7 守護被官時代の三潴氏
(3) 三潴弾正、関東の戦場で散る
長禄(ちょうろく)3年(1459年)10月、上関城主・
三潴弾正(みつま・だんじょう)が上野国(こうずけのくに・群馬県)羽継原(はねつぐはら・館林市)の合戦で戦死するという大事件が起きています。
弾正は官名で、名は伝わっていません。官名は、元来は朝廷から授かるものですが、この時代には、守護がその家臣に授けていました。
その
三潴弾正が、関東の戦場で戦死したのです。いったい、何があったのでしょうか。
このころの政治情勢はかなり複雑ですが、おおよそ、つぎのような状況にありました。
京に室町幕府があって将軍がいます。鎌倉には、将軍の近縁者を鎌倉公方(かまくらくぼう)として置き、関東諸国を治めさせていました。将軍は、鎌倉公方の独走を押えるため、関東管領(かんとうかんれい)を目付として鎌倉に置いておきました。
ところが、将軍と鎌倉公方はしょっちゅう仲たがいをしていました。時には、関東管領は将軍の命令で、上司である鎌倉公方を討つことさえありました。
黒川氏実(くろかわうじざね)が根岸の地を回復しようとして、
三潴氏がそれに協力していたことは前に話しましたが、その同じ年、享徳(きょうとく)3年(1454年)、関東で大事件が起きてしまいます。
鎌倉公方
足利成氏(あしかが・しげうじ)が、関東管領
上杉憲忠(うえすぎ・のりただ)を自分の屋敷に呼び出して殺してしまったのです。管領家の家臣たちは
成氏軍と戦いますが、敗れてしまいます。時の将軍
足利義政(あしかが・よしまさ)はこれを怒り、軍を派遣して
成氏を攻撃します。
成氏は、下総国(しもふさのくに・茨城県)古河(こが)に逃げて本拠を構え、古河公方と呼ばれます。
このとき、
憲忠の弟
房顕(ふさあき)が越後守護
上杉房定(うえすぎ・ふささだ)とともに越後国にいました。管領家の家臣たちは、
房顕を総大将にして古河の
成氏軍と戦います。
越後守護
上杉房定は、
房顕を応援するため越後から大軍を率いて関東へ進軍します。越後守護家は、もともと関東管領家が本家ですし、その上、
房顕は
房定の下で幼少のときから養育されてきた関係もあります。さらに、
成氏を討てとの将軍
義政の意向もありました。
関東の武将たちは、
成氏側と
上杉側に分かれ、両軍激突、戦線は関東各地に拡大し戦いは長期戦になりました。越後の有力武将たちも総動員され、上関城主・
三潴弾正も守護
房定に従って参戦していたのです。
そして、長禄3年(1459年)10月、上野国で両軍の合戦が行われ、羽継原での激戦では、多くの越後武士が奮戦損傷する中、
三潴弾正は奮闘むなしく戦場の露と消えたのでした。
<三潴帯刀左衛門尉に、将軍義政から感状>
その翌年の長禄4年(1460年)4月、将軍
義政から、戦死した
弾正の子・
三潴帯刀左衛門尉(みつま・たてわき・さえもんのじょう)に対し、父親の戦死を憐れみ感状が出されています。
このとき、北越後で将軍から感状を与えられた者は、上関城主・
三潴帯刀左衛門尉の他には、平林城主・
色部弥三郎昌長(いろべ・やさぶろう・まさなが)と本庄城主・
本庄参河守房長(ほんじょう・みかわのかみ・ふさなが)の3人だけでした。
三潴氏は、その働きで守護被官として高く評価されたものと思います。その勤めも、出先である上関城を守るだけでなく、越後国府(直江津)にいて守護被官として働き、守護にしたがって戦に出陣することも多くなっていたことと思います。
桂関もこの頃には、単なる関所ではなく、城としての構えを整え、上関城と呼ばれていたでしょう。
関東の戦いは、決着がつかないまま長引きます。その間に、応仁(おうにん)元年(1467年)、京で「応仁の乱」と呼ばれる大乱が発生し、それが全国に飛火して世は戦国時代に突入していきます。
将軍
義政は、文明14年(1482年)に、今も京都に残る銀閣寺を建てたことで有名です。
秋の銀閣寺 |
<三潴次郎右衛門尉に、課税の相談>
将軍
義政が銀閣寺を建てる1年前のこと。文明13年(1481年)、越後守護
上杉房定は、弥彦神社の修繕のために棟別銭の割当を行うことにしました。その際、中条町(現胎内市)にある大輪寺は、
足利尊氏の祈願所であることから割当を免除することにして、その相談をした5人の人物の1人に
三潴次郎右衛門尉(みつま・じろう・うえもんのじょう)の名があげられています。
次郎右衛門尉は、
帯刀左衛門尉の子どもに当りますが、このことからも、
三潴氏が守護被官として府中(守護の役所及びそれの置かれた町)の役人の中で活躍していたことが判ります。
(4) 三潴飛騨守、胎内川合戦に登場
明応7年(1498年)のことです。現在の村上市を本拠地にしていた
本庄氏が越後守護
上杉房定に反乱を起こし、守護側は討伐軍を本庄(村上の古名)へ向けて進発させました。守護軍が、胎内川原に着陣したとき、上関城主・
三潴飛騨守(みつま・ひだのかみ)と
加地二郎右衛門(かじ・じろう・うえもん)の2名が出迎え、陣を何処に敷いたらよいかなど、細かく案内しています。
実は、このとき守護軍は大きな問題を抱えていました。
守護軍には、地元の領主である
中条氏と
黒川氏も加わっていたのですが、両氏の間には以前から領地争いがありました。8年ほど前に守護がその争いを裁定したのですが、
黒川氏は自分に不利な裁定だとして大いに不満を鳴らしていました。それで、今度の戦いでは、
黒川氏は守護を裏切り
本庄氏に味方するのではないかという噂があったのです。とりわけ、長年領地争いをしてきた
中条氏にはその懸念が強く、守護軍の主将たちに、胎内川を渡って
黒川氏の領地内へ進軍するのは危険だと訴えていたのでした。
そんなときの、
三潴飛騨守の登場です。地元の守護被官として、きめ細かく守護軍の世話をしたものと考えられます。
守護軍が胎内川の渡河を躊躇している間に、本庄軍は荒川を越えて南進を始めたとの報告が入りました。ぐずぐずしているなとの守護からの叱咤で、やむなく、守護軍は胎内川を渡り始めました。そこへ、危惧した通りの
黒川氏の裏切りが起こったのです。
黒川氏は表面的には守護軍に従いながら裏では
本庄氏と連絡を取り合っていたようです。中条勢は川を渡ったところで、突如として後ろから黒川勢の奇襲攻撃を受けたのだからたまりません、
中条氏の老将
中条朝資(なかじょう・ともすけ)は、奮戦むなしく戦死という大痛手を蒙ったのでした。
中条氏の当主は7歳の
藤資(ふじすけ)でした。4年前に父が病死し、この年元服したばかりです。戦死した
朝資は
藤資の祖父で、後見人として支えていたのでした。
中条氏と
黒川氏の土地争いには、上関城のすぐ近くの落合の地(上関と下関の間)も含まれていました。胎内川合戦の11年後、永正6年(1509年)、
中条藤資はその落合の地を
黒川氏に返しています。
その頃になると越後国内では、守護と守護代が争う下克上の激しい戦国の時代となっていて、
中条氏と
黒川氏も互いに小競り合いをしているような場合ではなくなったのでした。
物語は、越後の戦国・永正の乱へと続きます。