北越後関郷 上関城 四百年物語 補足 4
第3章(3) 謙信の本庄攻め・平林城主の戦死  に関わって

1 本庄繁長の叛乱について

 永禄11年に勃発したこの大事件については、当然のことながら県史に関わる参考図書にはもれなく記載されています。中でも、斎藤秀平著「新潟県史上杉時代編上」(以下、斎藤「県史」)は日付をおって詳述しており、大いに参考にしました。また、新潟県発行「県史」(以下、県版「県史」)も、この時の情勢分析を端的に整理して述べています。
 本庄繁長については、渡辺三省著「本庄氏と色部氏」(昭和62年)に詳しく載っていて、この書も大いに参考にしています。

 繁長反乱の理由については、「関川村史」に簡潔に述べてあります。
 なお、県版「県史」には、繁長反乱の持つ意味として、反長尾(反謙信)の挙兵はもはや国主の座をめぐる主導権争いではなく、国外勢力と結んだ領国争奪戦の一環としてのみ意味を持つことを示したとし、それほどに、国内での長尾の支配は安定していたと述べています。
 天文19(1550)年2月、越後守護上杉定実が死去し、守護上杉家が途絶えると、室町幕府は、謙信(長尾景虎)に白傘袋と毛氈鞍覆を許し、名実ともに越後国主としての地位を認め、それ以来、越後国人領主は、謙信を別格と見ざるをえず、傘下に入ることになります。そして、それは、永禄4(1561)年の関東管領上杉家の名跡を継ぐことでいっそう確固としたものになります。

 ですから、繁長叛乱の時点で、遠い昔の先祖の出自や家柄の上下など問題にする武将はなかったのかもしれません。それは、むしろ謙信の父・為長の時代の越後国人領主の気分だったのだろうと思います。が、そのような気分は、諸士の底流には流れていただろうということで、あえて家の上下観もあったとの説をあげてみました。ただし、繁長自身にはそのような気分はなかったであろうことは、物語に書いたとおりです。

2 謙信の人物像について

 歴史上の人物は、偉人になればなるほど生身の人間から離れ聖人君子か英雄豪傑の如く語られがちです。が、それでは歴史は面白くありませんので、あえて、アドレナリンの分泌などを持ち出してみました。
 暁教育図書発行「人物探訪日本の歴史 戦国の武将」に、奈良本辰也氏が「実像・上杉謙信」と題した文を載せていて、そこには、謙信が、ときどき異常なほど興奮することがあったとして、鶴岡八幡宮で上杉家累代の重臣の一人をわずかな落度で怒りつけ、衆の面前で烏帽子を叩き落し、関東の多くの武将が離れる要因になったなどのエピソードを紹介しています。もちろん、興奮が収まれば人一倍冷静で思慮深かったことにも触れていますが。
 アドレナリン云々は筆者の全くの思いつきですが、当らずとも遠からずかななどと思ってしまいます。素人の筆者などは、こういう人物像を中心にした歴史に興味を惹かれます。


3(4) 三潴出羽守政長父子の活躍  に関わって

1 政長の役割について

督軍について
 色部勝長の戦死に関して、永禄12年正月13日付、謙信からの三潴出羽守殿宛文書が、「上関城発掘報告書」掲載の横山貞裕先生の文章「五、三潴氏の活動について」に全文掲載されていて、先生の解説も詳述されています。これによると、ごくかいつまんで言うなら「色部のことは弥三郎(顕長のこと)に継がせるから心配するな。それよりも、藤懸城の方が心配だ。早く行って、大川に攻めさせよ。」と言っているように読み取れます。
 「関川村史」も、この事件での政長の役割としては、大川氏との協力による羽越の分断が任務だったとは書いてありますが、勝長戦死についての役割には触れていません。

 しかし、神林村教育委員会発行「越後国人領主色部氏資料集」(昭和54年)には、三潴出羽守が勝長後継の顕長を後見したと書いた箇所があります。
 また、渡辺三省著の前掲書には、阿賀北の督軍三潴政長に、謙信が書状で前後処置を命じたと書いてあります。
 斎藤秀平著「新潟県史」にも、色部文書を典拠に、輝虎は関川村の人三潴政長をして勝長の子顕長を輔けしめたと書いてあります。

