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<嘉永3(1850)年 荒川中島の新田開発  関係文書四通>
① 5月 上関村庄屋寅吉から 小見村・上野山村・瀧原村役人宛
   「畑地空地譲渡対談取極書」平田家文書№531
② 10月 小見村・上野山村・瀧原村役人から 水原代官所吉岡賢助宛
   「畑地空地譲渡上申書」平田家文書№525
③ ②の文書の下書き平田家文書№597
④ 11月 三ケ村畑地空地持主42名連名 上関村庄屋寅吉宛
   「畑地空地譲渡證文」平田家文書№594
 (村広報紙の記事では、紙幅の関係もあって、③を除いた)
 広報せきかわ 令和5年4月1日号 掲載
下の地図は現在
~解 説~

<中島について>
 荒川と大石川の合流点には、かつて大きな中洲があって、「中島」と言っていました。
 もっとも、大河川の荒川には中島が多く、単に中島と言っただけではどこの中島かわかりません。
 この文書の中島は、「上関村地内、字六本杉」と地名が記されているので、大石川と荒川の合流点の中島のことだと分かります。
 この「中島」は、昭和42年の大水害とその後の改修で姿を変え、今は、トンボ池のある河川公園になっています。(地図参照のこと)

<四通の文書の内容>
①は、上関村庄屋寅吉が、「中島」の土地を買い取るに当たり、持主の小見村・上野山村・瀧原村三ヶ村と取極めた内容の確認を求めたもの
②は、三ヶ村から水原代官所の役人へ、「中島」の土地を寅吉へ譲渡すると届け出たもの
③は、②の下書き
④は、三ヶ村の土地の持主全員が、寅吉へ土地を譲渡することを承諾した証文

①の内容
・ 中島の新田開発のため、六本杉の前川から分水し、治郎左衛門新田の用水路を拡げる
・ 開発面積は、三ヶ村の持分合計7町1反2畝4歩で、納税の基準高は22石7斗4升7合
・ 合わせて、三ヶ村入会地になっている川原や古川敷も譲り受ける
・ 代金は、金213両永640文で、話がまとまった
・ この後、測量を行い、用水路ができたら代金を払い、証文をもらう
・ その後の新田開発の段になって異議など出ないように、この取極め書を取交す
②の内容
・ 中島にある土地三ヶ村分合計面積7町1反5畝4歩を上関村庄屋寅吉へ譲渡する
・ 納税基準高は、24石5斗4升7合
・ 畑は田に替え、野地や古川敷も新田にする寅吉の計画に、三ヶ村は全く異議なく村内一同納得している
・ この上、貴方(代官所役人)に御苦労をおかけすることはない
・ 以上について、粗絵図面を添えて、申上げる
③の内容・・・②に同じ
④の内容
・ ①の面積・石高の畑地と空地、ほかに河原の野地と旧河川敷も併せ、絵図と検地帳写しをつけて、譲渡代金は金213両永640文
・ このことを代官所も承知したので、持主一同相談し、寅吉に譲渡することに決定した
・ この度、代金を確かに受け取り持主銘々に分けたので、土地は寅吉へ渡すこと
・ 以後、この土地は寅吉が所持し、もし、土地の境のことで隣の持主などといざこざが生じたら、(元の持ち主である)三ヶ村が引き受けて問題を解決し、寅吉には損を掛けない
・ 来年3月からの年貢や諸役は、寅吉が務めること

<補足>
 土地面積、石高が②の文書だけ少し違っていますが、その理由は不明です。石高は納税の基準になるので、代官所が少々多めに見積もらせたのかなどと邪推しています。
 当時は土地の私有はありえず、すべて公有。売り買いはあくまでも利用権の譲渡が建前。代官所の事前了解が必要です。
 だから、③の下書きは、事前に代官所とすり合わせたのではないかと思います。いきなり売買結果を届けるということはないでしょう。寅吉にしても、事前に代官所の内諾を得ていると思われます。
 代官所としては、納税を確保できる相手であるかどうかが大事です。まして、畑や荒れ地から新田への開墾開発となれば、その後の年貢の増加を期待できますから。

 ①②④の三通がセットになっているお陰で、当時の土地の売買にかかわる持主(売主)、代官所、買主の三者関係が分かります。
 ところで、①と②の文書には、差出人に印が押してありますが、④には印がなく、かつ訂正箇所もあります。さらに、①と②には、文書の紙の継ぎ目に印が押してありますが、④にはそれもありません。  このことからすると、
   ①は、寅吉からの実物文書(正本)
   ②は、代官所へ宛てた文書の控え(副本)
   ④は、四十二名が押印する前の下書き ということになると思います。

 それにしても、小見村から4㎞(1里)も上流の「中島」に三ヶ村が土地を所有していたのはどういう理由なのか、興味がありますが、今のところ謎です。
 ただ、耕作等のために川舟を使って川を上下していたことは十分想像できます。底の平らな川舟は、流れの急な瀬でも、岸辺の流れが比較的緩い浅瀬を
川石に底をこするようにしてさかのぼっていくのを、子どもの頃何度も見ています。荒川沿岸で暮らす人々は、多く川の民でもあったようです。
① 5月 上関村庄屋寅吉から小見村・上野山村・瀧原村役人宛
      「畑地空地譲渡対談取極書」
 平田家文書№531
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② 10月 小見村・上野山村・瀧原村役人から
  水原代官所吉岡賢助宛「畑地空地譲渡上申書」 
平田家文書№525
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③ ②の文書の下書き 
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④ 11月 三ケ村畑地空地持主42名連名
     上関村庄屋寅吉宛 「畑地空地譲渡證文」 
平田家文書№594
          
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