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平田甲太郎家文書<小見村の定免願 安政6(1859)年 文書№705> | |||||
広報せきかわ2024年4月1日号掲載 | |||||
<文書の解説> 江戸時代の年貢納税の仕組みが具体的に分かって、面白い文書です。 1 定免(じょうめん)について 免とは年貢の賦課率のこと。その年々の作柄を調べて年貢高を決めるのが検見(けみ)法。 それに対し、一定期間を区切って平均の課税額を定める方法を定免という。 小見村は、嘉永2(1849)年から安政5(1858)年までの10年間の定免期間が終わり、改めて安政6(1859)年から10年間の定免を願い出た。それがこの文書。 奇しくも、定免期間が終わる10年後の1868年辰年は明治維新の年に当たるが、願い出の時点では、もちろんそれは分からない。 2 文書の前段の数字について 最初に書いてある高149石余は、検地で定められた小見村の村高(生産高)で、20町余は田畑の面積。これが、税はじめ各種負担の基礎数字となる。 連連引きとは、そこから生産不可能の土地分を引くこと。 残高147石余と19町余が、課税の対象。 取米とは、年貢米のこと。取米53石余を147石余で割ると賦課率は36%になる。 此の訳以下の記述は、上記の石高・面積を田と畑に分けたもの。 連連引きの内容は、夘年に大水で畑が欠損した分を差し引いたことが分かる。永久的に欠損すると永引きという言い方になる。 取米、つまり年貢分は、田畑合わせて53石余となり、前段の数字と合致する。 上述の課税率には畑の分も含まれている。それで、田だけで計算してみる。 取米41石余/田高110石余=38% ほぼ四公六民になるが、4割を下回っているのは、地味が劣る下田が多いせいと思われる。 なお、田高110石余を田9町余の数字で割ると、1反当りの収量は約11.5斗となる。 江戸時代初期の基本は、1反が1石生産できる田で、それは大人1人1年分の米150㎏の生産となる。江戸時代の半ば以降は、1反の生産量は200㎏位に上がっていたという。 小見村の1反当りの収量11.5斗は、172㎏。文書にある通り、地味がよくない田ということになる。 また、畑はどうかと見てみると、畑高36石余を畑10町余で割ると、1反当り収量は3.6斗で計算していることが分かる。 そして、畑の税率は、取米11石余/畑高36石余=約31% 畑の年貢は、金納の地域もあったとされるが、当地域では年貢米として納められていたことになる。 連連引きは、卯年の洪水によるとなっている。この文書より以前の卯年は安政2(1855)年になる。しかし、この文書より10年前の定免願にも、同じく卯年の洪水で、連連引きの畑面積も全く同じことが書いてある。ということは、もっと以前の卯年、天保14(1843)年の洪水からずっと連連引きの対象になっていることになる。あるいは、もっと以前からの連連引きなのかもしれない。 いずれにしろ、10年前の定免願と全く同文の文書を使っているので、単純に前回通りということで処理しているのかもしれない。 10年前の定免願は ⇒こちら 3 本文の意味について (3行目から) 小見村は、元来山水を用水にするやせ地で作柄はよくないところ。 その上、定免年季の切替(延長)の度に増米してきた。 それで、現在、高免状態になっている。 (当時とは、現在の意味。地味不相応の高免とは、土地の質に不相応の高免になっていること。高免とは、高い賦課率のこと。) だから、これまで通りの率で定免を願い出たいのだが、 (先御定免辻とは、これまでの定免の年貢でという意味。) (辻とは、高辻ともいい、年貢のこと。) しかし、御趣意(代官所の意向)もあるので、難儀なのだけれども、切替(延長)の増米を受け入れることにした。 だから、どうか書面にある分の増米で勘弁してほしい。 (勘弁は、お許しくださいではなく、よくよく考えて算段してほしいの意味。やめてほしいの意味もある。) 増米の高については、書面にある分でとある。その書面には、切替増(きりかえまし)3合と再吟味増7合の2通りの数字が書いてある。 これを単純に読めば、3合に7合追加して1升の増米とも読める。 しかし、10年前の定免願を見れば、切替増は4合と書き、それを3合に書き直してある。 10年前の文書は下書きなので、事前検討で3合でお願いすることに修正したようだ。 それで、10年後のこの文書でも、切替増は3合で願い出た。 しかし、代官所との交渉で、今回は4合追加して結局7合の増米になった。 こういうことではないだろうか。 4 まとめ 教科書的には、「百姓は生かさず殺さず」の言葉に代表されるように、年貢は強圧的にむしり取られるという印象が強い。 しかし、実際の古文書から感じる雰囲気は、決してそうではない。 耕作不可能地はちゃんと引いている。極端に不作の年は、定免期間内でも、臨時の検見が行われて、賦課率を変えたともいわれる。 10年間、作柄の良し悪しがあったとしても平均して36%の課税で、四公六民が守られ、しかも、地味に合わせて内輪の率になっている。 それに、江戸時代の税は村請制で、村単位の課税。だから、7合の増税も一村で7合。それほど過酷な増税というようには思えない。勿論、納める側とすれば少ないに越したことがない。だから、3合4合と少量でも、一応は抵抗して交渉したのだろう。 「御代官様、何卒ご勘弁を」の文言だと、いかにもひれ伏して「お許しください御代官様」と言っているような印象だが、勘弁の意味も、現代とは違う。 領主と領民、つまり武士と百姓は、厳然とした身分制度下にあり、税を少しでも多くとりたい側と少しでも少なくしたい側ではあるが、つまりは持ちつ持たれつの関係であって、どこかで折り合いをつけなければならない間柄なのだ。 |
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釈文 | |||||
読下し | |||||
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