 これらのことから、政長は、平林城主の戦死に際して督軍という重要な役割を担っていたと解釈しました。

 謙信から政長宛て文書は、色部処置の件は冒頭に少々書かれているだけです。文書の大半は、戦況の分析、それも駿・甲・相、つまり関東方面の信玄の動きを知らせ、言ってみれば、「ここ(繁長対策)でもたもたしている場合ではないぞ」と急かし、本庄城はもうすぐ落ちるから、藤懸城陥落を急ぐよう指示しています。
 「其元之稼簡心に候 三郎次郎にも此段可為申聞候」という末尾の文からは謙信の気持ちが伝わって来るような気がします。三郎次郎とは、藤懸城を攻めている大川氏のことです。その弟が繁長側で藤懸城に籠もっていることは物語に書いたとおりです。

 謙信の文書は、政長に「大川と力を合わせて藤懸城を早く攻めよ」と催促しているようにも読めますが、政長が督軍だったとの立場で読むと、「お前の督戦が最も肝心だから、出掛けていって、大川に、藤懸城を落すことが如何に重要な事か、説明しろ」という内容にも読めてきます。素人の筆者が、あまり大それたことを言うのは控えなければなりませんが。

藤懸城攻撃について 
 ところで、その藤懸城についても、説は分かれています。斎藤秀平氏は位置不詳とし、横山貞裕氏は山形県東田川郡櫛引町(合併して現在は鶴岡市)にあったとしています。渡辺三省氏は大川本拠地、つまり府屋としています。現在、村上市府屋に残る大川城址には藤懸館との名称がついた郭があります。

 その渡辺説によると、大川氏は繁長派だったが、謙信の大軍来襲を前に兄・三郎次郎長秀が謙信に降伏しようとしたものの、繁長派の二人の弟・孫太郎、藤七郎が反対し、有力重臣も反対して、やむなく兄の方が一部家臣を連れて城を脱出したのだとしています。
 大川氏による藤懸城攻撃がうまくいかなかったのは、そういう経緯があったのかもしれません。攻撃がうまくいかず引上げた際には、「三潴の催促により引き返したのだ」などと言い訳がましく報告しています。
 藤懸城の攻防を含んで、大川氏については、渡辺氏が同書に詳しく記述しています。興味深い内容を多く含んでいて、史料の乏しい中世地域史を解釈するうえでは含蓄のある記述が多数あり示唆に富んでいます。


2 三潴左近大夫長能について

 政長の子・左近大夫長能については、上関城主としは最後の三潴氏ということになりますので、この上関城物語の終末を飾る人物として取り上げることにしています。
 ただ、政長の活躍と密接に関係する庄厳城の城将としての活躍だけをここで取り上げました。

 その長能が山奥の城に12年間留め置かれたと聞くと、なにか冷遇されたように響きますが、代々が上関城主であることを思えば、その役割の重要さに合点がいきます。
 上関城は出羽内陸米沢との接点で、平時の交易、戦時の警固の要所ですが、米沢に通じる山路は物語にも書いたように幾つもありました。上関城のある荒川の右岸羽越国境の山のどこを越えても山形県の小国盆地につながります。戦時には特にその山岳地帯の峰越えの道々を押える必要があります。庄厳城を押えることで、上関から高根までの羽越国境の山越え道を監視することができたのでしょう。
 もちろん、いち早く庄厳城と下渡島城を押えさせたということは、本庄(村上)から庄内方面への通行を押える上でも重要なラインですから、初めのころ繁長につこうとする様子を見せていた庄内の大宝寺氏を牽制することにもなり、上で述べた大川氏と繁長の連携も断てるという観点からの作戦だったでしょう。
 謙信の戦略眼の確かさであり、それに十分応えることのできた三潴氏一族の働きというふうに解釈できるのではないでしょうか。

 その上、繁長の反乱が収束した後も長く庄厳城に留めたということは、その後も出羽方面は油断ができなかったということでしょう。特に米沢の伊達氏は、常に虎視眈々と領土拡大を狙っていましたから、国境警固を専門とする三潴氏には気の抜けない日々が続いたことと思います。物語では、そのあたりを強調しておきたいと思いました。