北越後関郷 上関城 四百年物語 補足 5
第4章 川中島合戦における三潴掃部介利宣の活躍  に関わって


1 謙信から将軍義輝への報告書について


 三潴家に伝わる文書「義輝公様へ長尾景虎様より注進状の写し」が、「上関城発掘報告書」掲載の横山貞裕氏「五、三潴氏の活動について」に詳しく記載されています。それによると、28日信州下米宮に於いて一合戦した際の討取惣数として8項目列記し、その中に物語で述べたように三潴掃部介の記録も載っています。
 同じ「発掘報告書」掲載の横山氏執筆記事「六、上杉家臣三潴家系」には、「初代 三潴掃部介  下越後荒川城に居住」としてあって、その事績には「謙信公に属し天文二十三年信州下米宮に於いて、甲州勢と一戦の際、朝比左京介武田飛騨守両上下一千三百余を諏訪部次郎右衛門と掃部介にて討取る」と記載されています。
 「村史」では、「上杉家中諸士略系譜」の記事として「三潴掃部介(利宣)は謙信公に属し、天文二十三年信州下米宮に於て甲州勢と御一戦の刻、朝日奈左京亮、武田飛騨守両上下一千三百余諏訪次郎右衛門と掃部介と両人にて討取忠信仕る」とあると記しています。
 それぞれの文書には、掃部介の「介」が「助」だったり、朝日奈は朝伊奈、朝比奈だったり、諏訪部の「部」がなかったり錯綜しています。また、掃部介だけで実名はありませんが、歴史館に展示されている三潴氏系図には「掃部介利宣」となっていますし、「村史」はカッコ書きで補足しています。

 また、三潴家系の記事には、天文23年とありますが、現代の学説では、最初の合戦は天文22年とされており誤記かと思われているようです。ただし、川中島合戦の記録は様々にあって、江戸時代には天文23年という説も有力だったようで、米沢上杉藩では、23年と記録してきたのではないかとも思われます。

 漢字の違いや年数の違いは、現代のようにコピー機も写真もない時代にあって、言い伝えと文書の書き写しで伝えてきた長い年数を思えば、中世人の大らかさに倣って、細かいことにはこだわらない方がいいように思います。


2 荒川伊豆守について


 「村史」では、永禄4年の合戦について、「「上杉史料集」では、武田軍本陣に単騎突入したものは荒川伊豆守としている」と記していて、そのあと、謙信から垂水源二郎あての感状を紹介した箇所で、源二郎は河村氏の子孫であるとして、「河村氏は荒川氏を称したこともあり、荒川伊豆守は垂水源二郎の通称名とも考えられる」としています。
 「村史」を執筆された高橋重右エ門先生は、別著「先人からの贈り物」では、荒河伊豆守と垂水源二郎とは同一人物であろうといわれていると記しています。
 一騎打ちの大豪傑が荒河流域の武将であったとすれば、なかなか興味深い話です。


 この荒川氏については、さらに興味深いところがあります。

 斎藤秀平著「県史」によれば、永禄2年、謙信が上洛・将軍義輝に拝謁して帰国した際に、お祝いの太刀を献上した武将として、44名中30番目に荒川氏があり、伊豆守と添書きがしてあると記しています。その44名の武将で荒川氏のほかに阿賀北衆らしいのは、中条(筆頭)、本庄(2位)、色部(4位)、加地、新発田、竹俣、大川くらいで黒川はなく、落合、関(下)、土沢、三潴などはないようです。
 荒川伊豆守は、なかなかの有力武将ということになるのでしょうか。

 ところで、少し時代は遡りますが、同じ斎藤著「県史」の天文8(1539)年にも興味深い記事があります。
 この年、越後守護の上杉定実が米沢の伊達稙宗の子を養子にしようとして阿賀北衆が騒動する大事件が起きますが、このときの守護代長尾晴景が越後諸将に相談しようと事情を知らせた相手として、色部・竹俣・荒川・黒川・加地・安田・中条・鮎川等の人々をあげています。その中で、「荒川氏という姓が記載されてあって、夫れが何人(なんびと)が名乗ったのか明瞭でない」と書いています。

