荒川沿岸の風物、旅の出会いなど、折々に綴る      
    
綿野舞watanobuの
風物記 2013  
    2013年5月26日 洛北の蓮華寺 緑滴る庭で

天台宗寺院 洛北の蓮華寺にて  庭の緑で静寂を楽しむ(?)MargoとOkkaa

Margoに会いたくなったこともあったし、届け物もあったし、ちょっとした用もあったしで、一泊の予定で京都まで車を走らせた。

行けば、Margoのプール教室を眺めたり、一家で食事に出たり、いつもと変らない日程なのだが、今回は、蓮華寺で緑に浸ろうかというMargoの親たちに付き合った。

四六時中緑に浸っている当方としては、自然の中の緑が一番なのだが、古寺の緑ももちろん悪くはない。Margoと一緒ということになればなおのことだ。

寺の山門に修学旅行生お断りの張り紙があって、奇異に感じたが、この寺の静寂が喜ばれていて、それを保持するための一策なのだろうかなどと思いながら山門を潜った。

庭園の池の端に石仏が鎮座していて、その一体には苔が生しており、坊主頭のその石仏の頭から毛が生えたように垂れ下がっていた。
石の上に三年座れば、石の頭にも毛が生えるということかなどとユーモアを感じてしまって、何とかその愛すべきお姿をカメラに収めたいと、受付にいた若い僧侶に掛け合ってみたのだが、庭に下りての撮影は禁止ということで、採り合ってはもらえなかった。
やむなく、座敷からの望遠で拡大してみたものの、真横からの撮影では、禅の真理を醸し出すことは少し難しかったようだ。もうちょっと斜めの角度だと、それが少しは出せたかと思うのだが。

修学旅行生の件も含めて、もう少しおおらかであってほしいなどと思うのは、そもそも無理な願望なのだろう。仏の世界を論理で構築するためには、実体を感得できなければできないほどに、固くなさは不可欠となるのだろうから。

仏も庭も、写真に撮る対象ではなく拝む対象だとおっしゃる。なぜ二者択一か、両立できることをあえてさせないところが宗教の堅固さだと思えばそれもまたやむなしか。
それにしても、高野山のあの万物を包み込むような大らかさはどこからくるものか、だ。

それはさておき、帰路には、一乗寺下り松の中谷で思い切り甘いぜんざいを食べた。
こちとらは両刀使いで、甘辛どちらにもまったくこだわらない。
もちろん、そんないいかげんな自分を論理で固めることなど到底できない話だが。 
パフェに食らいつくMargoにとっても、苔生した石仏の話など、どうでもよいことに違いない。