北越後関郷 上関城 四百年物語
 城主は三潴氏、鎌倉時代から戦国時代の終わりまで400年の物語      筆・綿野舞watanobu
 
6 初代城主は、いつ、どこから?


(4) 三潴左衛門尉の、その後の越後

 こうして文治元年(1185年)から、三潴左衛門尉は桂関の宰(つかさ)として、上関の地に根を下ろしたのでした。
 その後、左衛門尉の子孫が歴史に名を出すのは、康永(こうえい)3年(1344年)です。そのときには、三潴氏は越後守護の被官として北越後ではなくてはならない役割をもった存在として記録に現れてきます。

 しかし、それまでの159年間、左衛門尉の子孫たちが、いったい上関の地でどのようにしていたのか、記録はなく、全く不明です。
 ですから、まずは、左衛門尉のその後の越後国の状況を探りながら、それぞれの場面での三潴氏の活躍を推測してみたいと思います。
 三潴氏にかかわりがあったであろうと思われる大きな事件だけをひろってみます。


義経の逃亡と頼朝の奥州出兵
 文治元年(1185年)10月に京で挙兵した義経でしたが、すぐに討伐されて行方不明になります。それが、文治4年(1188年)には、奥州平泉の藤原氏の下に保護されていたことが判明します。
 この間、桂関はもちろんのこと間道も含めて羽越国境を義経が抜けて行くことのないよう厳重な警戒が行われたことと思います。
 その後、頼朝は、義経を匿ったことを理由に藤原氏を討伐し、奥州を我がものにしてしまいます。このことをもって、義経をわざと奥州へ逃げ延びさせた頼朝の深慮遠謀があったのではと疑う説もあるようです。もし、そうであれば、左衛門尉にも、義経を見逃すよう鎌倉から指示が出ていたかもしれません。歴史のミステリーです。
 文治5年(1189年)の奥州出兵では、頼朝は全国の御家人に総動員をかけ各方面口から大々的に進軍していますから、あるいは、三潴勢の桂関口からの出兵も、あったかも知れません。


城氏の叛乱
 正治(しょうじ)3年(1201年)のこの大事件については、6(1)で紹介したとおりです。桂関には、大きな緊張が走ったことでしょう。


承久の乱
 承久(じょうきゅう)3年(1221年)、京で後鳥羽院が討幕の軍を上げた際、越後加治荘でも討幕軍に呼応した挙兵がありました。氏の叛乱同様の緊張が走ったことでしょう。結局この乱は幕府側に鎮圧され、後鳥羽院は隠岐に、順徳天皇は佐渡に配流されるという悲劇で終っています。
 加治荘での挙兵の背景には、この頃の国衙には、古代から続いた「国司」と鎌倉時代になって置かれた「守護」との間の権力闘争があったのではないかといわれています。次第に新しい「守護」の方が権力を握ろうとしていたときでしたから、国衙につながる桂関の三潴氏も、その去就判断は難しいところだったと思います。
 左衛門尉もこの頃には、かなり老いていたのではないでしょうか。もしかしたら、次の世代に移っていたころかもしれません。
   
 承久の乱 越後京方挙兵の地 加治荘願文山の史跡 (Murandoさん撮影)

蒙古襲来
 文永(ぶんえい)11年(1274年)と弘安(こうあん)4年(1281年)の2度、蒙古軍が北九州沿岸に来襲します。日本国にとっては最大の危機でしたが、幸い、暴風雨などの助けもあって撃退できたものの、この大事件を期に鎌倉幕府は弱体化していったといわれています。
 遠く離れた北越後の三潴氏に直接関わりはなかったものと思いますが、日本国の存続に関わる大事件で、その上、三潴氏の故地九州が戦場となったことで、とても無関心ではいられなかったことでしょう。また、戦費の負担などは当然あったのではないでしょうか。


奥山荘三分、関下にも分地頭
 建治(けんじ)3年(1277年)、奥山荘地頭和田時茂(わだときもち)は奥山荘を中条、北条、南条に3分割し、3人の孫に譲与して、それぞれ中条氏、黒川氏、関沢氏を名乗ります。次いで、関下の地にも娘孫の胤氏を分地頭として派遣し、関下氏となります。
 和田氏は、もともと持っていた関東相模国(さがみのくに)の所領を鎌倉幕府内での勢力争いの結果すべて失い、奥山荘だけが命の綱になっていましたから、所領の確保や農地の拡大に必死でした。奥山荘を分割して農地の開発に力を入れたかったのでしょう。しかし、相続が複雑だったり、分家同士の対等意識が悪影響するなどして、この後何度も、土地争いを繰り返します。
 康永(こうえい)3年(1344年)に、三潴氏がはじめて記録に出てくるのも実は黒川氏の土地争いに関係してでした。
 記録は残っていませんが、おそらくそれ以前にも、様々な土地争いの場面で、三潴氏は調査や調停の役割を担っていたのではないかと思われます。なぜなら、桂関は国衙の出先機関でもあったと考えられますから、土地紛争が大ごとになる前に、まずは、地元で解決させようとするでしょうし、また解決がつかなくて幕府が裁決することになったとしても、地元出先機関の調査情報は必要だったはずです。

 奥山荘と荒河保の境界争い
 当時、何度も繰り返された境界争いの中でも史上有名な事例を一つだけ上げておきたいと思います。
 奥山荘とその北側に接する荒河保との間では、境界紛争がたびたび起きていましたが、正応(しょうおう)5年(1292年)に、互いに境界を確認しあって和解したことを証明する文書や絵図が残っています。その文書や絵図には、堺をはっきりさせるために要所要所に目印を置くことにしています。
 その時代の目印に立てた大石が、現在も、関川村土沢の国道290号線の脇に「牓示石」(ぼうじせき)と標示され、史跡として保存されています。
 この紛争と和解に三潴氏が関わったという記録は何もありません。しかし、荒河保が桂関と同じく国衙領であることを考えればなおのこと、調査とか調停とかの下準備に何らかのかかわりを持ったと考えるほうが自然のように思えます。
   


鎌倉幕府の滅亡
 正慶(しょうけい)2年(1333年)、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の命により、足利尊氏(あしかがたかうじ)、新田義貞(にったよしさだ)、楠正成(くすのきまさしげ)らが倒幕の兵を挙げ、京や鎌倉での激しい戦いの後、鎌倉幕府はあえなく滅亡してしまいます。
 左衛門尉が北越後に来ることになって148年後のことです。


 そして、鎌倉幕府が滅亡して11年後、康永3年(1344年)の南北朝争乱のさ中、三潴氏は、突然歴史に浮上するのです。
 その前後の事情を含めて、次の7章で、この動乱の時代の三潴氏の活躍を探っていきたいと思います。



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