北越後関郷 上関城 四百年物語 補足 2
第2章 上関城とは?   に関わって


1 上関城の規模について

 このページの記述は、もっぱら冊子「上関城址緊急発掘調査報告」(昭和44年関川村教育委員会刊)に拠りました。以下、この冊子を「上関城発掘報告書」と呼びます。
 上関城の城としての特徴、施設等については、同書の伊藤正一氏(当時・新潟県社会教育課文化財係長)執筆「三、上関城の性格」からの引用です。また、古代からの桂関の重要性については、高橋重右エ門氏(当時・県立村上高校教諭)執筆の「二、上関の立地」からの引用です。

2 上関城の発掘調査について

 昭和44年の上関城発掘調査は、その2年前の羽越大水害(昭和42年8・28水害)により流出した温泉橋の架け替え工事に伴い、橋の取付け道路が上関城址の一部にかかることになったことから実施されたものでした。その関係で、全面的な発掘調査にはならず、工事にかかる部分的な発掘でした。そのため、発掘箇所の遺構の年代や機能は不詳と報告されています。

 この調査の出土品「室町時代の常滑系双耳壷と古銭(宋銭)3種」は、「せきかわ 歴史とみちの館」(以下、「関川歴史館」と言います)に展示されてあります。(下の写真)



 出土品の壷に関して、報告者の奥田直栄氏(当時・根津美術館主席学芸員)の次の解説に興味が惹かれます。

 「一度竪(たて)に真っ二つに割れたものを黒茶色の接着剤で接合してある。漆であろうか?古瀬戸あたりと違って雑器であったに違いないが、質実な生活態度がほのみえる。」

 関川歴史館の展示プレートには、「三潴左衛門尉の子孫が使用したと思われる」と説明書きがあります。
 城主の三潴氏をはじめとして、家臣も住民も、みな質実に暮らしていた往時の生活が偲ばれて、ほんの近年まで、このような生活が当たり前だったのだが・・・・などと、つい思ってしまいます。