八ヶ岳 '14.6.29
  山歩紀行 2015

 人と交わり、草木と交わり、山気と交わり
それら一瞬の表情を写真で切り取る楽しみも広がって
単独行もいいし、仲間とならなおいい
そんな山歩きの楽しみを今年も綴ります

白山 '14.7.21
 
 
 
    2015年5月11日 内須川氏関連の山城探索  新潟県関川村
   幾地城址 127m  内須川城址 142m  赤谷城址 130m  ←クリックで地図表示 

幾地城址の探索ルート

関川歴史館のW館長さんとタッグを組んでの山城探索、第4弾。
今回は、山友のJunjyさんが初めて加わって3名の探索隊結成。


幾地城址へ
この城の存在を知る人は、村内でも少ないのではないだろうか。
幾地集落への入口付近、胎内市と関川村の境界線上の山中にひっそりとして残る。
いつものように、横山勝栄先生からいただいた縄張り図と2万5千分の一地形図を照合して、ほぼここに違いないと目星をつけておいた山を目指して、山肌に取付いた。
山道はなく、まったくのヤブ漕ぎ。そのワイルドさには、初参加のJunjyさんも喜ぶやら驚くやら。

目星通りに、その山中に山城址があった。縄張図の遺構をほぼ見ることができた。

実はこの城、関川村側のものか胎内市側のものか、図面では判断できなかったが、実地に歩いてみて分かった。
胎内市の大長谷は街道筋に当たるが、その街道を通る軍隊を攻撃し、進軍を阻止するために構築された城だと判断された。
本丸から西に伸びる尾根が二股になった出城は、崖の上にあり、その真下を古街道が通っていたとすると、攻撃には絶好の位置に築かれていた。

いつ、だれが、この城を必要としたか。これまでの歴史上の出来事を追ってみれば、次のような推測が成り立つ。
南北朝争乱の時代、黒川氏を初めとする北朝方の侵入に備えて、南朝方の関郷内の勢力が構築した城に違いない。
それはだれか。
土沢氏とも考えられるが、それならもっと下流域に陣地を敷くことができたように思われる。


幾地川流域は低い丘陵が連なる地帯で、赤谷川流域の内須川集落とも指呼の間にある。
想像を逞しくすれば、鎌倉時代初期からの豪族である内須川氏は、赤谷川・幾地川流域の丘陵地一帯を領有する一大勢力だったのではないだろうか。

関郷の平野部の多くは荒川の氾濫原で、奥山荘分地頭の関氏によって鎌倉時代以降開発されていくのだが、それ以前の時代から、内須川氏は、低丘陵地の沢、扇状地、山地を開発し、生産力を上げてきた豪族だったのではないだろうか。丘陵地は資源の宝庫だし、牛馬の生産にも適している。
だからこそ、板額御前の奮戦で名高い正治3(1201)年の城氏一族の反幕蜂起の際、内須川左衛門尉はいち早く鳥坂山城の攻撃に馳せ参じることができたのだろう。

そう考えれば、幾地城は、内須川氏の勢力範囲の中にある。
現代の国号290号沿いの街道を通って関郷に侵入しようとする北朝軍をいち早く捕捉してダメージを与えることを目的に、内須川氏が構築した攻撃陣地、それが幾地城だったのではないかと、現地に立って思われてならなかった。

そんな推測を楽しめるのも、実地に現場にたったからにほかならない。これが山城探索の大きな楽しみの一つだ。

さて、下山は胎内市側へ出たので、車を置いた関川村側へは、古道を辿って戻ることにした。
この古道、今は殆ど廃道になっているが、かつては頻繁に人の行き来した道であった。
戦後しばらくの時代まで、幾地集落の子どもは、この山道を使って大長谷の小学校に通っていたという。
往時を偲びながら探索隊3人、地元の人に会うと、山菜採りではないと言い訳しながら、山道を歩いて車まで戻ったものだった。


内須川城址へ
国道113号を通ると南側に三角に尖がって屹立する目立った山がある。内須川城址はその山の上にある。
送電線が通っていて、管理用の山道もあり、多少のヤブ漕ぎもあるが、幾地城址ほどのワイルドさはない。
本丸址には、142.7mの四等三角点が据えられていた。
ここでもほぼ地面通りの遺構を見ることができた。

幾地城と比べても、これまで探索したほかの山城と比べても、それほど堅固な感じはしない。
ただ、現在は藪に覆われて見通しは効かないが、屹立した山だけに、周囲の藪が切払われていた当時であれば、見晴らしは良かったはずだ。
おそらく、周囲を見張り、四方八方に指令を出すためには重宝した城ではないだろうか。
内須川氏が領有する地域の北端を監視するためには重要な城だったに違いない。


赤谷城址へ
この城の本丸址には、かつて見事なほど大きな笠松があった。
地元では「唐傘松」と呼んで、どこからでも目立つものだった。
その松は、いつの頃か枯れてしまって跡形もなくなったのだが、今回登ってみたら、代わりの松が数本植樹されていて、背丈以上に伸びていた。
足元に、木の板が置いてあって、擦れ掛けた文字を読むと、笠松が枯れたことや代わりの松を植樹したことなどが記されていた。

ところで、まったく残念なことだが、この城址では、図面の遺構は殆ど見ることができなかった。
唯一、本丸の北方に下ったところで空堀跡を一ヶ所見ることができただけだった。
それでも、空堀跡の存在を確認して、ここが山城址であることを証明できたわけで、まずはホッとしたものだった。

図面で見ても、城の造りは簡単のように見える。
もしかしたら、村人の緊急避難用の「村の城」か、あるいはまた、烽火台のようなものかと想像した。

以上、まずは取り急ぎの山城探索記となりました。
詳しい報告と考察は、関川歴史館の会友紙「いわかがみ6月号」に載せることになっているので、そちらをお読みいただければ幸いです。

※ 南赤谷城は、赤谷城とすべきではとの指摘がありました。
城址の名称は、その城が所在する土地の地名をとるのが一般的で、南赤谷集落にあるので南赤谷城としてきました。
しかし、南赤谷の元々の地名は赤谷で、南は明治になって同一郡内に同地名がある場合区別するために上下、南北、東西など行政の便宜上つけられたもの。
そこで、ご指摘どおり、本来の地名である赤谷に基づき「赤谷城」と変更させてもらいました。
ただし、図版は書き換えてありません。

幾地城址の図面(原図は横山勝栄氏作成)と探索したコース

幾地城址に道はなく、完全武装のヤブ漕ぎ 

最初に空堀跡を発見、まずは順調 

はっきりと残っている二重堀を覗き込む 

二重堀の上の郭との深い段差を攀じ登る 

幾地城本丸址に立つ

出丸?との間を仕切る深くて広い空堀跡

小長谷側に下山、後ろの崖の上に幾地城の出丸?がある

内須川城址と赤谷城址の探索ルート

内須川城址の図面(原図は横山勝栄氏作成)と探索したコース

赤谷城址の図面(原図は横山勝栄氏作成)と探索したコース

内須川城址への登り口は送電線管理用の山道 

内須川城本丸下の帯曲輪に立つ、その下の長い切岸

内須川城本丸址に据えられた四等三角点142.7m

内須川城址の西側尾根、細い郭に浅い空堀跡

赤谷城址への登り口、ここも送電線管理用か山道あり

赤谷城本丸址、かつて大笠松があったことを示す看板
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