北越後関郷 上関城 四百年物語 補足 6
第5章 戦国時代の上関城  に関わって


1 上関城の想像図について


 「上関城発掘報告書」には、二の丸東側の東西20m南北15mくらいの範囲を発掘した結果が記録されていますが、その狭い範囲の発掘でも、深さ50cmで幅6m×2.8mの窪みが発見されています。このことは、城内には、半地下式で、外部からは土塁の陰になって絶対に見えないように低く作られた建物があったことを示しているのではないかと考えます。それは、貴重品を保管する倉庫にふさわしい造りといえるでしょう。そのような倉庫は、厚い土壁で塗り固めてあって、外側は雨水を防ぐために板材などで囲われた蔵造りだったと想像されます。このような建物は二の丸だけでなく、本丸部分にも当然あったと思われます。
 「城跡図」には、本丸、二の丸、三の丸などの郭の名称が書いてありますが、これは、近世の城の一般的な名称を当てはめたものであって、必ずしも当時からこのように呼ばれていたわけではありません。上杉謙信亡き後の御館の乱で景勝がいち早く押えた春日山城の本丸は実城と呼ばれていました。その実城には金蔵があったとされていますから、上関城の本丸とされている奥の郭も当然そうだったと考えて間違いないと思います。
 なお、この窪みからは、鉱滓も出土していますから、何らかの金属の冶金も行われていたのでしょう。荒川の上流域は、金・銀・銅・鉄などの鉱物資源の産出地ですから、それらの生産に上関城が大いに関わっていたことは、これまた間違いのないことと思っています。


2 上関城と三潴氏の役割について

 県版「県史」には、越後国における河川と国衙領の関係が詳しく記されていて、大変参考になります。(同書p22~24)

 まず、越後国の河川の支配権は本来国衙側が掌握していたとし、その根拠として、永万元(1165)年正月の「越後国司庁宣案」で、小泉荘を貫流する瀬波川(現三面川)が国衙領であったことが明確だとしています。
 国衙とは、越後国の役所のことで、現代で言えば県庁プラス国の出先機関ということになるでしょうか。そのトップが、古くは国司、この物語の時代は守護ということになります。謙信の時代、越後守護はおらず、その代わり謙信が国主であったことは、前に述べたとおりです。

 そして、県版「県史」では、荒河保の場合も、そこを貫流する荒川の流れそのものが国衙の進止下にあったと記しています。進止下とは支配下という意味です。このことは、荒河保の内だけに限った話のように読み取れなくもありませんが、そうではないと思います。
 県版「県史」は、「小泉荘本荘のなかにも瀬波川の支配権を根拠として、この川に生活の糧を求める人びとを在家として掌握することを契機とした国衙領の保が成立した」と述べて、下新保、中新保などの地名にその痕跡が残っているとしています。
 本来私領であった小泉荘の中であっても、瀬波川は国衙領であって、川によって生活する人々は国衙の支配下にあったということですから、当然、荒川の場合も、同じことが言えるでしょう。荒河保は元々国衙領ですが、その上流部の私領奥山荘の中であっても、荒川の流れに沿って暮らす人々は国衙の支配下にあったとみて間違いないことと思います。
 ましてや、上関城は、国の役所としての関所ですから、荒川の流れとそこに暮らす人々を管轄するのは当然のことだったでしょう。

 県版「県史」は、さらに続けて、越後国においては、「荒川や瀬波川などの大河川のみならず、中小河川のかなりの部分を国衙側が掌握していたことが予想されることは重要である」とし、井上鋭夫著「山の民・川の民」(1981年平凡社)に掲載の石井進の次の指摘を取り上げています。
 「荒川と瀬波川が公領であったことから、河川が交通・運輸の大動脈として、また漁業の場として重要性をもつものであり、耕地面積の大小だけではとらえきれない公領の大きな役割を想定し、さらに公領(河川)が多くの荘園をつらぬいて一つの地域的組織体をまとめ上げていく、接着剤にも似た役割を担っていた」

