荒川沿岸の風物、旅の出会いなど、折々に綴る      
    
綿野舞watanobuの
風物記 2015  
 
  
 10月16日~21日 Margoの運動会 そして九州路

17日 Margoの大奮闘 三色対抗大綱引き

18日 吉野ヶ里遺跡 北内郭の主祭殿

16日 北陸道から、遠く白馬、朝日、雪倉
幼い頃はしょっちゅう遊び相手なっていたMargoも、今では、運動会でその成長ぶりを見るのが1年に1度の最大の楽しみになっている。
あのまとわりついていた可愛さは何だったのかなどと、同じ境遇の友人知人と話題になるが、今となっては幻のようでもあり、順調な成長の証でもあり。
人生とは寂しさに耐えることにあり、などと何処かに書いてあったような、ないような。

寂しさを紛らわすためでは決してないのだが、折角京都まで行った機会に、西国へ思い切り足を延ばしてみることにしている。
昨年は四国、ならば今年は九州。

今回の旅に向けて愛車の内部を改装して、俄キャンピングカーに仕立ててみた。後部座席とトランクルームを高床式にして繋いだら、フラットな寝床ができ、小型車ながら手足を伸ばして二人楽に寝れる。その上、床の下には鍋釜コンロに登山道具、Margoへの土産までびっしり詰まる。
もちろん旅が終れば解体撤去できる組立式。
真に按配が良くて、特許を申請すればよかったかと思っているほど。

運動会に駆けつける途中、北陸道の富山県で、まず見たかったのは、白馬、朝日、雪倉。そして、そこから日本海に続くあの栂海新道の峰々。白馬は初冠雪だろうか白嶺となったし、朝日・雪倉の山頂は、相変わらずの雲がかかっていた。
あの峰上を歩いた9月の山行を懐かしく思い出しながら仰いだ。5日後の帰路は、完全な曇り空だったが、これからも、ここを通るたびに、同じことをするだろう。来年は、そこにきっと剱が加わるに違いない。

Margoの学校の運動会は、プログラムがほぼ固定していて、毎年一階梯、出場種目が上がる。下の学年を見て、去年はあの種目だったと成長の具合を見、上の学年を見て、来年はあの種目かと、成長を予想する。子どもも保護者も、見通しが立って、中々都合がいい。
親2人と爺婆4人、一日中、砂埃をかぶりながらMargoの確かな成長ぶりを見て、感激したり笑ったり。

さて、九州へ。
壇ノ浦は、遥か昔、高校の修学旅行で来た。あの大合戦が、こんな狭い海域でのできごとだったのかと驚いたことだけは今も鮮明に覚えている。
今回来て見て、川の対岸かと思えるほどに、やっぱり狭かった。
Naruさんご夫妻は、孫たちに会うために、この海峡の橋を何回渡ったことやら。
などとOkkaaと話しているうちに、あっという間に渡ってしまった。

九州でぜひ寄ってみたかったのは、環濠集落で名高い吉野ヶ里遺跡。
青森の三内丸山遺跡を見たのは10年位前か。吉野ヶ里はまだ見ていなかった。
魏志倭人伝を初めて読んだのも高校のとき。以来、邪馬台国関連の本を何冊か読んで、どうも九州説に分があるように思ってはいたが、吉野ヶ里の望楼に登って見ると、やっぱり倭人伝の描写は九州の風土だと思う。
それに、国産み神話は火山島の誕生をイメージさせられるが、あれだって、火の国九州に相応しいような気がする。
もちろん、吉野ヶ里が邪馬台国ということではないが。