 そもそも、三潴氏の居城が荒川城と言われていたとしたら、日常、通称で呼び合うことの多いこの時代、「荒川殿」とか「荒川」とか呼ばれていたのは、三潴氏が一番近いように思われるのですが、三潴氏に伊豆守を名乗った人がいないことがネックです。

 「村史」によれば、垂水氏の祖先は河村氏だということで、河村氏は荒河保の地頭でしたから、「村史」で高橋先生が言うように荒川氏を名乗れたのかもしれません。しかし、荒河保の河村氏は南北騒乱の後滅亡(県版「県史」によれば河村氏滅亡は観応2(1351)年)し、謙信のこの時代には、三潴氏は、旧荒川保の坂町辺りを領地として与えられていたようで、なおのこと、荒川氏を名乗るのにふさわしいような気がしてなりません。

 
 なお、県版「県史」にも斎藤「県史」にも、建長7(1255)年の記事で、荒河保地頭河村景秀は荒河景秀と呼ばれ系図に「荒川」を名乗ったことが記されています。それから96年後の観応2(1351)年に、荒河氏は滅亡し、所領荒河保は守護上杉氏の手に帰しています。
 「村史」によれば、その河村氏の子孫を名乗る人物が垂水に現れるのは、それから162年後の永正10(1513)年のことです。
 斎藤「県史」では、元応2(1320)年の記事で、荒河保地頭河村政秀の未亡人黒川垂水が甥と土地の領有権を争ったことが記されていて、「村史」は、この未亡人が関郷湯沢の垂水を領有していたとしています。これも、垂水氏が現れる永正10年より193年も以前のことです。つまり、整理すると次のようになります。
  1255年(建長7) 荒河保地頭河村景秀、荒河氏を名乗る
  1320年(元応2) 荒河保地頭河村政秀未亡人垂水、垂水を領有
  1351年(観応2) 荒河保地頭河村氏滅亡
  1513年(永正10) 垂水の地に、河村氏の子孫を名乗る垂水氏出現
 未亡人垂水は、黒川の地頭和田茂長の娘ですから、その系統が、河村氏滅亡の後も黒川氏の保護を受けながら垂水の地で200年命脈を保ち続け、謙信の時代前後に勢力を確保し、先祖の荒川氏を名乗ったということになるでしょうか。
 
 いずれにしろ、なぞの荒川氏です。

 三潴氏の領地のことは、このあとの物語に続きますし、天文8年の守護養子騒動についても、物語のずっと後のほうで取り上げることにしたいと思っています。


3 三潴氏の軍勢について

 前記の合戦報告に、三潴氏と諏訪氏で1300人を討取ったとあります。打ち負かしたという意味かと思いますが、話半分としても約600人の敵勢に勝つには、当然、同等以上の軍勢が必要で、三潴氏と諏訪氏が同数だと仮定して、少なくても300人くらいの軍勢は引連れていたと計算してみました。
 全くの当て推量で何の根拠もない数字ですが、もし仮に300人として、そのうちの半数は非戦闘員の人足とみて、三潴氏の兵力は150人くらいでしょうか。これくらいの人数の兵力が三潴氏の下にあったと仮定できるでしょうか。もちろん、城への常置兵、領地での諸役などに割く兵力も必要でしょうから、200人くらいの兵力をもっていたとみなせるでしょうか。
 これくらいの兵力となると、江戸時代の普通の小藩並みではないだろうかと思われます。兵農分離以前ですから、多くの家臣は領地内に散らばり、名主などを従えて兵を養っていたのでしょうが、合戦時には、兵だけでなく同数くらいの非戦闘員も領地の農民から動員されたことでしょう。
 こんなふうに仮定の計算をしてみると、三潴氏は、江戸時代の大名並みの兵力(家臣団)を持っていたことになりますが、はたしてどうなんでしょうか。

 景勝の時代になって、文禄3年定納員数目録では、三潴左近介分として、11人183石3斗と記されていることと比べると、領地没収の憂き目に遭った後のこととはいえ、極端に違いすぎるようにも見えます。

 戦記1300人からの想定計算がそもそも無理なのかもしれません。

 いずれにしろ、上関城とその周囲から、大勢の兵と非戦闘員が信州川中島まで戦いに動員され、勇敢に戦ったことは否めない事実でしょうし、あるいは、関東の合戦にも駆りだされたことも多々あったのではないでしょうか。。