北越後関郷 上関城 四百年物語
 城主は三潴氏、鎌倉時代から戦国時代の終わりまで400年の物語      筆・綿野舞watanobu
 
7 守護被官時代の三潴氏

(1) 南北朝の動乱


 元弘(げんこう)3年(1333年)、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の命により、足利尊氏(あしかがたかうじ)や新田義貞(にったよしさだ)らが倒幕挙兵し、鎌倉幕府は滅亡してしまいます。
 越後国は、新田義貞の支配下に入り、北越後では、色部氏がいち早く新田方について行動します。しかし、翌年になると、本庄氏や大川氏が後醍醐天皇の新政府に反抗して挙兵し、本庄城は、越後守護の新田方についた色部氏によって攻撃され、落城してしまいます。

 建武(けんむ)2年(1335年)になると、その後醍醐天皇足利尊氏が対立してしまいます。後醍醐天皇方の新田義貞足利尊氏と戦って敗れ、越後国の支配力を失ってしまい、その後、越後国は足利方の勢力下に入ります。
 荒河保の河村氏が後醍醐天皇の南朝方について、足利方の色部氏の領内に討ち入ったり、阿賀野川流域佐々木(新発田市)の辺りでも、越後の南朝方と足利方が大合戦を展開したりして、国内も、越後国も、北越後も南北朝が相争う大動乱の時代になってしまいました。   
 
南朝の置かれた吉野山 
 
南朝の皇居

 暦応(りゃくおう)4年(1341年)、鎌倉で足利尊氏の長男義詮(よしあきら)の補佐役をしていた上杉憲顕(うえすぎ・のりあき)は、尊氏の命を受けて南朝方の勢力を討伐するため越後国に討ち入り、大勝します。そして、上杉憲顕は越後守護になりました。しかし、憲顕は鎌倉で大事な役目がありますから、越後には重臣の長尾景忠(ながお・かげただ)を守護代として残します。ここから、越後守護上杉氏と守護代長尾氏の関係が始ります。
 なお、上杉憲顕は、その後、貞治(じょうじ)2年(1363年)に室町幕府初代の関東管領に就任します。ですから最初は、越後守護と関東管領は同じ人が兼ねていたことになりますが、憲顕の死後、その子どもたちが関東管領と越後守護を別々に継ぎ、関東管領上杉家と越後守護上杉家は別れることになります。

三潴左衛門大夫、守護代官として領地争いの調停>
 このようにして南北朝の争乱が始った康永(こうえい)3年(1344年)、上関城主の三潴氏が、和田氏の土地争いに関する文書に初めて登場します。その文書には、黒川茂長(くろかわ・もちなが)の娘の所領紛争に関して、守護の代官である三潴左衛門大夫(みつま・さえもんのたいふ)を証人にするよう室町幕府から指示されたことが記されています。(詳しくは「補足9」に記します。)

 このころには、足利尊氏は建武3年(1336年)京で北朝を立てて室町幕府を開き、吉野に逃れた後醍醐天皇は、暦応2年(1339年)に死去しましたが、その後継たちは吉野の山中に南朝を立てて、対立していました。
 そのような南北朝の対立争乱の中で、自分の功績を幕府に認めてもらうために訴えを起こしたり、隙あれば他人の所領に押し入る者も出てきたりで、所領の確保には、みな必死でした。そんな状況の中で起きた北越後での土地争いの一場面で、三潴氏が守護の代官として活躍していたことが、文書に表れています。
 三潴氏は、鎌倉幕府滅亡、南北朝争乱、室町幕府発足という大動乱の中にあって、前代と変らず、越後国の出先機関である桂関の宰として、粛々とその役目を果たしていたのです。越後の支配者が誰に代わろうとも、桂関の責任者として一貫して責務を全うしていたものと推測できます。

 南朝方に立っていた荒河保地頭の河村氏は、観応(かんおう)2年(1351年)以降、ついに滅亡してしまい、国衙領荒河保は守護上杉氏の支配下に置かれます。同じ国衙領である荒川の流れを管轄する三潴氏は、守護上杉氏や守護代長尾氏とは一層良好な関係を結ぶことに気を使ったことでしょう。そのことが、この後の時代を通して、三潴氏の守護被官としての地位を確かなものにしたのだと思います。


(2) 応永の越後大乱

 その次に、上関城主三潴氏が歴史の文書に登場するのは、110年後の享徳(きょうとく)3年(1454年)のことです。
 応永(おうえい)の越後大乱に関わる話です。かいつまんでそのいきさつを見ておきたいと思います。

