北越後関郷 上関城 四百年物語 補足 3
第3章 謙信の使者・三潴出羽守政長  に関わって


1 永禄4年の政長の上洛について

 黒田日出男著「謎解き 洛中洛外図」(岩波新書)に、次のことが紹介されています。
 「(謙信公)御書集」という、謙信時代の文書を編年体にした文書があって、そこに、次のことが書かれているというのです。

 「永禄四年十二月に、将軍義輝よりの使者大館藤安が越後に到着し、謙信を関東管領に任命し、義輝の諱の一字「輝」を賜った。そこで謙信は輝虎と名乗ることになった。その御礼として謙信は、三潴出羽守を使者とて京都に派遣し、太刀一腰・御馬一疋・黄金二百両を、将軍家に献上したのであった。三潴出羽守に対しては将軍義輝より御刀一腰が与えられ、彼は無事に越後に帰国した」
 
 「諱」とは「いみな」と読み、実名のことです。主君から家臣に実名の一字を下賜することを偏諱ということは、物語編で書いたとおりです。人の名を呼ぶとき、実名で呼ぶことは憚られていたことも、物語編に書きましたが、この慣習は近年まで続いていたのではないでしょうか。直接名前を呼ぶのを避けて、正式には官名を呼ぶわけですが、それがない場合は、住んでいる地名とか、生まれた順番(二郎、三郎など)とか、屋号とか。

 ところで、「上関城発掘報告書」には、「六、上杉家臣三潴家系」と題して、横山貞裕先生(当時・国士舘大学助教授)が三潴家の家譜を載せています。そこには、「二代 三潴出羽守」の記事として、次に様に書かれています。

 「謙信公御代下越後荒川城居住。時に庄内大宝寺と御取合之刻一方の将を命ぜらる。永禄十二年正月十三日御書を賜わり謙信公の御一字御拝領之節、将軍家へ御使者命ぜらる。将軍家より肥前国吉之御刀を拝領。」

 この文書では、政長が将軍への使者となったのは、永禄12年となっていますが、この時には、すでに将軍義輝は亡くなっているので誤記と思われます。後で述べる「三潴町史別冊」にも、「御家中諸士略系譜(抄)」という文書が掲載されていて、三潴出羽守の項には、これと同じ内容が記され、年も同様に永禄12年となっています。横山先生の記事は、この文書が基になっていると考えられますので、元々の三潴家の記録が永禄12年となっていたものと思われます。
 武家の系譜は、それまでに家に残っていた文書を整理して藩庁に提出するときなどに作成されることが多かったようです。その際に、年数を写し誤ることはありうることです。この場合は、永禄五年の五を十二と読み誤ったことが十分考えられます。

 年数の書き間違いは現代でもよく起こります。この物語を書くために吉川弘文館発行「日本中世の歴史」全7巻を参考にしていますが、歴史図書発行では定評のある同社のものでさえ、所々に和暦と西暦のずれが目に付きます。
 気をつけてはいるつもりですが、この上関城物語にもないとは言い切れません。まあ、中世人の大らかさに倣って、細かいことには目くじらを立てないで読み進めていただければありがたいと思っています。

 ところで、福岡県三潴郡三潴町(現在は合併して久留米市)が平成9年に発行した「三潴町史別冊 中世の豪族三潴氏の歴史」には、
「家勤書(仮題) 延宝五年七月」と題した文書が掲載されていて、そこには、出羽守政長が「義輝公方様より謙信様一字被遊御拝領候節、御使者、右之出羽へ被仰付罷登、公方様より肥州国吉之御刀拝領仕、今以所持仕候」と書かれています。
 内容は、これまで紹介してきたことと同じですが、最後の「今以所持仕候」と書かれていることに注目されます。延宝5年といえば西暦1677年、永禄5年から115年経っても三潴家で大事に所持していることを記しています。この刀が現在はどうなったか、残念ですが今のところ筆者には不明です。