三内丸山でも吉野ヶ里でも、広場の持つ意味、大切さを改めて思わされた。地方創生は広場の復活からというのはどういうもんだろうか、などとふと考えてみた。

吉野ヶ里の近くに三潴町がある。上関城初代城主・三潴左衛門尉の出身地と目されている地。一度は現地を見ておきたかった。
三潴の名は水沼(ミヌマ)から変化したという。町の中心部に水沼公園があった。九州最大河川の筑後川が形成した筑紫平野のど真ん中。かつては低湿地だったに違いない。
真平らな土地、広がる水田、遠くの山、越後平野とまったく変らない風景だった。
干拓の進んだ現代、水沼公園は水禽類棲む湖沼公園というわけではない。大学誘致破綻のキャンパス予定地跡ということで、広い緑地になっており、林に囲まれた芝の大広場では、大勢の住民が思い思いに様々に、楽しみ寛いでいた。
まさに現代の広場がここにあった。
鎌倉期以前、 この地方の荘官だったとされる三潴氏は、低湿地を開発した地方豪族だったのだろう。
それが何故に北越後の上関城に??続きは、「上関城四百年物語」でどうぞ。


三潴町から、九重山の麓のキャンプ場へ。オートキャンプ場は、真に都合がいい。テントと俄キャンピングカーを使えば、二人別々に楽々と眠れるし、水道・流しはあるし、何よりも電源があって、カメラ・携帯などの充電が助かる。
ありがたいことに3晩とも晴天だったが、仮に雨が降ったとしても、大屋根の炊事場があるし、テントからは車中に逃げ込めばいい。
ベースキャンプ方式は、その日その日の宿を探さなくてもいいのが最大の利点だ。
車中泊族にはお薦めの方式ですぞ。

二つ山に登って、最終日の早朝、阿蘇草千里へ。噴煙を間近に見、TVで見た草千里から慌てて逃げる観光客の車を思い出して、何やら薄気味悪くなり、朝日が出るまではとじっと待って、早々に退散した。
実は、草千里は広々とした平らな草原をイメージしていて、そこを走ってみたいと、ランニングシューズにパンツにシャツに用意して行ったのだったが、どうもイメージと違う。結局、九州でのランニングはなし。これだけは、今も悔やまれる。

カーナビを自宅にセットして、あとはいつもの如く、ナビ任せ。
道の向う先は、どうやら熊本IC。道路標示に熊本城が出てきた。

熊本城といえば、加藤清正。それよりも明治9年の神風連の乱と、その翌年の西南戦争の現場。
日本近代化胎動の最後の痛み。
私など矮小にも年齢に抗っているだけだが、彼等は、壮絶にも歴史に抗った。時の流れには逆らえないことは承知の、無駄な抵抗。だが、精神の上では無駄は無駄でなくなる場合もある。
熊本城、これは寄らずばなるまい。と、いつもの如く、行き当たりバッタリの旅。ナビの行き先変更。
開門早々の熊本城に立寄った。

明後日に予定あり、明日中には帰宅しなければならない。道草を食った分スピードを上げて、一目散に帰途についた。
というような次第の九州・山と歴史の旅でした。

18日 源平の古戦場壇ノ浦を見て関門海峡を渡る

18日 吉野ヶ里遺跡 復元した環濠、逆茂木、柵

吉野ヶ里遺跡 南内郭 物見櫓 住居 広場

南内郭の物見櫓から 郭の外部にも建物群が広がる

高床式の倉庫群 その先に北内郭の主祭殿

18日 西鉄・三潴駅 上関城主三潴左衛門尉の故地

筑紫平野・三潴の風景 越後平野とまるでそっくり

20日 由布岳登山後に、阿蘇外輪山の大観望へ

21日 黎明、草千里から阿蘇山の朝焼け

阿蘇火口から立ち上がる噴煙、火口の意外な大きさにゾッ!!

 草千里で、阿蘇山からの日の出 6:38

21日 熊本城天守閣 広場には侍がチラホラ

宇土櫓 天守閣は鉄筋コンクリートだが、この櫓は本物・重文

熊本城といえば西南の役、そして神風連の乱

21日 関門海峡を渡って一路東上
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