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平田甲太郎家文書<鮭漁川〆切訴訟の返答書>    
                
文化12(1815)年 文書№667
<解説>
小見村と湯沢村に訴えられた牛屋村の反論です。

文書の前段は、小見村と湯沢村の訴状の内容が書いてあります。
それによると、川を締め切って行う持ち網猟は、寛政6(1794)年に禁止された。それなのに、牛屋村は、その取決めに違反しているとの訴えです。

文書の後段は、訴えに対する牛屋村の反論が書いてあります。
自分たちは、瀬繰りという杭囲みの漁をしているのであって、小見村等は、何の証拠もないのに不意に難癖を掛けてきたのです。
もし、ほかの村々に迷惑をかけるような漁をしていれば、ほかの村からも苦情が出るはず。ところが、そんな苦情は出さていない。それなのに、ずっと上流の小見と湯沢だけが鮭猟に差障るなどと言っている。訴えられるような理由は、ないのです。
小見の平太郎は、今回だけでなく、しょっちゅう村々へ難癖をかけては訴訟を起こしているのです。どうか訴えは差し戻してください。そして平太郎を懲らしめてください。

平太郎の難癖訴訟批判には、文化3年の田麦掘割訴訟も入っているのでしょう。

さて、この訴訟の結果はどうなったか、それが分かる文書はない。
しかし、この3年後、文政元(1818)年に、もっと多くの村々を巻き込んだ争いになって、その際に和解取決めした済口證文が残っている。(文書№503)
その文書によると、下流の村で締め切り持ち網猟をやっていたことは事実。
どうやら、文化12年のこの争いでも、田麦掘割訴訟同様、平太郎の訴えは正当なものだったようです。  ~文政元年の文書(№503)は、追ってUPします~
原文
釈文
読下し
意訳
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