 以上のことから、上関城とその城主三潴氏の役割の重要性がわかると思います。

 なお、関所の通行税について、物語では省きましたが、関銭のほか、渡銭、津料などもあります。これらの金額も含めて、当時の関所の役割について、県版「県史」p372に具体的に紹介されています。


3 上関城の周囲の領主たちについて

 垂水氏については、「補足5」の荒川氏のところで紹介しましたので、それ以外の領主たちについて、主として「村史」に依拠して、この物語に関係する部分だけを簡潔に紹介しておきます。

下氏
 建治3(1277)年に、奥山荘地頭和田時茂は、荘を孫三人に三分し、これが関沢氏、中条氏、黒川氏の始まりです。そして、時茂は、娘の子(つまり外孫)の胤氏(父は三浦胤泰)を黒川の分地頭として関下の地に置いて、これが、関下氏または下氏の始まりです。
 「桂関」のある関郷の下手だから関下、それを短く関とか下とか言うようになったのでしょう。
 分地頭として関下の地を開発するために、当時は、屋敷を領地の開発や水利の中心部に置くのが普通で、まだ山城などは必要なかったでしょう。それが、貞治2(1363)年になると、黒川時実が関郷の帰属を争い、これ以降、関下氏は黒川氏の家臣としての位置づけとなります。この頃になると、黒川氏も中条氏も親戚同士の土地争いには凄まじいものがありましたから、山城が必要になったものと思います。
 天文9(1540)年には、米沢の伊達稙宗が、その子を越後守護の養子として送ろうとして下伊賀守重実に道中の警固を要請しています。下氏は、この頃は、黒川氏の家臣ではなく、守護の被官になっていました。
 そして、天文21(1552)年に、下伊賀守は、謙信の怒りにふれ、林泉寺で切腹。さらに、天正6(1578)年には、下伊賀守の子勝蔵久長が、御館の乱で景虎方につき、翌年赤田合戦で討死しています。このように、下氏は、悲惨な運命を辿ってしまいます。
 文禄3(1594)年の「定納員数目録」には、色部氏の知行の中に、山上分として貝付村、女河村、関村とありますから、下氏の領地関村は、それ以前に既に山上氏の領地となり、さらに文禄の頃には、色部氏の領地となっていたことが分かります。恐らく天正6年の御館の乱敗戦で、下氏は領地没収の憂き目に遭ったのでしょう。ただ、同じ文禄3年の目録に下伊賀守の子・下新兵衛が記載されていて、大山衆に入れられて(家臣扱いか)系譜は保っています。

落合氏
 和田時茂が、娘の子胤氏を黒川の分地頭として関下に置いたとき、胤氏の次子泰澄は落合の地に居を構え落合氏を名乗ったとされています。地頭系の領主は、居を構えたところを名字に名乗っています。和田氏は元々三浦半島の和田が根拠地で和田氏を名乗り、その一族は、居を構えたところで黒川氏や中条氏を名乗ったのと同様です。
 余談ですが、三潴氏が、桂氏でも関氏でも上関氏でもなく、あくまでも発祥の地である筑後の三潴氏を名乗り通したのは、地頭系の武士ではないことの証拠と思われます。
 落合とは、上関と下関の中間で、小字名でもその地名が残っています。古い時代の荒川はずっと北側の沢や湯沢の集落下方を流れ、逆に大石川は長峰山の麓を流れていて、両川は、今の温泉橋の下流で合流していたといわれています。今の荒川の右岸にも上関の地籍があるのは、その名残なのかもしれません。その合流点には、湯蔵川が流れ込んでいますし、下関駅の裏山から流れてくる新関沢も昭和30年代までは湯蔵川の合流地点と同じような位置に流れ込んでいました。上関と下関の間には湿地帯があって、そこに流れ落ちてくる沢の水も落合の地で荒川に出ていました。
 このように落合の地は沢々が集まる低湿地ですし、氾濫源の河原を含めてそこの荒野を農地として開発することを落合氏が担当したのでしょう。この落合の地も係争の地となることもあって、ときには隣の内須川氏との争いも起きています。関下氏の一員として落合氏も必死で土地を守ったことでしょう。

