歴史館の古文書WEB分館へ戻る | |||||
平田甲太郎家文書<辰田新村と打上村の地所争い> 文化3(1806)年 文書№706 |
|||||
広報せきかわ2024年2月1日号掲載 | |||||
<解説> 土地の所属について、辰田新村分か打上村分か、争いとなり領主の役所へ訴え出となりました。 1 出訴から和解示談までの経緯 訴えたのは辰田新村の村役人(庄屋・組頭・百姓代)ですが、訴えられたのは勝蔵村の村役人になっています。その理由は、打上村の村役人は勝蔵村の村役人が兼任することになっていたからです。 訴えた先は、「御奉行所様」となっています。 当時、辰田新村は幕府領(前沢藤十郎預地)で水原代官所の管内ですが、打上村も勝蔵村も白河藩(松平越中守)の領地でした。ですから、白河藩の奉行所へ訴え出たことになります。この場合、訴状には水原代官所の添書きが必要でした。つまり、水原代官所の了解の下での訴訟です。 訴状が受理されると、御差日が指定され、その日に訴状に対する答弁書をもって出頭するよう、奉行所から訴訟の相手方への命令書が発行されます。担当役人の印があるので、これを御尊判といい、この命令書を訴訟人が受け取り、持ち帰って相手方へ示し、裁判に引き出すことになります。 事はそこまで進行したのですが、まだ裁判は始まってはいません。その段階で、扱人が選出され仲裁に入ったのです。 江戸時代の裁判の多くは、法廷審理に入る前に、現地熟談内済ということで、現地で仲裁人を立て、和解示談に持ち込むのが常套手段でした。 その結果出来上がったのが、和解示談の証であるこの「済口證文」です。 多くの場合、済口證文には、仲裁した扱人の名が記されるのですが、この文書にはありません。遠く離れた白河藩にとっては、それはどうでもよいことだったのかもしれません。 ただ、この文書が小見村の平田家に残ったということは、平太郎が扱人だったからでしょう。小見村庄屋平太郎は多くの争いで扱人の役を務めています。 なお、扱人は複数が普通です。この場合は、幕府領と白川藩領の双方から出すことになります。平太郎は幕府領からです。岩船郡内の白河藩領は桃川組に属していたので、もう一人の扱人は桃川村庄屋がなったと思われます。 2 和解示談の内容 (1) 争点 この文書の時から82年前の享保9年(1724年)に洪水があり、川水が押し寄せて耕作不能になった土地がある。そこは、今(文書の時)は水溜りになっている。 そこには、辰田新村分の田畑4筆分計2反4畝40歩と、打上村分の田計2反45歩があった。 80年もたって、水堪りの一部が干上がってきたのだろう、荒れ地になっているという。そこを両村で分け合おうとしたのだろうが、元の田畑の位置や境界が不分明で争論となり、出訴に至った。 (2) 和解内容 ①扱人が両村から書き物を取り集め、改めて調べたら、 水溜りの南西の方に辰田新村の荒れ地、 東北の方に打上村の荒れ地があることが分かった ②それで、荒れ地と水溜りの水面と若干の干上がり地を、 両村の元々の田畑面積に応じて案分し、その比率で 南西の方は辰田新村の所属、 東北の方は打上村の所属と決め、 地境に印を立てる ということで、決着。 3 御上の御威光により 済口證文の最後には決まり文句として「偏に御威光と有難き仕合せ」と書かれる。これは単なる飾り言葉ではない。 戦国時代の始まりは地方小領主の領地争いで、裁いてくれる御上がいないから実力行使。 勝つためにはより強い親分を頼り、その子分になる。相手も同様。小競り合いが絶えない。 親分の戦線は拡大、子分は従軍し、自分の領地を保障してもらう。親分が没落すれば、則、自分の領地は侵略される。逆なら領地増。だから、戦の連続。 (以上の経緯については、中公新書「応仁の乱」呉座勇一著に詳しい) 江戸幕府の権威によって、この負の連鎖に終止符が打たれた。 御上に訴え出れば、扱人を選定して、双方の利害を勘案し折衷案を出してくれる。 実力行使は不必要。 こうして平和は保たれた。有難き仕合せというもの。 長い戦国の世を経ての知恵。江戸時代の平和維持策は、もっと見直されてもいいように思います。 |
|||||
原文 | |||||
釈文 | |||||
読下し | |||||
意訳 | |||||
ページのTOPへ | |||||