2 政長の将軍拝謁の場面について

 これまで紹介してきたように、政長は暮も押し迫った永禄4年12月23日に京に上り、翌年正月13日に将軍への使者としての使命を果たし刀を拝領しています。
 この時に、将軍に直接拝謁できたのかどうかは、記録に明確に書かれていなく本当のところは定かでありません。したがって、将軍謁見の間での一こまは推測です。普通であれば、政長は陪臣(家来の家来)ですので、主人の主人である将軍に拝謁することなど、できないことでしょう。将軍の家臣を通して間接的に使者の役を果たしたのかもしれません。
 が、ここでは、あえて直接拝謁する場面があったのではないかと推測してみました。
 その理由は、一つは、名代ということであれば、使者を派遣したその人として扱われるのではないかと考えたこと。もう一つは、物語に書いたように、将軍義輝の側の事情として、格式ばっている余裕などなかったのではないかと思えたこと。さらに言えば、義輝はそれまでの貴族化したようなひ弱なイメージのある公方ではなく、剣豪として豪儀な気性をもつ武人であったことを思えば、格式よりも実質を重んじたのではないかと思えてならないこと、この三点ですが、とりわけ三番目の理由は、この時の歴史を興味深いものにしてくれています。
 なお、義輝の時代の将軍御所の様子は、国宝「上杉本・洛中洛外図」に描かれていて、こちらのページでも見ることができます。
 この上杉博物館のトップページ下部に掲載されている国宝「上杉本洛中洛外図屏風」に描かれている屋敷が将軍義輝の御所だとされています。政長が使者として赴いた場所をイメージできると思います。


3 三潴出羽守政長の上洛から物語を始めたことについて

 「関川村史」(平成4年関川村発行・以下、村史といいます)には、三潴氏の事跡も丁寧に記述されていますが、政長の上洛は取り上げてありません。これだけの大活躍なのに、不思議なことです。
 「発掘報告書」(昭和44年刊)には、政長の上洛を記した家譜が載っており、村史の中世を担当された高橋重右エ門先生がその典拠の「御家中諸士略系譜(抄)」も「家勤書(仮題) 延宝五年七月」も、ご存知ないはずがありません。
 思うに、それらの文書には永禄12年のことと記されていたことが、おそらく疑念をもたらしたのではないでしょうか。永禄12年の正月といえば、この物語の次の項で取り上げる大事件があったときで、政長が京に行っている余地など全くなかったのです。ですから、村史に取り上げることはできなかったのだと思います。
 政長の上洛が永禄4年末から翌5年正月であったことが分かったのは、黒田日出男氏が洛中洛外図の謎を追っていて、偶然、東大史料編纂所にあった「(謙信公)御書集」を同僚から紹介され、その書の中から冒頭に紹介した記事を見つけたことによると、「謎解き洛中洛外図」に述べています。この本が出版されたのは、1996年(平成8年)です。政長上洛が永禄4年だったことは、黒田氏が見つけるまでは未発見だったのですから、村史に記載されなかったのも無理からぬところです。

 ということで、上関城四百年物語では、「関川村史」に記載なき大事件ということで、永禄4年の三潴出羽守政長上洛という華やかな歴史のひとコマから物語を始めることにしてみました。
 歴史は、とりわけ中世史は、筆者のような全くの素人でも、こんなふうに新たな事実に出合っていける楽しみがあることも分かっていただきたかった、ということもあります。


 なお、当時の中央政権の事情や全国的な動きについては、吉川弘文館発行「日本中世の歴史」全7巻(平成21~22年)を、新潟県内の事情や動きについては、新潟県発行「新潟県史 通史編2中世」(昭和62年)と斎藤秀平著「新潟県史 鎌倉時代編」(野島出版・昭和34年)「同 上杉時代編上巻」(同・昭和36年)を、いちいちの引用は注記しませんがこの物語全編を通して参考にさせてもらっています。