八ヶ岳 '14.6.29 |
山歩紀行 2015 人と交わり、草木と交わり、山気と交わり それら一瞬の表情を写真で切り取る楽しみも広がって 単独行もいいし、仲間とならなおいい そんな山歩きの楽しみを今年も綴ります |
白山 '14.7.21 |
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2015年10月7日 沼の城山で、山城址探し | |||||
沼の城山(じょうやま)約230m 新潟県関川村 | |||||
まず板碑を確認後、スキー場への車道を移動して大里峠への道に入り、別荘地の裏山からヤブ漕ぎ開始 |
歴史館主催の史跡巡りで、毎回講師を務めておられる小林さんから、山城を探しに行かないかと誘いがあった。 これまでの山城探索は、いつも専門家が見つけて図面に起こした山城へ出かけていた。自分で探すのは、今回が初めて。 歴史館館長の渡辺さんと二人、勇んでその誘いに乗った。 関川村の沼地内に「じょうやま」と呼ばれる山があるという。地理院地図に山名はないが、村発行「山岳渓流地図」には「城山」と明記されてある。 そこを探索するのだという。 初めに「沼の板碑」へ向った。地図上では、そこから南西650m程で目指す城山々頂なのだが、小川を渡らなければならないし、草薮も濃い。ここからは無理と判断して引き返し、車でスキー場への道を上り大里峠への林道に入って、駐車。 城山々頂から東に伸びる尾根が林道と交差する地点まで歩き、そこから攻めなおすことにした。尾根への入り口は、ちょうど別荘ログハウスの裏手になっていた。 城山が山城なら、この尾根に堀切がなければならないはず。荊の藪に手こずりながらも、注意深く足元を探りつつ登ったが、それらしい痕跡は見当たらない。 山頂部に登り付いたが、そこにも、均した跡も削った跡も見当たらない。人の手が加えられたような形跡は全く感じられない自然状態の起伏。 それでも諦めきれず、山頂から南西方向へ下る尾根筋を調べたが、そこはかなり急峻な岩峰。堀切を造る必要もないほどのところ。 一旦山頂に戻り、北方向に長く伸びる尾根を調べることにした。 途中、U字形に窪んだ鞍部があって、窪みの深さ5m、底の長さ7m程。人が掘ったと見られなくもないが、堀切によくあるV字形の薬研掘りとは全く違い、どうも、自然地形のよう。 ということで、沼の「城山」は「山城」ではないことを確認して、今回は撤退。 地元で「ジョウヤマ」と呼ばれていた山に、後から「城山」の文字を当てたものか。これは、地名学の知見。 小林さんの話では、麓に城址がある山を「城山」と呼ぶ例もあるとのことで、別荘地の裏手の林内を注意して見たものの、明確な痕跡は得られなかった。 ただ、その林内に、苔生して埋もれかかった墓石が横たわっていた。小林さんによれば、江戸時代の様式とのこと。 かつては墓地だった所か。やはり、沼の城山、只の所ではなさそうだ。 板碑だって、そうだ。 ちょうど、関川歴史館発行会友紙「いわかがみ」10月号の小林さん執筆連載「せきかわ歴史さんぽ」に、この板碑が取り上げられていた。以下は、そこからの抜粋。 ・地上高230㎝、厚さ54㎝、県内最大の板碑 ・梵字のバン(金剛大日如来)、その下に中房、蓮台を刻み、月輪で囲む ・紀年銘あり、応永四年(1397年) ・造立者は大旦那成空、大旦那は多くのお布施を寺院に納める檀家、財力ある有力者 ・成空は、沼城主飽浦・片貝氏の子孫 ・「温故の栞」に、沼の古城跡。佐々木盛綱の一将飽浦五郎左衛門の居城、下越後を治め出羽口の押さえとす。貞治年中より上杉憲顕に属し、姓を片貝と改めしと。 応永4年といえば、米沢城主伊達稙宗が大里峠を開くより、124年も前のこと。 沼から安角(あずみ)に通じる古道「名倉道」があり、そこは2010年に古道探索で歩いたことがあるのだが、南北朝の時代には既に通行していたとの言い伝えがあるくらいだから、大里峠開削以前から、沼は、羽越交通路の要衝地だったのに違いない。 とすれば、何処かに城址があってもおかしくないのだが・・・さて? |
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8:57 板碑入口の看板、その先杉林の奥の山が城山 |
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9:04 板碑への道 板碑は正面の杉山の中 |
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9:07 板碑 意外と大きい石碑が立っている |
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9:38 車道を移動して、別荘地の裏山へヤブ漕ぎ |
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9:58 城山への尾根上から、崖下のトンボ池 |
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10:04 城山の山頂部、人の手が加えられた痕跡なし |
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10:20 城山山頂稜線から 中央遠く朳差岳、左・大境山 右・葡萄鼻山 |
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11:21 別荘地に戻って、正面が探索した城山 |
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11:22 大里峠への山道を下る 正面が城山 |
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