綿野舞 watanobu 山歩紀行 2009.6.17 土沢山城址
 標高390m付近  新潟県関川村    

土沢山城からの眺望 大島集落と対岸に女川の合流点

堀切に続く竪堀か
 
関川歴史館主催「山城探索会」に参加。
講師は山城の権威・横山勝栄先生。

関川村下土沢集落の裏手山麓には、中世の豪族・土沢氏の居城土沢城址がある。そして、その背後の山には、詰の城と思われる山城がある。

この日はまず、その山城を目指して、雲泉寺裏手の造林用山道を登り、造林地と雑木林の境の道なき尾根筋を辿って、標高331mの小ピークへ向った。

そのピークに近づくと、堀切跡や竪堀、切岸らしい跡が現れ、いかにも山城跡という感じがしてきた。
一段と大規模に尾根筋を掘り割った崖を登ると、そこが目指す小ピーク、ブナの木の幹に「御城山」と記された板が縛り付けてあって、ここが、土沢山城の本丸跡と目されるところ。

本丸には虎口らしき処も見て取れたし、本丸の奥に続く尾根は、大きく削り取られて急崖になっていた。

講師の横山先生の話では、この急崖によって本丸は守られていて、そこから奥に続く尾根や山とは隔絶されていると思っていたが、その後の調査で、そこから奥に更に山城跡が見つかって、意外な造りに驚かされたということだった。

その本丸の先の「奥城」へ向った。
そこは、標高396m、高坪山からの尾根筋が関川村と村上市の境界となって荒川へ下るその尾根の上にあった。

「御城山」本丸背後の守りを大堀切の急崖によって固めたものの、高坪山や貝附の沢など背面からの攻撃が不安になり、改めて出城を築いたかの様な造りで、そこの守備兵にとっては、後ろの本丸との間には急崖の堀切があって、まさに背後を断って守備につくという覚悟だっただろうと想像された。

こうやって現地に立って往時の様を想像・空想するのが山城探索の楽しみ。
標高300mを超える高さの山城は、この近辺では珍しいとのこと。

これだけ高い位置に山城を築かざるを得なかった当時の事情を、様々な歴史状況を繋ぎ合わせて想像してみることも山城探索の楽しみ。
いずれ、「関川村城跡物語」にまとめてみたいと思っている。

午後は、来た道を引き返して山城を下り、麓の土沢氏居館城跡を探索した。

土沢氏は、鎌倉時代の荒河保地頭河村氏の流れを汲む豪族で、中世・戦国時代を通して活躍し、上杉景勝越後政権下、関川村で最大勢力を誇った武将。

その居城址は、土沢氏の勢力を示すように規模、造りともに見事なものだった。

大島集落が、その名が示すように島だった頃、このあたりは、今より遥かに水量豊かだったであろう鍬柄沢川と荒川が合流し、対岸には女川が合流する、水陸の交通路が交わる要衝だったに違いない。そこを押えた土沢氏の存在の大きさが、この城址から偲ばれた。

村内には、人知れず凄い遺構が眠っている。幾百年保たれてきたこのような遺跡が、これからも保たれ続くことを願って止まない。

堀切の急崖を下る
 

「御城山」の標示板
 

堀切の急崖を下る講師  さすが専門家のいでたち
 
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