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平田甲太郎家文書<海老江湊廻米関係文書 三通>
a 海老江住人からの貸付依頼状 嘉永2(1849)年  平田家文書№666
b 御廻米諸入用取極書 文化10(1813)年 平田家文書№632
c 江戸廻米入用受取書 文化14(1817)年 平田家文書№685
a 海老江住民からの貸付依頼状 嘉永2(1849)年  平田家文書№666
 荒川左岸河口にある海老江には、江戸時代、良港がありました。物流の拠点です。荒川を上下する川舟、沖に停泊する千石船へ荷の積み下ろしに行き交う艀(はしけ)。大変な賑わいだったといいます。その海老江の一住人から、小見村への貸付金の依頼状です。この文書から、小見村と海老江村の意外な関係が分かります。そして、当時の年貢米上納の仕組みが垣間見えてきます。
 文中、「御米御蔵納の節」、自分の家を宿にしてくれている村が二十ヶ村もあるとあります。懇意にしているその村々へ、一村一両ずつ三ヶ年賦の貸付依頼。小見村もその一つです。「御米御蔵納の節の宿」とは、何のことでしょうか。
 村々の年貢米は、郷倉(ごうぐら)という年貢米用の蔵へ、近在近郷まとめて一旦納められた後、翌春、川舟で海老江の幕府御蔵へ納めます。これが文中の「御米御蔵納」です。
 岩船郡と蒲原郡の幕府領の年貢米がここへ集まります。そして、日本海沿岸の廻船・千石船が沖合に停泊するのを待って、海老江の蔵から艀(はしけ)で千石船へ積み出されます。
 海老江に御米御蔵納の際、郡内の代表庄屋の当番が、納税作業が終わるまで泊まり込んで作業の指示や管理監督に当たっていました。そのための定宿を持っていたわけです。
 この文書の差出人はそこの宿主で、長年の付き合いを頼りにして貸付を依頼しています。共助のセーフティーネットが発達していた江戸時代のこと、各村、気持ちよく融通して宿主の危機を救ったのではないでしょうか。すべては日頃の信用度次第ですが。
 ところで、納税の作業は、海老江湊からの積み出しで終わりではなく、廻船が江戸や大阪へ無事到着するのを確認し、幕府の蔵に納まるまでを管理監督することも納税側の責務で、そのために、郡内の代表庄屋が当番で新潟や江戸に出張して滞在していました。廻船に乗込む当番もあったそうです。(「文書b」及び「関川村史」参照)
 教科書的には、村々に出張ってきた御役人が農家の庭先で年貢米を検査して運び集めていく様子がイメージされますが、とんでもない、米による納税というのはなかなか大変な負担を伴っていたことが、三通の文書から浮かんできます。
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b 御廻米諸入用取極書 文化10(1813)年 平田家文書№632
 各村々からの年貢米を海老江湊の御蔵に納めた後も大変な作業が待っています。それで、岩船郡と蒲原郡の幕府領村々は、各組惣代庄屋による納税のための組合を作り、相談し合って、共同でその作業に当たっていました。
 日本海を廻航する千石船に積み込んだ米が無事江戸の御蔵に届くまで管理監督するのも惣代庄屋たちの責務です。この文書はそのための経費がかさむので、少しでも減額しようとして取り決めたことが書いてあります。
 江戸まで出張して御蔵納を管理監督する庄屋が二名。新潟湊へ出張する庄屋も二名。外に上乗り役、つまり船に乗り込んで管理監督する当番もいたようです。
 船の運賃は幕府側が負担していましたが、担当庄屋の出張滞在費用はすべて納税側の負担です。
 この文書に押印してあるのは、二十一人中、小見村庄屋平太郎と金屋村庄屋仁左衛門の二名だけなので、回覧押印途中の控なのかもしれません。
 「関川村史」には、文政五(一八二二)年の赤谷村庄屋三助の江戸出張滞在記録(四月十日出立~十二月四日帰村)が載っています(五三七頁)。 それを読むと、納税側の取り分の米も船に積み込んでいて、それを換金して納税業務管理監督用の出張経費に当てていたようです。仕組みはなかなか複雑です。それからすると、文書にある、十五両+十五両は必要経費の内のほんの一部の様です
 なお、三助の滞在記録は、「近世関川郷史料五」に全文掲載されていて、江戸滞在中の出来事が様々記録されています。なかなか興味深い内容です。
 意外なことに、文書bには、出張する庄屋はクジ引きで決めると書いてあります。なにしろ江戸滞在は長期になります。中世以来、クジ引きは神の意志とされていますから、文句の出ないようにクジで決めていたのでしょうか。
 実は、どうもそうでもないような感じのする文書も別に出てきています。江戸廻米については仕組みが複雑で、まだ何通かの文書があるので、今後追々解読して、解明していきたいと思っています。 
 
 
 
 
 
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c 江戸廻米入用受取書 文化14(1817)年 平田家文書№685 
 この年は小見村庄屋の平太郎が海老江湊詰め当番でした。
 小荒川村庄屋甚右衛門が、江戸出張滞在費用として二十五両の受取りを平太郎宛に出しています。ということは、海老江詰めの庄屋がその年の会計を担当していたと考えられます。なお、海老江湊で渡すのは、前渡金だったそうです。
 海老江詰め役は平太郎のほかにもう一人、勝左衛門、この人が何村の庄屋かは不明です。小荒川村は、現在の胎内市で、中条バイパスの辺りの地名です。
 
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