ると、荒川の対岸に遠矢場城址

13:22 尾根上に空堀出現 GPSで標高280m地点

13:31 土沢山城本丸址に立つ

13:41 山城本丸と奥城の間を断切る大堀切の急斜面を下る

13:57 奥城から高坪山に繋がる尾根を断ち切る大堀切 

14:17 奥城から引き返して、正面の山城本丸址へ戻る途中の藪漕ぎ
 奥城のここから攻撃されたら、山城本丸総崩れ、最大の弱点か

14:37 山城本丸址から北側の尾根を周回して下る藪漕ぎ

15:08 標高100mまで下ると谷沿いの緩斜面に階段状の棚田跡

15:49 土沢城本丸址に建つ白山神社
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