猫額苑 四季   ねこのひたいのにわ   2015
文字通り狭い我が家の庭
綿野舞watanobu流ガーディニングの苔庭
だったはずが、最近は果樹園のようになって、それでも
独り悦に入っている自己満足の庭
 
  2015年3月13日 早春の花に、酷くも雪が

8日 咲きほころび始めたマンサクに午後の陽が射していた

大石ダムの林道でマンサクの花を見たのは、葡萄鼻山帰りの7日。
翌日、我家の庭のマンサクはどうかと、雪避けに縛った竹囲いの中を覗いてみたら、こちらも、ちゃあんと咲いていた。
隣のアセビも、柔かい花の色に変っていた。
いましめの縄の中での開花では窮屈かろうと、その2本の木だけ、雪囲いを外してやった。

ここしばらく、暖かい日が続いて、隣りの家も向かいの家も、気早く、庭の雪囲いは既にすっかり撤去したようだが、我家はといえば、玄関のヨシズを一部外したくらいで、庭木の囲いは、手間暇かけて縛り上げた作品を解体するのは惜しい気がして、まだ手付かずにおいた。
ただ、周りが急ぎ始めると、何となく取り残されたような気もしてきて、そろそろ外そうかと思っていたところだった。

11日に、季節はずれの強烈な冬将軍がやって来て、夜半から降雪、翌12日朝起きてみてビックリ。
前夜まで、雪など全くなくなっていた庭なのに、朝には、真冬に逆戻りしていた。
折角咲いたマンサクも、アセビもすっかり雪を被っていたし、地面に咲いたコシノカンアオイも福寿草も完全に雪の下。

Murandoさんが見てきたという、弥彦山裏参道のカタクリやイチゲ、雪割草たちも、早く咲きすぎたと悔やんでいるに違いない。だまされたーと唸っているかもしれない。
とはいえ、花たちはタフだ。
マンサクなど、雪を被りながら花びらを伸ばし、数を増やしているようだ。
この花の名の謂れを、凶作を裏返して満作とつけたという植物学者がいたが、その説だけはいただけない。
萎びたような花びらが、実の入らない稲と見て、そんな不作にならないようにと農民の願いが込められて満作になったと、確かそんな説だった。
多分、その学者は、雪の山でいち早く咲くマンサクの花を見たことがないのだろう。
まだ厚く雪の残る山で、健気に先ず咲く花だからマンサク。
この黄色に感動しない人はいない。
この感動を知っていれば、間違っても萎びた花などとこき下ろす人は、まずいない。
雪の春山でマンサクの花に出合ったことのない人は、気の毒だ。せめて、我庭の雪のマンサクでもお目にかけたいものだ。

ところで、植物の生存戦略にはいつも驚かされるのだが、今回も、コシノカンアオイのそれには驚いた。

庭を作った頃、隅の方の岩の陰に一株植え込んだ。何年か前から、最初に植えた株から1m半ほど離れた、庭の中央部のエゴの木の下に小さなコシノカンアオイの葉が出始めた。
その小さな葉が株を大きくして、今年は五つも花を咲かせている。で、元の株はと見れば、そこにはもう何もない。
つまり、日当たりのよくなかった岩の陰から、日当たりの良い中央部の木の根元へ、移動したのだ。

動物と植物の違いは、移動するかしないかだという定義を聞いたような覚えがあるが、それはウソだ。
植物も、意志を持って立派に移動する。もちろん、手段は異なるがだ。

8日 いつのまにかアセビの花も咲き始めていて

8日 自分で適地を求めて1m半も移動したコシノカンアオイ

8日 福寿草は陽を求めて背伸びしている 

12日朝 突然の積雪に戸惑うマンサクの花 

12日朝 折角咲いたアセビの花に、この積雪 

13日昼 雪など振り払って何事もなかったように咲き続ける 

13日昼 かえって気持ちよかったわとでも言うように
   
追悼の記
こうやって、庭の花が春と冬を行ったり来たりしている時に、大学同期の友人が他界した。
どういうわけか書道部の彼と空手部の当方の部室が隣同士で、何だかんだと世話になった。
その彼と、大学卒業後も同じ職について、半世紀の間、同期の仲間として付き合ってきた。
退職後は、一年一度の同期会で会って、互いの元気を確認するのが慣わしのようになっていた。
去年会ったのは6月、いつも変らぬ元気さだったのに。今度の6月には彼はもういない。
突然、心臓が止まるなんて。宇宙線がパルスに影響したというような偶然の出来事が彼の身に生じたのだろうか。そんなふうにしか思えない。
自分の心臓に向って、「おい、何だよお前、冗談じゃないぞ、動けよ」と言ったに違いない、彼の独特の口調が今も心に浮かぶ。
葬儀で、息子さんが実に心のこもった素敵な追悼の文章を奉げておられた。
男として父として、立派に結末をつけたことは確かだ。
      ただ冥福を祈るのみ