綿野舞 watanobu 山歩紀行 2009.4.22 朴坂城址 
 標高156m付近 新潟県関川村    

山城直下の朴坂集落
  山桜咲くのどかな山里と戦乱の山城は、どこか釣り合わない
 
関川歴史館主催「山城探索会」に参加。
関川村朴坂(ほうざか)集落の後背に聳える朴坂山の山中に、山城跡が2箇所あると言う、地元民でもあるS歴史館長さんの案内で、そこを探索した。

1箇所目は、朴坂山の裾が急激に麓に落ち込む急斜面の上の細長い尾根上の平坦地に山城跡があった。
人工的に平坦にした場所で、S館長自らの実測による図面を配布していただき、尾根を断ち切った堀切や斜面を切り落とした切岸などの跡を図面と照合しながら実地に確認できた。

鎌倉時代、荒河保(あらかわのほ)地頭に補任された河村氏は、その後の南北朝争乱時代、南朝方に立って周囲の北朝方武将に攻められ、女川流域を根拠地にして戦ったという。
関川村史には、建武3(1336)年、河村氏の拠る蕨野城など落城とあり、結局滅亡してしまったようなのだが、朴坂城も、その河村氏に関係する城なのではないかということだった。

確かに、ここの急斜面を見れば、攻めるに難く守りに易い地形を選んでいる。
それにしても、それからおよそ670数年たっても、山中にひっそりと遺構が残り続けていることに言い知れぬ感慨を覚えた。これが山城探索の魅力だ。

登りは、城跡に続く山道を辿ったのだが、帰りは、左の写真の急斜面を木の枝を頼りにして道もない藪の中を下った。参加者はみな、こういうことが好きな人たちのように見えた。もちろん私もだが。


もう1箇所の山城跡は、そこから直線距離で5~600m離れた、沢沿いの薄暗い山中にあった。土塁や堀、土橋状のものも見て取れたが、私の直感では、ここは戦闘用の城というよりは、いわゆる「村の城」、つまりは農民である村人が戦乱時に隠れ籠もるための城ではないかと思われた。
村の城も戦乱激しい南北朝の頃、村ごとに作られたといわれている。


中世の山城については、確証はほとんどなく、多くは推測でしかない。が、それだけに、より妥当性の高い推測を積み重ねていく楽しみがある。歴史のロマンがある。だから面白い。

この急斜面の上の平らな部分に山城があった
 

山腹斜面を削って、崖と平地を作って帯曲輪にした跡が残っていた
 
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