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年不明 鉄炮・槍・長脇差禁止の御触書 平田家文書№741
関川村広報誌 令和5年3月号掲載
平田家文書№741「水原代官所の御触書」解説

無宿人対策について
 江戸時代も後半になると、幕府は無宿人対策に手を焼いています。
 安永7(1778)年の江戸無宿人大量逮捕、佐渡送りの事件はよく知られています。「郷土史辞典 新潟県 昌平社1979年刊」によれば、幕末まで1876人もの無宿人が江戸や大阪から送られ、佐渡金銀山の水替え人足として働かせたとあります。
 無宿人は、戸籍簿である「人別帳」から外された者。その原因は、所払いの処罰、勘当、家出、逃亡、様々だったようです。身元が不確かであれば定職にもつけない浮浪人。
 それらが徒党を組み、長脇差などを腰に差し、中には槍・鉄砲まで持って、博奕や乱暴のやり放題。百姓町人の中にも、その仲間に入るものが出てくる。まるで渡世人のヤクザ映画、国定忠治の世界です。その増加は、社会の治安を不安定にしたでしょう。ネットで調べると、同じような内容の御触書が、時期を別にして、各地に出されていたようです。

御触書について
 御触書は、幕府で作成され、各地の代官所へ送られました。「村上町年行事所日記」には、幕府の文書が宿継ぎで到着したので代官所へ届けたという記述があります。宿継ぎは、宿場から宿場へと物品を送り継ぐ仕組みで、公用は基本無料で送るのが宿場の義務です。時には、旅の途中難儀な目に遭った人も宿継ぎで家へ戻したという記録もあります。
 この御触書もそのようにして水原代官所に届き、庄屋達を集めて伝達したのではないでしょうか。
 高札場だけでなく、村役宅前にも張り出せとあります。庄屋宅前とか役場前でなく村役宅前ということは、組頭や百姓代の家の前にも張れということでしょうか。代官所から示された一枚を書き写して必要枚数にしたのでしょう。「鉄砲」の砲は、当時は火へんの「炮」を書きますが、原文が2ヶ所とも金へんの「鉋」に見えるのは、書き写した人の勘違いのような気がします。
 そもそも水原代官所の役人はたったの5人という記録があります(租税大学校「租税ジャーナル」2013年)から、代官所で管内庄屋数分を用意したとも思えません。庄屋を集めては、幕府からの一枚を書き写させ、「厳しく言い渡して」持ち帰らせたのかもしれません。どうもそんな気がします。
 御触書の漢字には、一部、読みがながふってあります。有名な慶安の御触書も、漢字のほとんどに読みがながふってありました。当時の読み物本などは、大部分ひらがなで書いてあって、多くの人はひらがなは読めたようです。それで、難しい漢字には読みがなをふって、だれにでも伝わるようにしたのでしょう。
 もっとも、当時のひらがなは、いわゆる万葉仮名のような漢字を崩した文字で、今の私たちには漢字以上に読みにくい文字です。

蒲原・岩船郡大騒動について
 郷土史では「野口騒動」という言い方もされてきました。旧荒川町の野口新村と旧中条町の菅田村で主導者が逮捕されたということで、「野口騒動」や「菅田騒動」という呼び方もされるようです。
 騒動の様子は、次の図書に詳しくあります。
  新潟県発行「新潟県のあゆみ」 p229
  井上鋭夫著「新潟県の歴史」山川出版p197
 両書とも、この大騒動に無宿人がかかわったという記述はありません。
 御触書には年が書いてなくて、ただ「亥二月」とあるだけです。たまたま、この大騒動の文化11(1814)年が戌年で、その翌年亥年の早々に出された御触書ではないかと、筆者の単なる当て推量。
 大騒動の年は、各地で一揆や騒動が起きています。我が関川村には波及しなかったとはいえ、騒動の前夜、大島村の芝居興行で不穏な動きがあったとの記述もあります。全体として不穏な空気が流れていたのでしょう。こんなとき、無宿者に騒動を起こされては大変と手を打ったのではないかと、そんな推測からです。「死罪」「重科」の語は重く大きく響いたでしょう。
原文
釈文
読下し
意訳
 
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