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平田甲太郎家文書<明暗寺(虚無僧寺)文書2通>   
                
天保10(1839)年文書№345 №682
広報せきかわ2024年7月1日号掲載
<解説>
普化宗(ふけしゅう)明暗寺(みょうあんじ)は、旧南蒲原郡下田村中野原(現三条市)にあった虚無僧寺。
三条市HPには、次のように書いてある。
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普化宗明暗寺は、元禄4年(1691)村松から下田中野原に移され、廃宗となる明治4年まで約200年間続きました。寺とはいっても、まったく異質で、深編笠に袈裟を着け、帯刀し尺八を吹いてまわる虚無僧(武士)の寺でした。幕府の軍役寺として隠密や国事犯の逮捕も義務づけられ、さらに諸国の情勢をさぐる任務を負っていたため、幕府の犬とよばれ警戒されました。役人でも勝手に出入りできず、浪人や殺傷犯人の隠れ場となり、しだいに品格も落ちていきました。下田の一揆では、寺に役人らが逃げこみ百姓にとり囲まれ、打ちこわしにもあいました。現在は歴代座主や僧の墓のみが当時を語る寺跡として残っています。
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明暗寺の本寺は京都にあり、この寺に所属する僧が虚無僧。
時代劇ファンにはおなじみ、深編笠に着流し袈裟がけのスタイルで、尺八を吹いて歩く独特のいでたちをした武士。
虚無僧は、町や村を旅して歩いていた。それらの中には、幕府公認の特権を振りかざしてか、我儘勝手なふるまいをする者もいた。
それで、困った村々は、明暗寺に頼んで村を留場(出入り禁止の村)に指定してもらい、その代わりに留場料を払った。それが、この2通の文書の主旨ということになる。

文書№345は、小見村を留場に指定したことを伝える證文。
公儀御用と一時的な寺の用以外は、村へちょっとでも立ち寄ったり宿泊したりすることを禁止した。
期間はこの年の9月から1年間。留場料として、村高(検地に基づく生産高)100石当り銀2匁の割合で納めるようにとある。
末尾の留場振替の節というのは、よく分からない。

文書№682は、留場料の受取文書。
小見村の留場料は銭300文。
弐匁の文字は弐両とも読めるが、前の文書で銀2匁のことだと分かる。
100石当り2匁だから、小見村の石高は147石ほどでほぼ3匁になり、銭に換算すると300文になる。(金1両=銀60匁=銭6000文の計算で)
この文書には、「明暗寺の留場」と書かれた札紙がついている。よからぬ虚無僧が来たら、これを示して入村を断ったのだろう。
言って見れば、神社のお札のように、このお札を銭300文で買ったことになる。
銭300文というのは、現代の金ではどのくらいになるのだろうか。
文書№601の安永7(1778)年「上野山村皆済目録」(⇒こちら)に、当時の米の値段が書いてある。それによると変動はあるが、平均的にはおおよそ金1両の米は約1石5斗くらい。現代の米価が4斗(1俵=60㎏)で2万円として、これを基に換算すると、1両はほぼ8万円くらいになる。
金1両は銭6000文として、1両8万円なら、300文は4000円という計算になる。
1年契約だから、こんな文書が毎年あったのかもしれないが、残っているのはこの2通だけ。この年から留場になって、その後は毎年銭を払えば、留場札はそのまま有効だったということかもしれない。

なお、100石に付、銀2匁ということは、  銀60匁=銭6000文 とすると 銀1匁=銭100文、つまり、銀2匁=銭200文 小見村の村高は147石で、約150石とすれば、 銭300文ということになり、実際払った留場料と一致する
文書№345   原文
文書№345   釈文
文書№345  読下し
文書№345   意訳
文書№682   原文
文書№682   釈文
文書№682  読下し
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