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平田甲太郎家文書<小見村の定免願 安政6(1859)年 文書№705
<文書の解説>
江戸時代の年貢納税の仕組みが具体的に分かって、面白い文書です。

1 定免(じょうめん)について
免とは年貢の賦課率のこと。その年々の作柄を調べて年貢高を決めるのが検見(けみ)法。
それに対し、一定期間を区切って平均の課税額を定める方法を定免という。
小見村は、嘉永2(1849)年から安政5(1858)年までの10年間の定免期間が終わり、改めて安政6(1859)年から10年間の定免を願い出た。それがこの文書。
奇しくも、定免期間が終わる10年後の1868年辰年は明治維新の年に当たるが、願い出の時点では、もちろんそれは分からない。

2 文書の前段の数字について
最初に書いてある高149石余は、検地で定められた小見村の村高(生産高)で、20町余は田畑の面積。これが、税はじめ各種負担の基礎数字となる。
連連引きとは、そこから生産不可能の土地分を引くこと。
残高147石余と19町余が、課税の対象。
取米とは、年貢米のこと。取米53石余を147石余で割ると賦課率は36%になる。
此の訳以下の記述は、上記の石高・面積を田と畑に分けたもの。
連連引きの内容は、2年前の巳年に大水で畑が欠損した分を差し引いたことが分かる。永久的に欠損すると永引きという言い方になる。
取米、つまり年貢分は、田畑合わせて53石余となり、前段の数字と合致する。

上述の課税率には畑の分も含まれている。それで、田だけで計算してみる。
取米41石余/田高110石余=38% 
ほぼ四公六民になるが、4割を下回っているのは、地味が劣る下田が多いせいと思われる。

なお、田高110石余を田9町余の数字で割ると、1反当りの収量は約11.5斗となる。
江戸時代初期の基本は、1反が1石生産できる田で、それは大人1人1年分の米150㎏の生産となる。江戸時代の半ば以降は、1反の生産量は200㎏位に上がっていたという。

小見村の1反当りの収量11.5斗は、172㎏。文書にある通り、地味がよくない田ということになる。

また、畑はどうかと見てみると、畑高36石余を畑10町余で割ると、1反当り収量は3.6斗で計算していることが分かる。
そして、畑の税率は、取米11石余/畑高36石余=約31%
畑の年貢は、金納の地域もあったとされるが、当地域では年貢米として納められていたことになる。

3 本文の意味について
(3行目から)
小見村は、元来山水を用水にするやせ地で作柄はよくないところ。
その上、定免年季の切替(延長)の度に増米してきた。
それで、現在、高免状態になっている。
(当時とは、現在の意味。地味不相応の高免とは、土地の質に不相応の高免になっていること。高免とは、高い賦課率のこと。)
だから、これまで通りの率で定免を願い出たいのだが、
(先御定免辻とは、これまでの定免の年貢でという意味。)
(辻とは、高辻ともいい、年貢のこと。)
しかし、御趣意(代官所の意向)もあるので、難儀なのだけれども、切替(延長)の増米を受け入れることにした。
だから、どうか書面にある分(3合+7合の計1升)の増米で勘弁してほしい。
(勘弁は、お許しくださいではなく、よくよく考えて算段してほしいの意味。)

4 まとめ
教科書的には、「百姓は生かさず殺さず」の言葉に代表されるように、年貢は強圧的にむしり取られるという印象が強い。
しかし、実際の古文書から感じる雰囲気は、決してそうではない。
10年間、作柄の良し悪しがあったとしても平均して36%の課税で、四公六民が守られ、しかも、地味に合わせて内輪の率になっている。それに、増し分も3合4合と、少量での交渉。
耕作不可能地はちゃんと引いている。極端に不作の年は、定免期間内でも、臨時の検見が行われて、賦課率を変えたともいわれる。
「御代官様、何卒ご勘弁を」の文言だと、いかにもひれ伏して「お許しください御代官様」と言っているような印象だが、勘弁の意味も、現代とは違う。
領民と領主、つまり百姓と武士は、持ちつ持たれつの関係だということが、古文書から伝わってくる。
原文
 
釈文
読下し
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