北越後関郷 上関城 四百年物語
 城主は三潴氏、鎌倉時代から戦国時代の終わりまで400年の物語      筆・綿野舞watanobu
 
9 おわりに

 2015年10月18日、京都へ行った折に大文字山に登ってみました。
 銀閣寺門前から裏手に回る登山道の入口付近に、「嗚呼 中尾城」と書した大看板と中尾城址の方向を示す看板が立っていましたが、夕暮れも近く先を急いでいたため、その場では詳しく読むこともなく帰ってきました。
 後日、その中尾城を調べてみたら、この上関城四百年物語にも関係することが分かり、驚いたのでした。

   大文字山登山道にある「千人塚」

太平洋戦争後期に防空壕を掘っていた軍隊が
多数の人骨を見つけ、この地に埋葬したという。

天文19(1550)年の「中尾城の戦い」で戦死した兵士の遺骨ではないかともいわれている。

 それは、次のような出来事でした。
・ 天文18(1549)年、将軍義輝とその父義晴は、三好長慶との戦いに敗れ近江に逃れますが、京都復帰を狙って義晴は、この中尾城を築城
・ 翌天文19(1550)年、義晴死後、義輝は京都復帰を狙って近江から中尾城に入城、三好軍と対峙。麓の吉田辺で合戦があり、日本史上初めての鉄砲使用合戦といわれている。結局、義輝は近江へ撤退し、中尾城は落城

 この将軍義輝と三好長慶の争いが、永禄2(1559)年の上杉謙信との結びつきを生み、ひいては永禄4(1561)年の、上関城主三潴出羽守政長の上洛・将軍義輝からの御刀下賜へとつながるわけです。

 日本の歴史(中央史)と越後の北端上関の地域史が、こうやって現実に結びついていることを実感したものです。「上関城四百年物語」を執筆していて、最も面白かったのは、まさにそのことでした。


 我が故郷に残る上関城と城主三潴氏について調べ始めたのは、常勤職を辞して比較的時間が自由になった2008年の冬からでした。以来、6年目の冬が来て、今ようやく完結することができました。

 6年もかけたというよりも、アウトドアライフがかなわなくなった冬場のやむを得ずのインドアライフのため、6年もかかってしまったというのが正直なところです。
 特別な目的も期限もなく、ただ冬場の自分の楽しみのために調べ、綴ってきた代物です。果たして読んでくださる皆様には、どのように受け止められたことか、いささか心もとない感じは残っています。

 ありがたいことに、2013年3月21日には、関川学研究会で発表させていただくという実に貴重な機会をいただきました。研究会会長伊東正夫先生のご配慮で、上関集落の皆様をはじめ多くの方々から聞いていただくことができました。

 繰り返しになりますが、学校で学ぶ日本史やTVの大河ドラマなどで見る出来事が、どこか遠い場所で起きた事象ではなく、今住んでいるこの地域の歴史的事物と密接に関連していることを実感してもらえれば、そして、そのことに共感していただければ、巷の一歴史愛好家としては、これに勝る幸せはありません。
 たどたどしい綴り方にも関わらず、興味と関心をもって読んでいただいた方々に、改めて感謝申し上げます。

 自分の興味の趣くままに、話をあちことに散らばした感があり、親しい友人からは、そこが、日本の歴史と密接に関わっていて大河ドラマのように面白いのだなどと好評を寄せてもらった反面、枝葉が多く話が広がって寄り道ばかりで分かりにくいとストレートに批評してくれた友もいます。どちらもありがたい存在です。
 枝葉が広がりすぎたことについては、反省を込めて、関川学研究会で発表した内容を掲載することにしました。発表時間の関係で枝葉を出来るだけ削いだものです。言ってみれば、「上関城四百年物語」のダイジェスト編ということになるでしょうか。

 また、歴史全体の流れを把握しやすいように、巻末資料として関連年表を掲載しました。参照にしていただけば幸いです。

 これで「上関城四百年物語」は、ひとまずの完結といたします。

 今後は、中尾城址のように「上関城物語」に関係する史跡などとの出合いを「上関城四百年物語紀行」として随時綴って行きたいと考えています。
 また、関川村に残る城跡はまだまだ多数ありますので、上関城のように詳細にというわけにはいかないと思いますが、「関川村城跡物語」として綴ってみたいと構想しています。

 これまで同様、冬場のインドアライフで少しずつの掲載となるかと思いますが、引き続いてご愛読いただけますようお願いいたします。

                    ご愛読に感謝して・・・・2013年12月22日記


              「北越後関郷上関城四百年物語」 ~~~~~~