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| 古城址物語 ~関川村に残る古い城址の話~ 筆・Watanabe Nobuei | ||||||||||||||||||||||
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城址はどこにあるのでしょう・・・・城址の位置 |
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| これまで専門家の人たちが調べた結果、下の地図に示した16ヶ所に城址のあることが分かっています。これですべてというわけではなく、まだ見つかっていない城址があるかもしれませんが、今のところ、あることが分かっている城址という意味です。 「城址」の読み方は「しろあと」や「じょうし」あるいは「じょうせき」、「城址」の読み方は「じょうし」や「しろあと」 と読みます。 |
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16ヶ所の城の名称を一覧表にすると、次のようになります。![]() |
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石垣や堀や天守閣は、どこにあるの? 「16ヶ所も城址があるのに、石垣や堀や天守閣なんて、関川村で見たことがないよ。」と思っている人はいませんか? 城址というと、姫路城や江戸城などが有名です。みな、立派な石垣、水堀、白壁瓦屋根の天守閣や櫓(やぐら)が建っています。近くでは、新発田城がそうですし、村上城にも山の上に見事な石垣が積まれています。 それらの城は、戦国時代が終って世の中が平和になり始めた頃に造られた城で、戦いのための城というよりは、城主(大名)の権威を示すために立派に建てられた城なのです。それに、江戸幕府は、村上藩には村上城だけ、新発田藩には新発田城だけというふうに、一つの藩に一つだけ城を持つことを認め、それ以外に城を造ることは禁止しました。 各藩一つだけの城を立派に造ったのが、今、観光地になったりしている石垣や水堀、天守閣のある城なのです。 関川村に残る城址は、それらの城とはまったく違って、実際の戦いのために造られた城です。実用の城ということになります。 ですから、余計な飾りは不要です。土と木の柵(さく)で造った城です。 敵が攻めてきた場合には城に立てこもって防戦できるように、山を削って平らにしたり、逆に急斜面を造ったり、大きな溝(みぞ)を掘って空堀を造ったり、土手を築いたりして、守りを堅くしました。 城の土手の上や斜面には、丸太を削った杭を立てて厳重な柵を造っていましたが、それらの材木は今は朽ちて残っていません。しかし、山や地面を削ったり掘ったりした跡や土を盛った土手の跡は、昔のまま、今もほとんどそっくり残っています。 それらの城址は、山の中にあるので、今は、多くは林ややぶになっています。ですから、山の中に入って、林の中ややぶの中をよく見ないと城址だということは分かりません。 そういうわけで、16ヶ所も城址があるにもかかわらず、あまり人には知られていないのです。 つまり、関川村には、何百年も前の城址が人々の住んでいる近くの山や林の中にひっそりと眠っているということになります。 この城址物語で、人知れず眠っている城址のナゾを探っていきましょう。 城址のほとんどは、どうして村の北西の方に固まっているの? 上の「城址の位置」の地図を見て、そんな疑問を持った人はいませんか? その答えは、もう気がついた人もいると思いますが、関川村の地形を考えてみれば分かります。 城址が多くあるところは、関川村でも水田が多い平地になっている所の近くの山の中ですね。 平地には昔から田が作られ、人が多く住んでいました。 日本各地で戦いが続いた時代、平地で田を作っている人々やその地域の領主たちは、いざ敵が攻めてきたときのために、立てこもって防戦する城を近くの山の中に造っていたのです。 今残っている城址の多くは、そういうための城でした。 そのほかに、街道といって当時の人々が行き来する重要な道路を守るために、街道近くの山の中に造った城も残っています。 およそ今から700年くらい前、南北朝争乱の時代は、日本全国どこでも、領主を中心に武士たちが城にたてこもって戦ったり、逆に敵の城を攻めたりしていました。また、そんな戦いのときには、村の人たちも戦いの被害を受けないように城にこもって難を逃れていました。 それから時代が進んで戦国時代になると、領主やその家臣の武士たちは、城やその近くに住んで戦いに備えるようになりました。そのために、高い山の上にいざというときの防御用の城を造り、普段用には麓(ふもと)に城を造ったりもしました。 約400年くらい前に戦国時代が終るまで、そういった城が村内のあちこちに造られていたのです。 関川村に今も残る城址のほとんどは、そういう目的で、南北朝時代から戦国時代にかけて造られた中世の城の跡なのです。 ただし、中にはもっと古い平安時代の頃の城址も残っているようです。詳しいことは、それぞれの城址のところで説明することにします。 そんな昔の城址を学習すると、どんな面白いことがあるの? 城址は、今から何百年も前の人々が、今のような機械もない時代、鍬(くわ)などの道具を使って人力だけで、大きな山を削ったり、土を盛り上げたりした大土木工事の跡です。その跡が今でも消えずにちゃんと残っていることに、まず驚きます。 山の中だからこそ、壊されずに残ったのですね。これからもずっと、壊されることなく大事に残って欲しいと思います。 城址をよく見ると、どこから攻めてくる敵をどんなふうに防ごうとしたか、何百年も前の人々の工夫がよく残っています。昔の人々の生き抜こうとした力強さやそのための知恵や工夫に感心します。 城址は、単に山を削った跡というのではなく、そこで戦いの時代を生き抜こうと必死で働いた人々の活躍の跡でもあるのです。 城の主、つまり城主(じょうしゅ)は、その地域の領主で、言ってみれば、その地域の代表者です。ですから、城の歴史では多くの場合、人々の代表者である城主の活躍が語られます。 ですが、それは何も城主一人の活躍なのではなく、その城主のもとに集まった多くの人々の活躍でもあるのです。 城址の学習は、私たちの住むこの関川村で、何百年もの昔、人々が一生懸命生きるためにがんばったその足跡を学ぶことでもあるのです。その人々のがんばりがあって、今の関川村につながっているのです。 この「城址物語」で、それぞれの城で、いつの時代・何という城主が・どんな活躍をしたかを中心に、関川村の歴史を探っていきましょう。 もちろん、すべてが分かっているわけではありません。むしろ、まだよく分からないことの方が多いくらいです。城址のナゾは、そう簡単に分かるようなものではなく、これからもずっと続くナゾも多いのですが、そんなナゾを考え考え解き明かしていくパズルのような楽しみも、城址学習にはあるのです。 |
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