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平田甲太郎家文書<辰田新村と小見村の境界確認>    
                
享保元(1716)年 文書№631
<解説>
文書の内容は入り組んでいて、一読しても分かりにくい。それで、解釈を含めた意訳を末尾に掲載しておいた。
それを基に、時間順を追って何があったのかを整理すると次のようになる。

元禄10(1697)年か、それより少し前のこと
  大水のため荒川の本流が辰田新村の方へ南下した
元禄11(1698)年、当時の領主村上藩が流路変更工事をして
  荒川本流の北側・小見村分の土地に堀川を掘った
  それで、南下した本流路と堀川の間に中島ができた
  その時、辰田新村と小見村の境界を確定し文書を取り交した
 確定した境界は
  荒川本流の南端から南側は、辰田新村の分
  荒川本流の北側の河川敷と中島は、小見村の分
正徳5(1715)年、辰田新村は元禄11年の境界確認を失念して
  荒川本流河川敷の北側にある中島に
  自分たちの持ち分があると思い込み
  そこに明新砂畑を開墾し
  それが、小見村との争論になった
享保元(1716)年
  争いは、当時の領主舘林藩の海老江代官所に持ち込まれ
  元禄11年の書付を元に、両村の言い分の聴取が行われた
  そこで、辰田新村の主張は間違いであることがはっきりした
  それで、赤谷村・土沢村・大島村の三庄屋が証人になって
  辰田新村から小見村へ、お詫びと約束の文書が出された
  それが、文書№631のこの文書
辰田新村から小見村へ、約束の内容
  正徳5年に開墾した明新砂畑の南端から北の方へは
  一切入らない(つまり、明新砂畑は小見村へ明け渡す)
  今後のため、辰田新村と打上村の水防土手から
  荒川本流河川敷南端(つまり、辰田新分の境界)までの
  距離を4ヶ所測って記録し、三庄屋に確認してもらった文書を
  提出した
  (今後荒川の流路が変わっても、この距離幅が境界線)
※ この文書に勝蔵村組頭・庄屋が名を連ねているのは
  打上村の村役人を勝蔵村が兼任しているから
原文
釈文
読下し
意訳
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