  応永30年(1423年)のことです。越後で大乱が勃発しました。
 それまで35年間も越後府中(かつての国衙に代わる守護の役所)に居て実力を発揮してきた守護代長尾邦景(ながお・くにかげ)が、新たに越後守護となった上杉頼方(うえすぎ・よりかた)に反発して戦になったのです。下克上の時代です。実力ある守護代が新人の守護を認めようとはしなかったのです。
 阿賀北の中条氏、黒川氏、加治氏、色部氏、本庄氏など有力武将は守護方につきましたが、やがて、守護代側の働きかけで、黒川基実(くろかわ・もとざね)を中心に数人の武将が寝返り、逆に守護方の中条房資(なかじょう・ふさすけ)を攻めました。
 しかし、その後、守護方は中条房資を助け黒川基実を攻撃します。出羽国米沢の伊達持宗(だて・もちむね)も守護方の応援に駆けつけ黒川城を包囲しました。耐え切れず翌年、黒川基実は降参してしまいます。それでも、越後中央では守護代長尾邦景は勢力を保ち続けました。 

 この乱の後、荒川保に入った伊達氏の一族が、隣の黒川館を急襲して黒川基実を切腹させてしまいました。そのとき、基実の子氏実(うじざね)はまだ幼年でしたが、急を聞いて駆けつけた中条房資に助け出されます。房資基実の敵ではありましたが、氏実の叔父でもあったのです。房資は、幼い氏実を匿って出羽の庄内へ落延びさせました。この乱で、黒川氏の所領はわずかを残して、多くは守護に没収されてしまいました。 

黒川城本丸跡

黒川城本丸からの眺め

 黒川氏実は、長じて黒川氏の所領回復に尽力します。
 氏実が幼い間後見していた伯父黒川四郎が、所領を証明する重要な文書を持ち逃げするなどという大変な事件にも遭いましたが、それにもめげず、様々に手を尽くして幕府に訴えました。
 そのことに関係する文書が現在も複数残っていて、この件に関わる三潴氏の役割を後世に伝えてくれているのです。

三潴伊賀守・出雲守道珍・弾正、黒川氏の所領回復に協力>
 1件は、享徳元年(1452年)に黒川氏実が、所領を証明する文書を伯父に奪取されたことを幕府に訴え、2年後の享徳3年(1454年)幕府がそれを認めた際のことです。幕府の担当役人から越後守護方の担当役人への文書で、黒川の訴えを願いどおりに図ったので、各所にお礼をするよう指示しており、その中で三潴氏がお礼の仲介役に当っていることが述べられています。
 もう1件は、同じ享徳3年(1454年)、黒川氏実が、黒川氏旧領の根岸(新潟市旧白根)の土地の回復運動を行った際の守護方役人二人から黒川氏実に宛てた文書です。
 役人の一人の文書には、その土地を譲り渡すことについては三潴によく話しておいたと書いてあります。そして、もう一人の文書には、さらに詳しいことが書いてありました。
 そこには、根岸の地を譲り渡すについて、代官の三潴出雲守道珍(みつま・いずものかみ・どうちん)が言うには、父の伊賀守(いがのかみ)は脚気で出て行けない。自分は、職を子の孫二郎(まごじろう)に譲るので、その初仕事にしてほしいということが書いてあります。
 そして、三潴出雲守道珍は、三潴弾正(みつま・だんじょう)に宛てた文書で、根岸の地を黒川方に渡すように伝え、さらに黒川氏実への文書では、馬一頭と金子二百疋を拝領したことへの礼を述べています。

 このように、三潴氏は守護の代官として、北越後での所領裁決において室町幕府や越後府中の担当役人と連絡を取り合い、調整を図っていたことが判ります。なお、上は将軍から下は担当役人まで、便宜を図ったお礼に金品を受け取るのは当時の慣わしで、現代人の我々が眉をしかめても仕方のないことではあります。
 
 この当時、京でも、関東でも、越後でも、武将たちの争いが繰り広げられていました。そんな中で、黒川氏実のように所領の拡大のために金品を使って運動する武将もいましたし、それを助けていろいろと調整に走りまわる役人たちもいたのです。戦って土地を勝取るだけでなく、政治工作や裁判で本来の所領を確保することの方が重要になっていました。三潴氏も、北越後でそのような重要な役割を期待されていた役人の一人でした。


 とはいえ、役人は武士でもありますから、戦乱の時代の当時、いざ戦いとなれば家臣を率いて戦場に馳せ参じるのも当然重要な役目でした。
 守護代官の三潴弾正も勇猛果敢に戦場に出て行きます。次の頁でその話に移りましょう。



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