荒川沿岸の風物、旅の出会いなど、折々に綴る      
    
綿野舞watanobuの
風物記 2015  
 
  
 9月15日 胎内市の史跡を巡る 不思議旅

名刹・乙宝寺の境内には、すでに秋の気配 

旧黒川村の臭水坪群、油の湧く池

「関川歴史館」主催の史跡めぐりに参加。秋晴れの一日、バスに乗って胎内市の史跡巡検。講師は、いつもの小林弘先生。

近くにあって名は聞いていても、いざ訪ねるとなると中々機会がない場所、あるいはまた、今回初めて知った場所などなど、行ってみればどうしてどうして、興味津々。何故にかくも不思議なモノや言い伝えが残っているのか、謎は深まるばかり。

黒川の臭水油坪・原油湧出地
しょっちゅう通っている国道7号から、ちょっと入ればすぐに行かれる所。だが、これまで、どうしてか行ったことがない場所。
古代からずっと油が湧出ている。天智天皇に献上したという、7世紀からの由緒正しい史跡。
シンクルトン記念館前の草地の水溜りには、ブクブクと音を立てて天然ガスが湧出ている。
地下資源豊富とはいえ、火気厳禁か。アリガタメイワクと、言えないこともない。

乙宝寺
これまた8世紀に創建という由緒正しさ。
講師の話では、乙(きのと)は柵戸で、岩船柵と関係しているとの説もあるとか。
この寺、何回か参詣しているが、いつも横の駐車場から入ったりして、正面から見ることは中々ない。だから、今回、正面の大石柱に国宝とあって、改めて驚いた。
新潟県の国宝は、かの有名な火炎土器だけのはず。
真相は、かつて乙宝寺に国宝三尊あり、昭和12年に惜しくも焼失。
石柱は、それより以前からあったということか。
講師の説明で、六角堂の縁の下を覗いたら、大きな石が隠されていた。古代の塔芯礎とのこと。中心部には仏舎利が奉安されていたという。
もっとも不思議なのは、猿塚。立派な石塔が2基。17世紀の作と。
毎日寺にお経を聞きに来たという夫婦猿、千年も前という昔話の猿に、これほど立派な塔を建てたのは何故か。信仰心は理屈では量られないないということか。

江上館
奥山荘の古豪名族・中条氏の本拠地居館址。
平成3~13年の間に整備されて、現在のように往時を偲ぶ姿が再現されている。
典型的な方形館で、二重の正方形をした城址。
整備前は、藪原だったとのこと。山城ではなく平地、よくもこれだけの規模の土塁が削られたりせずに残ったものだと、そのことに妙に感心させられた。

城の山古墳
国内最北の前方後円墳ではないかと、一躍話題になった古墳。
最近の発掘調査で、前方部と思われた部分の遺構・遺物は年代が違うとなったらしく、どうやら円墳ということになったらしい。
古墳の頂上に三等三角点が据えられていた。
だれも興味を示さなかったが、三角点マニアとしては、見逃すわけには行かない物件。
すぐ近くにもう一山あったらしいが、そこは、あっさりと削り均されてしまったらしい。
こちらが残ったのは、三角点のお蔭かもしれない。何しろ、三角点を破損した者には罰金刑又は懲役刑が待っているのだから。
平地部の遺跡、残る残らないは紙一重。

柴橋のほうとう様
侵入した盗賊を殺害したものの、祟りを畏れたか、慰霊のために建てた塔だとか。
盗賊の慰霊碑にしては、実に立派な石塔で、信仰を集めているらしい。
その後、相当な霊験を示したということか。
何故にまた?

鮎川掃部頭の碑
鮎川掃部頭(かもんのかみ)は、村上市旧朝日村にある大葉沢城の城主。
それが何故にまた、旧中条町の平野部のど真ん中に碑が建つのか。
碑文には、天文11(1542)年に鮎川安長が本庄繁長と争い、この地で自害と記されているとのこと。
しかし、渡辺三省著「本庄氏と色部氏」によると、繁長13歳で父の仇・小川長資を討ち、鮎川をも攻撃したのは天文20(1551)年。鮎川はその後も謙信の時代、活躍している。どうも話が合わない。
同書に、天正10(1582)年の新発田重家の反乱に、鮎川は新発田側に付き敗北滅亡とある。あるいは、この戦いでこの地で落命か。
ただし、碑の建立者は江戸時代の人、何故にまた、300年後の人が、鮎川を顕彰か慰霊か追悼か、することになったのか。
碑には、鮎川安長は新館の伊呂部長門守の許に逃れたのだとか。
色部長門守は、平林の城主。それがまた、何故に、ここに?
講師の説明では、この碑のある新館は、地形図をみると、方形館の跡だということがはっきりしているとのこと。
奥山荘最大の方形居館で、応永30(1423)年に始まる応永の大乱の頃、中条房資の居館と目されているとのこと。
天正の頃、新館宋五郎が在館、新発田の乱で、新発田方に滅ぼされたとの説もありと。
とすると、やはり、新発田合戦か。

関沢の板碑群
板碑やそこに書かれたバンは、講師・小林先生の独壇場。小生にはチンプンカンプン。
そもそも、石に刻まれた仏像が、簡略化されて、梵語一字のバンで各仏を示すようになったとは。
これを単に簡略化とみるか。
それとも暗号化、お呪い化、神秘化? それによって有難味を増そうとするのは、常套手段か。

野中の曽我兄弟の墓
こんなところにあるはずがないと、眉に唾をつけるのは、あるいは早計。
墓は、何も、遺体を埋めたところだけとは限らない。
高野山には、本能寺での死後遺体不明の織田信長の墓だってある。
曽我兄弟の墓は、全国十数か所にあるという。
分骨、あるいは形見の品、墓所の土、謂れある物品。それすらなくても供養塔でも、ありえる。
曽我兄弟の仇討ちは、あれだけ有名な演目。田舎芝居で演じるに当って、供養塔を設けて、お参りすることは大いにありうる話。

乙宝時山門前「国寶・大日如来」の碑

乙宝寺六角堂、縁の下の礎石を保護

乙宝寺境内の猿塚 

中世の名族・中条氏の居館跡「江上館」

円墳か前方後円墳か、話題になった城の山古墳

城の山古墳の発掘現場

古墳の上の三角点

柴橋の「ほうとう様」、宝塔様

新館の鮎川掃部頭の碑

関沢の板碑群 

野中の伝・曽我兄弟の墓

       ― ページのTOPへ ―