土沢氏
 土沢氏も垂水氏と同じ荒河保地頭河村氏の子孫とされています。正応5(1292)年の奥山荘と荒河保の境界争関係の史料に、河村新太郎秀国という人物が鍬江沢流域に居住しており、荒河保地頭河村氏から一分地頭として派遣された土沢氏の祖とされています。
 本家の河村氏が南北朝の動乱で消滅した後も土沢氏は活躍しています。
 永正7(1510)年に、越後守護上杉定実と守護代長尾為景(謙信の父)が、越後に攻込んだ関東管領上杉顕定・憲房父子の軍と戦った際、定実方の土沢掃部亮が戦功を挙げ、褒賞として蒲原郡粟田口に土地を貰っていますし、天正3(1575)年の軍役帳では、関郷最大の武将として黒川氏の同心に付けられています。
 「色部氏年中行事」でも、土沢氏は正月5日出仕の衆のうち「殿」と敬称を付けられた4人の一人で、文禄3年の目録では、色部同心平林在番土沢左京が載っていて、平林城を守っていた、有力武将だったことがわかります。
 下土沢集落に、土沢氏の居城址が残っていて大規模な城だったことが分かります。また、その背後の山、標高300mを越え400m近い高さまで幾重にも堅固な備えの山城跡が残っています。山城としては珍しいくらいの標高にあると言われているくらいのところにあり、居城の規模と合わせて、土沢氏の勢力の大きさが分かるような気がします。

内須川氏
 建仁元(1201)年、城資盛が鎌倉幕府に反抗して鳥坂山に挙兵した戦いは、叔母の板額御前の奮戦で有名ですが、このとき幕府からの討伐軍として佐々木盛綱が派遣されます。その討伐軍に内須川左衛門尉が参加して奮戦しています。この内須川氏は関郷内須川の土豪とされています。
 源平の争乱で、それまで力を振るっていた平氏方の城氏が敗北し、空白地帯となった越後国には源氏方の関東武士をはじめ他国の武士たちが入ってきて力を振るっていました。ですから、まったくの生え抜きの土豪ということであれば、内須川氏は、関郷の歴史にとってはまさに貴重な存在といえると思います。
 内須川氏は恐らく、城氏の時代には、関郷の片隅で圧迫されていたのではないでしょうか。その城氏が敗北し、ようやく我が時代が来たと思っていたとき、城氏の残党が中条鳥坂山で挙兵したと聞いては、勇躍して城氏討伐に立ち上がったことでしょう。下関城の西隣、標高142.7mに内須川氏の山城跡が残っています。
 内須川氏は、その後、文明12(1480)年、黒川氏の相続問題でも跡継ぎへ忠誠を尽くすという起請文に、名を残していますし、慶長3(1598)年の上杉会津国替の際も、景勝に従っていて、江戸時代を通して家系を保ったようです。関郷生え抜きの米沢藩士です。


4 戦国の三潴氏について

 神林村教育委員会発行「色部氏史料集」掲載の「文禄三年色部氏差出 被下置知行定納覚 」に、「色部領御加恩山上分」として、貝付村170石8斗、女河村56石4斗8升、関村35石とあり、さらに「色部領御加恩三潴分」として、酒町村132石9斗5升、中目村238石5升とあります。
 「村史」に、慶長の越後国郡絵図からの関川郷内各村の本納高を一覧にして示していますが、これによると、「せきしもまち」は36石415となっていて、色部史料の関村35石とほぼ合っています。また、上関村とされる「せきかわくち村」は29石500で、「六本杉村」500とあわせても、三潴氏本領は30石分しかありません。酒町村と中目村合わせて391石で、三潴氏は本領の13倍もの石高を下流域の荒河保領から得ていたことになります。勿論、本領からの収益は米の石高だけでなく、それ以外の収益の方がはるかに大きかったことは、物語で述べたとおりです。

