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平田甲太郎家文書<皆済目録 安永7(1778)年 文書№601
 関川村広報紙2024年6月1日号掲載
<解説>
皆済目録とは、納税の完済証明書のことで、この文書は、安永7年12月に、預り領主米沢藩の代官所(上関陣屋)から上野山村に下されたもの。
課税は、その年の秋に「年貢割付状」によって領主側から村へ示される。それに従って、村は逐次納税し、その都度領収書(手形)を受け取る。全て納税が完了すると、領主側は手形と引き換えに皆済目録を発行する。
この目録の内容を表に整理してみると、下のようになる。

1 表の読み取り
  税は1~10まで10項目ある。それぞれの内容は次の通り。
(1) 項目1と2の税
本途(本途物成)は田畑にかかる年貢、小物成は田畑以外の税、見取は新規開発の田畑の税。合せて、米にして34石余。
嘉永2(1849)年の上野山村の定免願(⇒こちら )によれば、村高は約84石余なので、年貢率はほぼ4割で、四公六民になっている。
(2) 項目A~Jについて
A~Jは、項目1と2の34石余の内訳になっている。
ここをみると、34石余の内、実際に米で納めたのはA、H、I、Jの7石9斗5升で、それ以外のB、C、D、E、F、Gの計26石余の分は、米でなく永17貫52文6分の金で代納している。
ネットで調べてみると、米の代わりに金で代納することは、結構行われていたらしい。
(3) 項目3~10の税
3、4、7、9は、現物納を金で代納。
5、6、8は、元々金納か銀納の税。
10の山蝋実だけ現物納になっている。
(4) 金銀納の額
永納の合計は19貫279文5厘5毛で、銀納の合計は59匁5分4厘。これらの額は、最後の「納合」(納め合せ=税の総額)に記載された額と合致している。

2 「納合」の数字と 実際の米納との不整合について
「納合」では、米5石8斗3升8合と籾2石3斗2升5合が納められたことになっている。これらは、表の内訳にある「江戸御回米」と「大坂御回籾」の数字である。
しかし、内訳では、「大坂御回籾」は米で代納したことになっている。それに、内訳では、「大豆代米渡」と「倉敷小揚米」も米納しているが、それらも「納合」には出ていない。
このことをどう考えたらよいか。
冒頭に書いたように、納税は、一括ではなく何度かに分けて行われた。だから、内訳は、その都度の実際の納税の項目が表されているはず。
大坂御回籾は本来は籾で納めることになっていたが、実際は米で代納した。だから、江戸御回米を含めて米納は、A、H、I、Jの計で7石9斗5升になる。
その内、H江戸御回米を除いた、A、I、Jの米は2石1斗1升2合になる。
この数字が、「納合」には記載されず、米で代納したはずの籾の数字が書いてある。
どうして、このような記載になったのか。「内訳」のところでは実際に納めた米の分で書き、「納合」のところでは、本来の籾で書いたということだろう。
「納合」の籾2石3斗2升5合の数字の中に、実際に納めた大坂回籾の代米1石1斗6升2合5勺のほかに、AとJの米9斗4升9合が含まれていることになる。
そういう書き方でも、村側にも領主側にも、何も不都合はなかったということなのだろう。

3 金納の多さについて
本来の米納34石余に対して金代納分の米は26石余で、その比率は77.1%
つまり、年貢の8割近くが金納になっている。
また、永納と銀納の金銀を両を単位にした金貨に換算してみると、20両1分になって、その額が、意外なほどに多く、驚く。(換算方法は、5で)
金代納について、ネットで調べてみると、理由はいくつかあるようだ。
一つは、近隣の資産家が米を買い入れて、その代金で税を払う場合があったようだ。
買い取る理由までは分からなかったが、城下町などで売るためか、あるいは酒造に回すためか。または、米を大量に買い込んで自分で江戸大坂に送る回船業の商人がいたのかもしれない。いずれにしろ、米で利を得ようという商人がいたことになる。
もう一つは、米作が不作のため、やむを得ず金で代納する場合もあったようだ。
この場合、借金をするくらいなら、まずは、減税を申し出るはず。それをしないということは、不作の米に代える換金方法があったことになる。
現物で納めた山蝋(ろう)の実などは、それに該当するのかもしれない。山蝋は漆の実から採るロウソクの原料で、当時は貴重なものだったとのこと。だから、大量に採れれば相当の収入になっただろう。また、山蝋だけでなく、入会山の木を売ることも不作の年には行われていた。これについての文書は残っている。
ただし、安永7年を含めてこの前後の年が不作だったことを示す文書はない。いずれにしろ、現金の入手方法が上野山村にはあったということだ。
税の米は納税側が運搬していたようだから、農村側も領主側も、金納の方が運搬その他を考えれば都合がよかったということも考えられる。

4 永銭勘定について
永銭とは、金貨で納めるべき額を4進法の金貨では計算が厄介だということで、10進法の永銭で換算するための計算上の単位。
金1両=永1貫文 1/4両=金1分=永250文 1/8両=1/4分=金1朱=永62文5分
これを永銭勘定と言って、実際の支払いは金貨に換算しなおし、はしたは銅銭に換算する。つまり、永銭という貨幣は実際にはなくて、あくまでも計算上の仮想通貨ということになる。江戸時代の貨幣勘定は複雑だ。

5 上野山村が納めた金銀とその勘定
永納は、19貫295文5厘5毛と包歩銀(手数料)16文9分の、合せて19貫295文9分5厘5毛になる。永1貫が金1両だから、19貫は19両。はしたは、永250文が金1分だから、295.955÷250≒1.2分。合わせて19両と1.2分。
銀納は59匁5分4厘で、銀60匁が金1両だから、59.54÷60≒1.0両。
よって、永納分と銀納分を合わせると、ほぼ20両と1分くらいになる。
なお、文書の但し書きでは、金1両の米値段が書いてあり、それを永に換算してある。米の石数、金1両当りの米値段、そこから永銭勘定へと、こんなことがすらすらと勘定できていたとすると、江戸時代の人の頭は相当なものだと、ただ感心するばかり。
その上、それぞれの税目(品)ごとに金貨換算の値段が異なっている。納めた時期がそれぞれ違っていて、その時々の時価で計算しているのだろうか。

どのような計算になっているのか、少し試してみた。
(1) 願石代の場合・・・表の1-B 
  米8石1斗7合を永5貫407文2分で代納した。 これは、
  金1両に付 1石4斗9升9合3勺値段で換金している。
  これを計算すると
  (金1両=永1貫文=永1000文)÷1石4斗9升9合3勺
  =米1石当り 永666.9779文
  米8石1斗7合×永666.9779文=5449.209=5貫449文2分
  となって、ほぼ代納額になるが、永42文ほど少なくなっている。 
(2) 不熟米石代・・・表の1-C
  米6石3斗6升9合を永3貫411文で代納。これは、
  金1両に付 1石8斗6升7合2勺値段で換金。
  これを計算すると、
  (金1両=永1貫文=永1000文)÷1石8斗6升7合2勺
  =米1石当り 永535.5613文
  米6石3斗6升9合×永535.5613文=3410.990=永3貫411文
  となって、代納額に一致する。
やってみて思うに、算盤を使う簡単なやり方があったのかもしれない。それに、意外と計算が合ってない項目もある(1-Dの三分一金納は80文多い)。だいたい合っていればよしとして細かいことにはこだわらなかったのだろうか。不思議な世界だ。
原文
釈文
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