 なぜ、三潴分が色部氏の加増分に回されることになったのか、その悲話をもって、この「上関城四百年物語」の終末を飾りたいと構想しています。

 人質のことについても、触れておきたいと思います。
 本庄繁長が謙信に反抗して本庄城に籠もったときのことです。繁長はそれまで春日山城に勤めており、当然、絶対忠心の証として、家族も春日山城下に置いておいたものと思います。斎藤「県史」には、「高根村大字岩沢の「飯沼与惣左エ門氏文書」によれば、輝虎は本庄繁長の人質を新発田市大字佐佐木(さざき)と荒川町大字佐々木(ささき)とに置いたが、この日、この人質を荒川の川原に引き出し、衆人環視の中に磔刑(はりつけ)に処したが、後に輝虎は命じてそこに地蔵尊を立てて之を吊った(とむらった)」ことが記されています。輝虎とは謙信のことですが、何とも殺伐とした時代の話ではあります。

 このことに関連して、同じ斎藤「県史」の永享12(1440)年の記事に、「当時は、家風(江戸時代の家中というに同じ)の人々の戦死したものは、今の招魂社に当る供養所に(多くは観音を祭る)祭り之に寄進したのであって、又一方非業にしてハタモノ等になった当時の捕虜又は人質等を殺した場合は、多くは石の地蔵尊をたてたものである。」と書かれています。
 
 上関の安養寺は、現在の位置に建てられたのは江戸時代の寛文7(1667)年で同9年開基となっていますが、「村史」には、西暦1500年頃に安養寺は開かれたとあり、現在地とは異なった場所にあったようです。もしかすると、現在の安養寺に併置されている観音堂は安養寺が移設されてくる以前からあって、その背景には、斎藤「県史」にあるような供養のための設置ということがあったのかもしれません。
 また、隣の正満寺境内にある石の地蔵様群は、昔、鉄道工事の際に出てきたものだとか、河原で拾われたものだという話を聞いたように記憶しています。これももしかしてですが、斎藤「県史」に書かれているような背景があったかもしれません。いずれにしろ、遠い遠い昔の記憶も朧な時代の話です。


 
 
慶長2年の越後国瀬波郡絵図に関して

 「村史」の表紙裏には有名なこの絵図を用いています。ところが、この絵図には上関村が記載されていません。付近に「せきかわぐち村」とあるのが上関村のことだとされていることを上で述べました。
 このことに関して、渡辺三省著「本庄氏と色部氏」に興味深い記述箇所があります。それは、この絵図に「村上ようがい」と記された本庄城が詳しく記入されていることについてです。氏は「防衛上もっとも秘密に属すべき城郭が、このように詳しく描かれていることは、全く異例のことだ。」と述べ、その理由として考えられるのは、このとき本庄繁長は本領没収され蟄居の身だったことから、上杉景勝は、本庄城を破却するつもりだったのではないかとしています。
 興味深いのは、防衛上最も秘密に属すべき城郭は絵図に描かないということです。上関城がこの絵図になく、上関村も「せきかわぐち村」などどぼかしてあるのは、まったく、同じ理由からではないかと思われます。

 話は変りますが、同書で渡辺氏は、本庄が村上と呼ばれるようになったのは、慶長3年に上杉会津移封と同時に村上頼勝が入封してからのことではなく、この絵図から分かるように、それ以前から村上要害だったのだとしています。
 同書には、時代をさらに遡って、天文4(1535)年の水原政家から色部宿老田中長義への書状に「上州(小河長基)同心申す可きの由、村上(本庄房長)へ御理(断)り候や尤もに候・・・」(読史堂古文書)とあることも紹介しています。
 つまり、この時代から、本庄は村上と呼ばれていたことになります。慶長3年にその村上に村上氏が入封した、たまたまの偶然ということになりますね。